第2話 北斗と那由他

 少年が、小高い丘の上から波濤煌めく海を見つめて佇んでいた。

 少年は学生である。紺の詰め襟の学生服を着ているので、一目でそう判るのだが――しかし、その学生服は、アメリカン・フットボールで使われるプロテクターに似た形状の、鏡の様に思わせる程に表面を丁寧に磨き抜かれた鋼鉄の胸当てと、両手足に、胸当てと同じ素材で出来た手甲とレガースを装着した、本来の目的から掛け離れた、まるで少年漫画のヒーローみたいな、物凄いセンスの代物だった。

 少年がこのいで立ちで勉学に励む姿は、想像にも難い。むしろ想像する方がどうかしている。

 少年が腰に差している朱色の鞘に収まる大刀は果たして何の為か。――このいで立ちは、少年がこの地で生き残る為の、紛う事無き『鎧』なのである。

 炎を思わせる貌をした少年だった。

 微風に静かに靡くたてがみがそう思わせているのだろう。

 たとえ、目の前で誰かの命が失われる様な事があろうとも全く動じないであろう、見た目から十六、七才位のその若さに不相応な冷厳さを周囲に放つ鋭い眼光を帯びた三白眼は野性味を感じさせ、それでいて目鼻立ちの整った典雅そうな造りをした少年の相貌は、まるで戦国時代の凛々しい若武者を思わせる。

 この奇妙な少年は、しかし、今の関東平野ではそう珍しい存在ではない。

 半年前の“それ”を生き残り、間もなく現れた〈魔物〉の呪われた牙を掻い潜って生き続けた者達全て、同様な印象を持っているのだ。


「……<横須賀>……『破滅の街』か……」


 少年の視界の果てにある海の手前に、街があった。

 神奈川県、横須賀。

 東京湾の出入り口である浦賀水道を房総半島と挟む、三浦半島のほぼ半分を占める大きな街である。

 だが、今や誰一人として住んでいない、広大な無人の廃墟と化していた。

 この街に在留していた米軍が、核兵器を使用した事で滅んだのである。

 但し、核兵器の破壊力に依って滅んだのではない。

 米軍が核兵器を使用してまで斃そうとした〈魔物〉の群れに滅ぼされたのだ。


 当時、太平洋での日米合同演習の視察を終え、横須賀米軍基地に碇泊する第七艦隊所属空母エルビスを訪れていた米国大統領ヴェルンド・ゾナは、米軍基地周辺に出現した〈魔物〉達にかつてない危機感を抱いた。


「――OH、MYGOD!」


 敬謙なクリスチャンであったヴェルンド・ゾナ大統領は、形を成した審判の日におののき、浦賀水道沖海底に碇泊していた米軍原潜を浮上させ、中距離核ミサイル発射命令を下した。

 一発で優に関東平野を壊滅させる破壊力を持つ核ミサイルを、ヴェルンドは潜水艦に配備されていた十発全弾、〈魔物〉の群れに発射させた。

 果たして、基地に迫り来るその群れの中に見事全弾命中した。

 その時、奇跡は起きた。――否、それを果たして奇跡と呼んで良いものなのか。

 あろう事か核ミサイルは全て、大地に突き刺さったまま爆発しなかったのである。

 この関東平野を包み込んだ『闇壁』の中では、如何なる爆発も許さない不可思議な作用が働いていた。

 確かにその所為もあったろうが、横須賀の惨劇に居合わせて運良く生き残れた者の談を信じるのならば、――着弾直前に〈魔物〉の群れから放たれた灰色の眼光を浴びるや、核ミサイルは一瞬にして石柱の矢と化し、大地に突き刺さった、と言うのである。

 物質の元素配列さえも一瞬にして変えてしまう魔力を持つ〈魔物〉の群れは、核ミサイル攻撃に逆上し、横須賀米軍基地に大挙して襲い掛かった。

 横須賀米軍基地は為す術も無く、僅か半日で壊滅し、大統領もろとも空母エルビスは灰燼と化して、浦賀水道の底に消えて行った。

 米軍基地を壊滅させ、勢い付いた〈魔物〉が猛威を奮った結果――僅か一夜にして、三浦半島は〈魔物〉の巣窟と化したのである。

 無論、少年が現在居る逗子市内も、のんびりと横須賀方面を眺めていられる程、安全な場所ではない。

 少年は、ある刹那を待っていた。


「……?」


 背後に、何かの気配を感じた。だが少年は、振り向いて確かめようとはしない。

 少年の背後には、うっそうとする杉林があった。

 その杉林が成す暗闇の帳の中で、灰色の眼光が見え隠れしていた。


「……来たか」


 少年は迫り来る気配に注意しながら、恐らく日本刀であろう、朱色の鞘に収まった大刀の鯉口を親指で切った。

 杉の木がメキメキと音を立てて震え出す。

 次の刹那、杉林の中から巨大な黒い影が飛び出し、少年の背中に覆い被さる様に飛び掛かって来た。

 少年はそれに呼応する様に、鞘から引き抜いた日本刀を握り締めて引き抜く。そして振り返りもせず、踏ん張った左足を軸にして、閃光と化した刀身を弧を描く様に背後に薙いだ。

 その刃先の残光は光の扇を虚空にもたらし、飛び掛かって来た黒い影へ、光を散らしながら白く滲んだ。

 刹那、黒い影は一瞬にして分断された。

 二つになった黒い影は、分断面から濃緑色の飛沫を上げながら地面に落ちた。

 それは、滑りとした光沢を持ち、まるで蛇に手足を付けた様な、細長い胴体を持つ大トカゲだった。

 大トカゲは胴体を輪切りにされその断面から溢れる夥しい濃緑色の血を地表に撒き散らして、のたうち回っていた。

 大トカゲの胴体の断面は、余りの疾さに閃光が残る程の凄まじい断ち筋に、細胞組織が潰れておらず、CTスキャナー写真の如く奇麗な輪切りになっていた。何とも豪快かつ壮絶な剣技であろうか。

 少年が手にする日本刀は、刃こぼれ一つしていない。それは少年の剣の実力ばかりではなく、念入りに鍛え上げられた業物である為なのであろう。

 少年は、背後でのたうち回りやがて痙攣して絶命するであろう大トカゲに一瞥もくれず、剣身についた緑色の血を振り払って拭い、優雅そうにゆっくりと刀を鞘に収めた。

 ところが、刀の鍔が鯉口を鳴らしたと同時に、大トカゲの上半身が前足を使ってやにわに立ち上がり、渾身の力を振り絞って少年の背後から襲い掛かって来た。

 少年は、振り向かなかった。

 鷹揚とした背中を、まるで背後の敵に気付いていないかの様に、無防備にしているのだ。

 大トカゲの巨大な顎が、今にも少年を飲み込もうとしていた。

 突如、大トカゲの動きが止まった。

 大トカゲは振りかぶって右方向を見る。

 そこに、大岩があった。

 大人は無理だが、子供が隠れるには手頃な大きさの物である。

 大岩の方を見た大トカゲは、切れ上がった紅い両目を目一杯瞠っていた。

 驚いている、いや、恐怖していると言っても良いだろう。

 この魔物はどういう理由か、大岩に何か得体の知れぬものを察知して戦慄しているのである。

 その大岩の後ろから、一つの小さな白い影が飛び出した。

 大トカゲが躊躇した次の瞬間、大トカゲの上半身は紅蓮の炎に包まれ、蛇の様な細長い身体をのけ反らせて倒れた。

 大トカゲは、大岩の後ろに隠れていた小さな白い影から、何らかの攻撃を食らって燃え上がった。大トカゲの上半身は炎の中でのたうち回りながら炭化し始め、やがて粉々に崩れ落ちた。

 大トカゲの黒い肌から艶が失われ、髪の毛を燃やした時の様な、蛋白質が焦げる悪臭を伴った黒煙の煙が辺りに籠り出した頃になって漸く、少年は背後に振り返った。

 煙の向こうに、先述の小さな影があった。

 その影は少女の姿をしていた。

 薄紫のシャツに、ピンクのサスペンダースカートを履き、その上に白のケープを纏っている。

 見た目から大体十一、二才であろう。将来美人になる事が約束された、まだ幼さを残したあどけなくも可憐な顔に、梳くと煌めきが散りそうな綺麗な金髪を冠する彼女は、手にする奇妙な杖の先を、少年の方に向けて構えていた。


「北斗! あれほど油断しちゃいけないっていったのに!」


 少女は、北斗と呼ぶ少年の顔を睨み付けて叱咤した。


「『魔眼獣』がどういうわけか、あんたをおそうのをやめてくれたから、この『炎の錫杖』にふうじこめられた『炎波』の魔法で焼き殺せてよかったけど……〈魔物〉はしぶといんだからね!

 とくにこの『魔眼獣』は身体を二つに切ったって死なないのよ!

 いくらこいつの『魔眼』に見入られない限り石化しないといっても、噛み付かれたりしたら石になっちゃうのに!」

「那由他が何とかしてくれると思ってた」


 北斗は肩を竦め、恍けた口調で言ってみせた。

 那由他と呼ばれる少女は、北斗の恍けた口調に、その愛らしい顔に不似合いな眉の顰め方をして、


「……バ、バカ。いまの世の中、自分でやれることをやらないでいたんじゃ早死にする、っていったのは北斗、あんたでしょ?」


 那由他は不機嫌そうな顔をして北斗を睨んだ。

 それでいて怒っている様には見えず、何処か憂いを帯びた哀しそうなものにとれた。


「……悪りぃ」


 北斗は、そんな那由他へ済まなそうに、ぺこり、と頭を下げた。


「……もう」


 那由他は困った顔をして、


「まったく、いつもそんなチョ~シなんだから。まあ、いいわ。予定どおり『魔眼獣』はたおせたんだから」

「那由他。早く脱脂綿で奴の死体から血を採ってくれ。死んでいるから、触っても石化する事は無い」

「あいよ」


 北斗に促されて、那由他はケープの下に忍ばせていたポシェットから脱脂綿を取り出す。そして『魔眼獣』の下半身の切り口に近寄り、あふれ出る緑の血を脱脂綿で吸い取り始めた。

 脱脂綿はみるみる内に緑色に染まる。那由他はそれ以上血を吸収出来ないと見ると、緑色の脱脂綿をポシェットに放り込み、再度、未使用の脱脂綿を取り出して吸い取り始めた。


「ねぇ、北斗。ばるたっくのおぢさんから聞いてたんだけど、『魔眼獣』の血が石化をふせぐ力をもっている、ってホントなの?」


 脱脂綿に『魔眼獣』の血を吸わせる作業を十回繰り返してから、那由他は怪訝そうに訊いた。


「幼獣相手に石化しなかったのが証拠だ」

「……へ?」

「良く見な。4メートルしかないこいつは脱皮前の幼獣だ。成獣は倍の8メートル以上ある。幼生体の『魔眼獣』の『魔眼』は、かつて横須賀に撃ち込まれたミサイルを石化させた程の強力な魔力を備えている。自分の身体も石化しかねないくらい強力な力なんで、体皮組織に免疫が出来て脱皮するまで、体内を流れる血液内に抑制用の抗体が含まれているのさ。ほれ、那由他の足許を見な」


 促され、那由他は自分の足許を見遣る。

 傍らの『魔眼獣』の死骸から、北斗の足許まで十メートル。巨大な岩から切り出して造られた長さ十メートルの一枚岩の石畳が、北斗の足許に一直線に伸びていた。

 石畳のほぼ中央に、石畳と一体化した、石畳と同じ石で出来たススキの穂と見つけた時、那由他の円な瞳は、これ以上無いくらいに瞠った。


「――なんであんた石化しなかったのよ!?」

「俺が石化しなかったのは、今度の仕事を頼んだヴァルザックの親父が、店に残っていた『魔眼獣』の血を俺の鎧に塗ってくれたからだ。もっとも、あのC調ス~ダラ親父の言う事だ。効くかどうか、眉唾ものだったがな」


 命懸けであった所業を、まるでそれが只のゲームであったかの様に飄々と語る北斗に、那由他は未だあどけなさを残すその幼い顔に困惑の色を奔らせた。


「……あたしゃ今日ほど、あんたのその度胸がこわいと思ったことはないよ」


 半ば呆れ顔で自分を睨んで言う那由他に、北斗は無言で薄らと笑みを浮かべてみせた。


「まっ、考えてみれば、今の世の中、それぐらいの度胸がなきゃ生きのこれないか」


 毎度の事なのか、那由他は吹き出して北斗の背中を平手で叩いた。


「どうしたの、北斗?」


 那由他は、北斗が何故か背後の杉林の方を食い入る様に見つめている事に気付いた。

 杉林の奥を注意深く見つめているこんな北斗の眼差しを、那由他は良く知っていた。


「……〈魔物〉でも居るの?」


 北斗は何も応えず、ゆっくりと杉林の方に歩き出した。

 刀は、抜いていない。

 だが那由他は、たとえ不意を付くものが現れようが、北斗の必殺の居合いによって先刻の『魔眼獣』と同じ運命を迎える事も、那由他は良く知っていた。

 杉林に向かう北斗の歩みが、不意に止まる。


「……〈魔物〉ではなかった様だ」


 ぼそりとそう言う北斗の視界には、杉林の中で、背中を紅く染めて倒れている少年の姿があった。

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