第6話 エルフの聖女
天空より降り立つ、蒼色の壁。『多摩川の障壁』と呼ばれる、東京二十三区をすっぽり包み込んだ巨大な結界の異名である。関東平野が『闇壁』に包まれて間もなく、第二の『闇壁』が、その内部で出現したのだ。
何の気紛れであろう、奇怪な事にその新たなる『闇壁』は、丁度二十三区の外周境界線に沿って、不破の結界を張り巡らしているのである。余りにも外連味溢れる造りが故に、人々は、この創造主の真意を掴みあぐねていた。
川崎市中原区・上丸子天神町。
四ケ月前ならば、此処から多摩川を挟んで読売巨人軍の多摩川グラウンドを眺める事が出来たのだが、今や『多摩川の障壁』によって、硬球を打つバットの高い音を聞く事も叶わず、都心方面を望む事も出来なくなっていた。
そこに、多摩川を越えて都内に入る事が出来る丸子橋と呼ばれる橋がある。矢張りその橋も、『多摩川の障壁』の影響を免れる事は出来ず、橋のほぼ中央で分断する様に、侵入脱出、何れも叶わぬ不可思議な黒い光の壁がそそり立っているのだ。
その丸子橋の結界壁の前に、一人の美女が佇んでいた。
金糸のデコレーションを施したシルクのケープを纏い、清流の如き綺麗な金髪を冠し、白雪の様な白い肌で織られた美貌の中に、乙女の様な可憐さと、何事にも動じる事の無い賢者の冷厳さを兼ね備え、決して他人を見下す事の無い、慈愛に満ちた眼差しをくれる美女。
『神々しさ』というものが肉体を持ったのならば、それはまさに彼女の事に相違あるまい。
『聖女』。
彼女を讚える言葉はこれ以外無かろう。
彼女の名はラフィ・アヴァータ。
〈中華街〉近くにある外国人墓地の一角を占める、閑静な森の中に建てられてあった小さな教会で、司教を務めている聖職者である。
彼女は人に非ず。外見こそ普通の人間と際立って異なる所はないが、恒久の時の流れに朽ちる事を知らない永遠の若さを持ち、人間がとうの昔に忘れてしまった、自然が語り掛ける言葉を五感で見聞き応える力を備えた、『自然の友人』と言う語意を持つ『エルフ』と呼ばれる、何と実存する精霊なのである。
人を超越した存在故に、比類なき『魔導力』と、それと正反対の超エネルギー――『心力(しんりょく)』を持つラフィは、『大気震』直後、何処からともなく現れ、『魔導力』に目覚めた人々に魔法を使う術を教えた、大いなる存在の一人でもあった。
人々は、その絶大なる力と、聖母の様な慈愛の深さを讚え、ラフィを『エルフの聖女』と呼んで慕っていた。
夕映えの中、ラフィは結界壁を見つめたまま、沈黙していた。黄昏の曖昧な景色の中に於いても、その美貌を曇らす哀しみは遠くから見てもはっきりと判るものであった。それは、ラフィの目前にある巨大な壁は、彼女に備わる偉大な力を以てしても太刀打ち出来ぬ強大なものである事を物語っていた。
不意に、ラフィの背後で巨大な黒い影が吹き上がった。
「ラフィ様。井の頭の冬斐様から連絡が入りました。西の結界はなお強固、引き続き解呪を続行する、との事です」
「……御苦労です、ロバート」
ラフィは、巨漢の従者に振り向いて頷いた。
背丈は優に二メートルを越し、右手に、穂先から水返しまで三メートル半、両刃の長剣をそのまま刀身にしてしまった様な巨大な朱塗りの槍を持つ、迷彩服にスチール製のプロテクターを着込んだ赤い肌の巨人。――元・在日米軍特殊部隊の隊長であり、浅黒い肌で厳格そうな風貌を持つロバートは、何処か浮かない顔をしてラフィを見下ろしていた。
「……どうかしたのですか、ロバート。そんなに浮かない顔をして…?」
「いえ。もう八時間も、お一人で解呪を続けられて…お疲れになれているのではないかと…」
己の身を気遣うこの厳格そうな従者の静かな優しさに、ラフィは聖母の如き微笑をくれて、ゆっくりと頭を振った。
「有り難う。でも大丈夫です。この『多摩川の結界』に閉じ込められている都内の人々の苦しみに比べれば、私の疲労なぞ苦痛のうちに入りません」
微笑して言うラフィであったが、この『多摩川の結界』を打ち破る為に、彼女が他の魔導士達と共に、この障壁の前で解呪を始めてから、既に一週間が過ぎていた。
障壁の結界を破るのならば、先ず、この関東平野を包み込む『闇壁』を――と、普通ならそう思うだろう。
それが叶うのならば、疾うに人々は『闇壁』の結界を破っている。『闇壁』の結界は、三ケ月間もの解呪作業を持ってしても亀裂一つ入らなかったのだ。
ところが、その解呪作業の中で、意外な所で成果が得られた。
それは、『闇壁』同様に張られていた『多摩川の障壁』の結界に、解呪の兆候が見られたのである。
『闇壁』を破る事が叶わず、自分達の力不足に魔導士達の中に苛立ちが見え始めた頃、ある一人の魔導士が、ホンの気晴らし程度に『多摩川の障壁』に対して、結界の解呪を施した事があった。
ところが、その魔導士が力を集中した箇所を中心に、何と直径三メートルもの穴が生じたのである。
穴は二、三日で消えてしまったが、その穴から、二十三区内で逃げ惑っていた人々が大勢脱出する事が出来たのだった。
ラフィ達は、脱出して来た人々の話から、二十三区内でも、人々が〈魔物〉達と必死に闘って生きている事を知り、『闇壁』から脱出する計画を変更する事にした。
先ず結界の解呪に望みのあるこの『多摩川の障壁』を打ち破り、二十三区内に生き残っている人々を助け出した後、体制を整えて彼らと力を結集し、改めて『闇壁』を打ち破る事にしたのである。
当初の計画がまさに百八十度変更されてから、丁度一週間が経過していた。
ラフィは他の場所にいる魔導士達と同様、今日も朝早くからこの前に立ち、自然界の法則を変換させる『魔導法』と、信心深い聖職者のみに許された『心力法』の限りを尽くして、障壁の結界の解呪に励んでいたのである。
しかし、ラフィがたった一人で手掛けているこの作業が、想像を絶する苦行である事は誰の目にも明らかである。
まる一日、交代は愚か休息もせずに、たった一人で解呪の為の魔力を消費し続ける事が、どれ程の体力・精神力を要するものであろうか、考えてみれば直ぐに判るハズだ。
他の解呪地点では、十名の魔導士からなるチームが交替制をとって解呪作業を行っており、それでも尚、既に二割もの魔導士が力尽き倒れているのである。
ラフィの居る丸子橋の解呪地点では、ラフィの他には三人の魔導士と、『魔導法』が使えないロバートを含め、十一名で構成されたロバート傘下の特殊部隊しか居なかった。
しかも、その魔導士の内二名が、長期の解呪作業から力尽き、近くのキャンプで床に臥せっている惨憺である。残り一名に関しては人数不足からその二人の看病に付きっきりになってしまい、ラフィ一人で解呪作業を頑張って行っているのだ。
だがそれに対し、ラフィは不満の色一つ見せていない。
元々、この三人の魔導士達は、ラフィ直々の指示によって同行して来た、〈中華街〉のラフィを除いた即ち人間の魔導士の中で一、二を争う実力を持った者達である。
先日来の『闇壁』解呪に最も尽力を尽くし未だ回復し切れていないにも拘らず、力のある限り解呪に努めると主張して休もうとしない彼らに、ラフィは精神的な負担を与えぬ様解呪地点まで呼んで、そこで休養させる腹積もりであった。
「無理はせぬよう、休める内は休みなさい。回復して落ち着いたら、直ぐにこちらへ手伝いに来てくれれば、それで充分です」
毎日、解呪作業の終わる夕刻に、床に伏せる魔導士達へ、聖母の様な穏やかな笑みを浮かべて見舞うラフィの顔には、不思議と疲れの色など全く見られなかった。
それは単に、ラフィが人知れず悠久の時の流れを生き抜いてきた超越した存在の一人だからだけでなく、彼女の持つ懐の深い慈愛の心が、疲労を持ってしても曇る事を知らないからなのだろう。
ラフィの疲れ知らずは今に始まったものではない。関東平野が『闇壁』に閉ざされて間も無く〈魔物〉の猛威に逃げ惑う人々の前に突如現れた彼女は、その絶大なまでの『魔導力』を持って、次々と魔物の群れを撃破して行った。昼夜問わず、傷付き倒れた人々を間断なく守り続けた美しき勇壮は、未だ人々の語り種である。
一時の恐慌も、〈魔物〉に対する対抗策が見つかった事で、生き残った人々に秩序が戻った頃、〈中華街〉近くの教会に落ち着いたラフィは、今度は『魔導士』の中で素質のある者に、『心力法』を説き始めた。
『心力法』。
『魔導』同様、実行者の『活力』を用いてこの世ならぬ超エネルギーを解放し、自然界の法則を変異させる人外の秘術である。
だが、術の行使に際し用いる超エネルギーは、『魔導』で用いる『魔界』の『魔力場』から召喚する、破壊を目的とした『魔導エネルギー』ではない。
『心力法』に於ては、『活力』そのものを自然界の法則を変異させるエネルギーとして使用するのだ。
『活力』は、自然界に属する生命全ての源である。『心力法』はその生命を育むエネルギー、即ち創造の為のエネルギーを用いる事で、先述の様に、傷つき倒れた人々を瞬時に癒す正真正銘の『奇跡』を成し得るのだ。
但し、その『奇跡』は誰にでも出来る、と言うものではない。
『心力法』を行使する術者は、先ず己が『活力』を解放しなければならないのだが、それは決して容易な事ではなかった。
各々が持つ『活力』は、自分の命を育む為に必要なものであって、『活力』を他人に分け与える事は、文字通り魂を削る行為である。
先述の『魔導法』に於ても、同様に『活力』を消耗して術を行使するのだが、その際使用する『活力』の量は微々たるものである。
無論、その量の多少に拘らず消費するのであるから、魂を削る行為には変わりない。だが自然界の法則を変異させるエネルギーの八割を『魔界』の『魔力場』から召喚した『魔導エネルギー』に依存しており、『活力』は飽くまでも『魔導エネルギー』を召喚する為の餌に過ぎないのである。
『心力法』は、百パーセント『活力』に支えられた秘術。故に、『活力』の消費量は『魔導法』の比ではなく、術の施行をしくじれば、実行者の生死に拘る問題が生じる。
人間は、命に拘る問題に直面すると、先ず防衛本能が働き、自然と自分の身を守ろうとする。それは避けられない本能であり、『心力法』の様な命懸けの行為には、必ずと言って良い程妨げとなって、『活力』を簡単には解放させてくれないのである。
では、如何にして、防衛本能を乗り越えるのであろうか?
それは、『自己犠牲』、『奉仕』の心を高める事で、絶対と思われている防衛本能を押えるのである。
古来、奇跡と言うものが、捨て身で他人を守ろうとする思いが昇華した時に発現されていた事を思えば、当然の事なのかも知れない。
主に、神父や僧侶といった聖職者に、自己犠牲心の強い傾向の者が多く見られた。宗派は違えど、その教えの根底にあるものは、全て『他人を慈しむ』事であるからだ。
ラフィによって『心力法』を学んだ彼らは次々と『闇壁』に閉ざされた関東平野に散り宗教を越えた、そして彼らが信じていたものの根底に共通して流れていた一つの尊い繋がりを信じて、今の瞬間も何処かで、傷つき倒れた人々を癒しているハズである。
だが、そんな聖職者の彼らの『活力』を持ってしても、『死』を癒す事は叶わなかった。
例外は、たった一人。
それがこの『エルフの聖女』、ラフィ・アヴァータであった。
それが偽りで無い証拠に、ラフィがこの地に現れて最初に蘇らせた死者こそ、彼女の背後で控えているロバートなのである。
横須賀の悲劇の後、ロバートは生き残った部下数名と、運よく助かった民間人二十名を連れて磯子まで逃げ延びたが、土壇場で〈魔物〉の群れに包囲され、皆を脱出させる為に命を落としてしまった。
その時、近くに居た別の避難民の中で治療に尽くしていたラフィが気付いて駆け付け、〈魔物〉の群れを『魔導法』で撃退した後、『心力法』究極の秘術・『蘇生』の呪文によってロバートは蘇ったのだ。
ラフィの絶大な力とその慈悲深さに感動したロバートは以来、ラフィに絶対的忠誠を誓い、彼女の守護者として、常にその身を彼女の傍に置いているのである。
『死』さえも癒すその絶大な力。それは即ち、死神が手にし断魂の鎌の刃を持ってしても、ラフィが携える、他人を慈しむ力強い魂の絆を断つ事が叶わないからなのであろう。その懐の深さを知った者の中に、『聖女』の二つ名に異論を唱える者は決していなかった。
「……ところで」
ロバートを見るラフィの顔が不意に曇った。
「先刻、南の方で妙な『瘴気』を感じました。もしや、〈横須賀〉の〈魔物〉に不穏な動きでも見られたのでは…?」
「否、その様な話は耳にしておりませんが…御心配の様でしたら、念の為、〈中華街〉の留守を守られているヴァルザック殿に連絡を…」
「あたしが見に行きましょうか、先生」
その声は、ロバートの背後から聞こえた。
ロバートが振り返ると、そこには、白いローブを纏った金髪碧眼の美少女が一人立って微笑みかけていた。
「エリス? いつの間にキャンプから戻って来たんだ?」
「ついさっき、二人が話し始めた頃よ」
エリスと呼ばれた金髪の美少女はそう答えて二人の傍に歩み寄る。
「先生、キャンプで寝込んでいる安藤さんと広瀬さんは、ヴァルザックに頼んで調合してもらった回復薬が良く効いたみたいで、夕方には起き上がれる様になりましたわ」
「そうですか。それは良かった」
「明日から現場復帰出来ると言ってましたけど、出来れば午後からにする様、先生からも言って下さいね。皆、先生には及ばないけど、ここ暫く無茶しっぱなしでしたから、休めるうちは出来るだけ休んだ方が良いと思いますから」
「判りました。二人には明日一杯休んで貰う事にします」
「でも、それは先生も同じなんですよ」
エリスはローブの合わせから突き出した右人差し指でラフィを指して心配そうに見つめ、
「いくら疲れ知らずでも、誰にも限界は必ずあるんですから。出来れば先生も明日くらいはお休みになられた方が良いと思います」
ラフィは、美しき弟子の心配する表情に、少し困ったような顔で返答に窮し、傍らのロバートの顔を見上げて助け船を求めた。だが二人の間に立つロバートも、エリスと矢張り同意見であるらしく、苦笑いして頭を振った。
「……まぁ、考慮しておきます。それよりも、先程の南方の瘴気の件ですが……エリスは今日、〈中華街〉に戻っていた時、何か変わった事がありませんでしたか?」
問われて、しかしエリスは頭を振った。
「全く無かった訳ではありませんが…。北斗と那由ちゃんが一昨日、男の子の病人を連れ帰った事と、川崎の方であの魔人が目撃されたぐらいです」
「魔人!?」
突然、ロバートの顔が険しくなった。
「まさか、あの魔人が再び活動を――?」
「心配要りませんわ、ロバート。あの方は敵ではありませんし、なにより私が感じた瘴気はあの方のものではありませんでした」
「しかし――」
なおも不安な顔で食い下がるロバートに、ラフィは微笑んでみせた。
「もし、私の推測通りなら、私達が出るまでも無いでしょう。それに、〈中華街〉には彼が残っていますから、大丈夫です」
「彼?」
きょとんとするロバートをよそに、ラフィは微笑して南方を見た。
「……多分、二人とも既に動いているハズでしょう。瘴気の件は彼らに任せて、私達は障壁の解呪に専念しましょう」
南方を見るラフィの微笑は、安堵に満ちていた。一片の陰りも無いその瞳が遠観するものは――
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