第8話 暗躍
〈魔物〉の襲来を受けていながら、余り損害が無かったのか、野火邸は贅沢な造りを留めていた。
北斗と那由他は野火邸で持て成しを受け、夕食後、居間で静香から町の最近の様子を聞いていた。
「……すると、昼に会ったあの司祭の御陰でこの町は平和を保たれているのか?」
「そう。〈魔物〉がこの町に大挙して来た時、あの『名無しの司祭』様が現れて、不思議な力で皆んな追い払ってくれたのよ」
「不思議な力……?」
那由他はきょとんとするだが、本心からのものではない。
「ええ。突然、司祭様の身体から光が放射されて、それが巨大な竜巻となって〈魔物〉を全て空の彼方に飛ばして下さったの。あたし、実際にその目で見ていたけど、余りに一瞬の事だったので、夢でも見ているのかと思ったわ……」
「……光、か」
北斗は俯き加減に小首を傾げる。
「……ラフィ様から聞いた『禁呪』で、そんなのがあったな。確か『マピロ・マハマ……』だったか?」
「え?」
北斗の呟きに、静香はきょとんとする。
「否、何でもない」
首をゆっくりと横に振る北斗は、呟きを誤魔化す様に、左脇に置いていた愛刀の鞘を手に取った。
「日本刀?」
「ああ。一般に知られている物と少し趣が違う処はあるが」
北斗は鞘を縛る赤と紫の斑の紐を摘みながら、
「こいつは、平安時代中期以前に使われていた上古刀と呼ばれる、反りの無い直刀を参考に、俺の死んだ親父が鍛え上げた業物で、『迦楼羅』と言う」
「『迦楼羅』……変わった名前ね?」
「インドのヴェーダ神話に出て来る、鳥の王の名から取ったものだ。勇猛な大鳥で、天界の神々をして斃す事が叶わなかったそうだ。結局、神々はその力に感服し、迦楼羅を自分達の仲間に迎え入れたと言われている。迦楼羅が羽ばたく様に軽やかに、そして激しい太刀筋を得られる様に――なんて願いから付けたそうだ。日本刀独特の反りが無いお陰で、鞘からは抜き辛いし、手首で円形運動を造らないと引き斬りも出来ないわで、非常に使い辛い奴なんだ。本当、気障な事考えている暇があるなら、もっと実用的にしてほしかったぜ」
「なにいってんの。ロマンチストなパパじゃない。あんたも少しはロマンを持ったらどうなのよ?」
那由他が意地悪そうに突っ込んだ。
「ロマンで飯が食えるか」
北斗は面白くなさそうにぼやいて応えた。
那由他はそんな北斗に肩を竦めてみせ、
「あいかわらずつまんないヤツ。このネクラ!」
「喧しい。このチンクシャ」
「『チンクシャ』……?」
那由他は、その言葉の意味を知らなかったが、隣で呆れ顔で苦笑する静香の様子から、それが酷い悪態である事を察し、きっ、と北斗を睨み付ける。北斗も負けじと睨み返し、いつの間にかそれは、自らの顔を徹底的に崩し合うにらめっこ合戦と化していた。
傍らで蚊帳の外にいた静香は、尽きない二人の百面相を見て済まなそうに苦笑していたが、やがてその笑みには、何故か陰りが見え始めていた。
「……?」
最初にその陰りに気付いたのは、北斗だった。両人差し指で口を左右に引いて舌を出していた北斗は、視線を那由他から静香の方に移して真顔に戻る。那由他も漸く静香の様子に気付いて、それを追った。
「……どうしたの、静香さん?」
あたし……明後日、生け贄になるの。
「――ううん」
静香は目尻に溢れかけた涙を拭い、
「何でもないの。……只、あなた達を見ていると、今、あたし達を取り巻いている怖い出来事が、本当は悪い夢じゃないのか……なんて思えて……」
そこまで言って、静香は俯いて嗚咽を始めた。
「静香さん……」
那由他はつられて込み上げて来るものを堪えつつ、静香の傍に寄って宥めた。
静香が抱いたその思いは、決して彼女だけが覚えたものではない。
この『闇壁』内に取り残された人々が皆、一度は思った事のある昏い哀しみであった。
(しかし……彼女の場合は特別だな)
北斗は顔には出さなかったが、『迦楼羅』の鞘を握るその手には、ひし、と力が込められていた。
* * *
「――司祭様 今、何とおっしゃられました?」
「……生け贄が不要になった、と言ったのだ」
思わず瞠って、少し裏返った声で聞き返した野火に、『名無しの司祭』は素っ気なく答えた。
夕食後、野火は北斗達の接待を静香に任せ集会場へ芳光の捜索の事後処理に向かった。
その途中、野火は夜の帳の中からにじみ出て来る様に現れた『名無しの司祭』と出会った。司祭から告げられたこの思わぬ吉報に、野火は今まで心を覆っていた昏い靄がパァッと晴れた様な気分になった。
静香を生け贄に出さずに済み、安堵に胸を撫で下ろして思わず鼻を鳴らす野火であったが、『名無しの司祭』が未だ何か言いたげに憮然としている事に気付き、慌てて彼の顔を伺った。
「……どうかなされたのですか?」
「うむ。確かに静香を生け贄にする必要はなくなった。――それは、新たな生け贄が現れたからだ」
「新たな……?」
暫し飽気にとられる野火は、ふと浮かんでしまったある考えに愕然となる。
「――まさか!」
「然様。――今日、この町にやって来たあの娘だ」
「そんな?!あの二人は芳光の恩人ですぞ!しかも、この町には全く関係の無い者……それを……貴方様は、恩を仇で返せとおっしゃるのですか!」
野火は、余りにも理不尽な言い種に怒りを爆発させる。彼の怒りは決して浅く無く、今まで密かに沸沸と煮えたぎっていたのが、とうとう限界に達したものであった。
『――愚か者がっ!!』
それはまるで地の底から響いたかの様な、この世のものとは思えぬ、戦慄すべき司祭の凄まじい一喝であった。
野火の顔が見る見る内に青ざめる。今まで敬愛していた偉大なる人物が、この様な声を――否、声だけでなく、暗闇越しに僅かに見えるその顔が、邪悪な歪みを見せている事がとても信じられなかったのだ。
『貴様は我が主の御心に逆らうか?――ならば、この町を守護する結界を今直ぐ取り払ってくれようぞ!』
「ひぃ! そ、それだけは御勘弁を……ど、どうか、お怒りをお納め下さいませ……」
理不尽への怒りと言う立派な態度は既に消え去り、余りにも禍禍しい司祭の怒りに、野火は完全に飲まれてしまった。唯々、司祭の怒りを鎮めようと狼狽するその不似合いな様は、情けないを通り越しで、何処か哀れに見える。
『ならば、我が主の御心に従うが良い』
いつの間にか司祭の顔から険が取れ、平生の慈愛に満ちた笑顔に戻っていた。野火はそれを見て、ほっ、と胸を撫で下ろす。
だが、野火は安堵の余り、その優しそうな態度の中に見え隠れしている邪悪な表情に全く気付いていなかった。
『……野火よ。お主には妻と子がおったな……』
「――!?」
野火は、はっ、として司祭を見る。
野火の脳裏に、『大気震』で崩れ落ちる瓦礫の下に、断末魔を上げながら吸い込まれて行く妻と娘の幻影が膨れ上がっていた。
(……俺はあの時……二人を助ける事が出来なかった……二人が瓦礫の雨に呑み込まれて行くのを只、見ているしかなかった……!)
愕然とする彼の肩は静かに、そして哀しげにわなないていた。
『……実の子で無いとして、しかし同じ血が流れる肉親。そ奴らの血が、目前で流れる辛さを、二度と見たくは無かろう?』
『名無しの司祭』はそう言って、ケープの下から、握り拳大程の香炉を取り出した。
『あの娘は儂が連れていく。――しかし、その為には連れの男が邪魔になる。そこで、この『魔縛香』を焚き、あの男の動きを封じるのじゃ。何、この香を嗅いでも死ぬ事は無い。事が済むまで暫し麻痺させておくのだ。これも、お前の――否、あの姉弟の為だ。良いな?』
野火は浮かされる様に手を指し出す。しかし思い止まって握り拳を造った。
ふと、野火の脳裏に芳光と静香の笑顔が浮かんだ。
(――くっ!)
とても切ない幻影が脳裏にはっきりと焼き付いた時、野火は投げやりな貌をして、半ば引ったくる様に香炉を掴み取った。
終始、その手は震えていた。
『名無しの司祭』はそんな野火を見て、あざ笑うかの様に口元を吊り上げた。
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