第4話 名無しの司祭

 芳光が住む高田町周辺は、『大気震』の大崩壊を比較的免れた地域の一つであった。しかし、『闇壁』に包まれて〈魔物〉が猛威を奮い始め、数多くの人命が奪われる様になると、高田町の人々は自警団を結成し、妖物達に対抗し始めた。

 しかし自警団の結成間も無く、かつて無い規模の〈魔物〉の群れが高田町に襲撃を開始した。人々はその圧倒的な猛威に死を覚悟した時、白いローブを纏った一人の異邦の男が現れた。

 『名無しの司祭』。

 魔界と化したこの関東平野で、純粋に聖職者として生きる事を決意した為に己の名を捨てたという彼は、高田町で暴れ回っていた〈魔物〉の群れを、何とたった一人で一掃したのである。

 一瞬の出来事であった。彼の掌から発せられた眩い光は、〈魔物〉の群れの中心を撃ち、やがてそこから生じた巨大な光の竜巻が全ての〈魔物〉を飲み尽くして天空に運び去ったのである。

 〈魔物〉に為す術も無く蹂躙されていた高田町の住民達は、圧倒的な力で〈魔物〉を追い払ったこの不思議な救世主を快く歓待した。救世主を持て成す席で、『名無しの司祭』に是非、皆で恩返ししたいと言う声が上がったのも当然の事であった。

 『名無しの司祭』は、人を救うのは当然の事、と言ってその申し出を丁重に断ったが、町の人々は、それでは気が済まないと粘った結果、彼はとうとう折れた。

 救世主が望んだ報酬は、流石、俗物の望む様な浅ましい望みでは無かった。細やかで、しかし、スケールは大きい。

 『名無しの司祭』は、高田町から丁度真南の方向にある、『大気震』に由って崩壊し掛けていた、新横浜の『横浜アリーナ』に教会を造るので協力してほしい、と望んだのである。町の人々はそれを聞いて痛く感銘し、協力を誓った。

 『名無しの司祭』が現れてから、警戒しているのか、〈魔物〉は余りこの辺りに現れなくなっていた。そのお陰で、高田町近辺には懐かしいかつての平穏が甦り、教会建設作業は予想外に捗った。高田町から新横浜の間で小規模のグループを作って生活している、他地区から流れて来た避難民達も事情を聞き、喜んで教会建設に協力してくれたのも要因の一つであった。

 皆の協力で生まれ変わった横浜アリーナ――<横浜アリーナ教会堂>の威風堂々たる姿を前にして、あの『大気震』を生き残り、昏く陰る明日しか見えていなかった人々は、溜り掛けていた疲労感を忘れて、自らの手でこれを築き上げた事に筆舌に尽くし難い感銘を覚え、失い掛けていた希望を取り戻し始めていたのは言うまでも無かろう。

 教会建立後暫くして、『名無しの司祭』が張った強大な結界のおかげで〈魔物〉も近付かなくなり、教会建設の協力してくれた避難民達を迎え入れて人手の多くなった高田町に漸く復興の兆しが見え始めた、そんなある日の事だった。

 高田町内で、連続殺人事件が発生した。

 二十歳前後の若い女性が十人も次々に殺されたのである。しかし、それは明らかに人間の仕業では無い手口であった。


 この狂った、閉ざされた世界で、人間が人間を喰い殺さないかぎりは。


 安全と思っていた結界内での凄惨な事件に住人達は戦慄し、『名無しの司祭』に救いを求めた。すると司祭はどこからとも無く、自分の部下であるという四人の神父を呼び寄せ、彼らに高田町の護衛を命じた。

 住人達は四人の神父の指示によって、町の周囲に結界処理を施した防壁を築き上げ、高田町を城塞化し、四方に神父達を配置させる事で、守りを強化したのである。

 その結果、高田町内での殺人事件はぴたりと止まり、住人達はやっと平和が戻って来たと、安心して復興に乗り出せる様になった。

 ところが住人の中で一人だけ、不安を消し去れない者が居た。

 六人目が殺された晩、偶然彼はその現場を家の窓から目撃していた。何故か胸騒ぎがして夜半に目を覚ました彼は、窓から何気なく見た家の前の道路に、殺された六人目の首を両手に持っていた人影を目撃したのである。

 目撃者は余りのショックに声も出せなかった。それが幸いし、犯人は目撃者に気付く事無く、犯行現場から立ち去った。

 翌朝、町内は騒然としたが、目撃者は恐怖の余り、月明かりに浮かんだ犯人の人相を皆に語る事が出来なかった。思い出すだけで、声帯が麻痺し、声にならないのである。

 まさか、その犯人と再び会おうとは、目撃者も思わなかった。

 犯人が、『名無しの司祭』に仕える神父の一人であったとは――。

 それでも目撃者は神父の一人が犯人であるとは誰にも言えなかった。言っても信じてもらえないだろうし、何より、犯人が気付いていないからこそ自分の身なのであって、話したら最後、自分が新たな犠牲者になるに決まっている。

 しかし最近、その犯人が目撃者の姉の周辺に頻繁に現れるようになり、姉の事について色々嗅ぎ回っている事を知った時、目撃者は勇気を振り絞って町の外に助けを求めに出たのであった。

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