class - mate

小深田 とわ

CLASS-MATE

達也タツ君、一緒に帰ろっ!」


 ふわりと風が戦ぐ様な、温かみと包容力に満ち溢れた声が届く。

 達也が声の主を探し首を動かすと、頬をプニュッと指圧される感触を覚える。


「何だ、彩香アヤか」


 達也と彩香は市内の同じ高校に通う二年生。半年ほど前に達也の方から告白し、交際を開始させている。

 半年というのは長い様で短い。約180日に及ぶ時の流れも、盲目的恋愛志向の前では微々たるもの。客観的事実と主観的感覚の乖離が最大となるモノ、それが時間なのだ。

 今日もまた授業が全て終了し、漸く下校する時間だ。日輪は西の空に傾き、帰宅を告げる黒鳥の鳴き声が、黄昏色の空に木霊する。


「よし、帰るか」


 達也はリュックを背負い右手を差し出す。ゴツゴツした筋肉質な手。男性的で包容力のある大きい手。彩香はうん、と頷くとその手を取る。

 後頭部で一つに纏められた射干玉の長髪と、雪色の肌が織りなすコントラストに達也は笑みを零す。ふわりと揺れる花弁のように優しく横に並ぶ彩香を見て、達也は改めて感謝の言葉を心中で発する。

 俺のような大した魅力がない極普通の高校生によくこれほどの彼女が出来たものだ、といつになっても驚かされる。

 美女と野獣という話がある。これは圧倒的対極にある一組の男女が織りなす感動の恋愛物語だ。

 対極にあるからこそ見えてくる彼我の魅力。対極にあるからこそ差し出される救いの手。まだあの作品の方が現実味ある物語だろう。

 しかし、彩香と達也はどうだろうか? 美女と野獣というよりは、美女と村人Bの方が適切だろう。村人Bに魅力はあるだろうか? 村人Bに支援を要するほどの危機は訪れるだろうか? 答えはノーだ。故に、この組み合わせは美女と野獣以上に非現実的だ。

 しかし、二人が付き合っているのは事実だ。達也が告白し、彩香がそれを承諾した。それは紛れもない事実だ。

 何故、彩香が達也の告白に対し首を縦に振ったのか。それは達也にもわからない。彩香にのみ知る秘密だ。彼女はこれを口外するつもりはない。秘密は秘密であるからこそ秘密として輝くのだ。そしてその輝きは女を女として彩り、内在する蠱惑的魅力を最大限引き出す。

 妖艶な彼女の心は一層その色彩を増し、彼女のみならず達也の生きがいを形成する。それは、彼の学校生活及び日常生活内の役割を促進させるのに一役買うのだった。

 二人は教室を出ると玄関まで手をつないだまま談笑する。話す内容は主として今日あった事。授業やテスト、部活、休み時間。話題に尽きる事は無い。


「彩香はもう課題終わらせた?」


「課題って何の?」


「ほら、来週提出する英語のやつ」


 ああ、あれね、と彩香は得心し頷く。当然の事ながら、いつも通り満面の笑みを絶やすことなく。


「勿論。とっくに終わらせたよ」


「今度一緒に勉強しない?」


「えー。自力でやろうよ」


「はいはい」


 課題にしろ勉強にしろ、自分の力で遂行して初めてその効力を示す。他者の力に依存して、楽の上に胡坐をかいている様では、一体どうして成長を手に入れることが出来るだろうか。

 学習とは、人の成長を促進し、人生をより豊かにする知識を育むものだ。大人になり、就職し、給料を得て、家庭を持ち、家族を養う。その全てに適応する普遍的な土台。それが知識だ。

 その為、学習を経て、知識を獲得し、人生をより良いものとする。与えられた課題を一人で熟す事は最低限の義務なのだ。

 それを高校生の内から全て把握するのは困難だ。寧ろ、不可能と言っても過言ではないだろう。しかしその失敗もまた、人を成長させる。

 学校を出た達也と彩香は、生産性の乏しい当たり障りのない日常会話を流しつつ、通りを進む。

 黄昏色の夕焼けが二人を正面から照らし出し、同色に染まった二人の目は、その光を遮断するかのように細い。緩やかな坂道を下りながら、二人は歩調を揃え、のんびりと家路を歩む。

 やがて、進行方向の右手に見慣れたファミリーレストランの看板が煌々と輝く。学校帰りの高校生や、少し早めの夕食にしよう、とやって来た家族連れで連日繁盛している。


「ちょっと寄って行かね?」


「うん、いいよ」


 二人は駐車場わきに設けられた階段を上り、二階へと上がる。土地の狭さと需要。倒錯的な二つの関係により導き出された構造は、一階を駐車場とし、二階を店舗として活用するこのスタイルだった。

 高校生の二人をして少々急に感じる階段を昇り、二人は店舗入り口の扉を潜る。チリンチリンという高い鐘の音が鳴り、来客の知らせを従業員へ伝える。


「いらっしゃいませ。二名様でございますね。喫煙席なら空いていますが、そちらでもよろしいでしょうか?」


「はい、大丈夫です」


「畏まりました。こちらへどうぞ」


 二名様ご案内です、と店内に響き渡る声を聞き流し、達也と彩香はテーブル席へ案内される。

 時間が時間だけに、制服姿の高校生、仕事終わりのサラリーマン、家族連れの核家族、祖父母と子と孫の三世帯家族。非統一的で色鮮やかな集団構成が各テーブルを盛り上げる。

 従業員たちもまた、矢継ぎ早に運び込まれる注文伝票に悪戦苦闘しつつ、額に汗をにじませていた。

 そんな店内を見渡しつつ、二人が案内されたのは喫煙席のテーブルだった。高校生の二人は当然のことながら煙草を吸える年齢ではない。しかし、元々二人とも煙草の臭いには大した嫌悪感を覚えない為、無理に喫煙席の空きを待つ必要はない。

 そのお陰か、或いは偶然にも客足が少ないのか、待ち時間ゼロで席に着けた二人は、メニュー表を眺めつつ、談笑を再開させる。


「そういやさ、彩香ってもう進路決めた?」


「取り敢えず、大学に進学しようかなーって思ってるけど、まだ具体的にはね……。達也君はどうなの?」


「俺? 俺は、高校卒業したら消防士になろうかと思っててさ。それで色々準備してる」


「いいね、消防士。達也君ならいけるよ、きっと!」


「そうか? まあ、やるだけやってみるさ」


 そこで談笑を一時切り上げ、先に注文だけしよう、とメニューを眺める。

 話の話題があっちへフラフラこっちへフラフラ。唐突に挟まれる現実的なやり取り。計画性の欠片もない、打算的で直情的なやり取りが実に高校生らしい。経験の乏しく、未発達な思考能力は、無駄を無駄として処理するのではなく、それすらも日々の楽しみに消化してしまうのだ。

 何と羨ましい事だろうか。時間と責任の後ろ槍に追い立てられ、切迫した時間を過ごす労働者たち。彼らの瞳には見えてこない、休息と安らぎの作業活動。限られたこの時をいつまでも過ごしていたいと大人たちは願うが、時の流れは残酷だ。どれだけ渇望しようとも、どれだけ希おうとも決して戻らぬもの、それが時間だ。心なしか、周囲の席についている全くの無関係である大人たちも、彼ら青少年に対する眼差しは何処か温かい。

 そんなことも露知らず、彼らは彼らの時間を彼らの思うがままに過ごしていく。

 やがて二人は、注文するものを決めると、テーブル脇に置かれたワイヤレスチャイムに手を伸ばす。

 ピンポーンと店内に呼び鈴の音が鳴り響く。

 混雑した店内に対し限られた従業員。ホールと調理をあわせても二桁に届かないであろうごく少数の労働環境。それにも係わらず、店員は伝票を手に二人の座するテーブルまで駆け付け膝をつく。

 ご注文はお決まりでしょうか、尋ねる店員に対し、二人はドリンクと、軽食を幾つか注文する。


「畏まりました」


 疲労に起因される逆説的な笑顔なのか、或いは労働意欲から齎される本心による笑顔なのか、或いはただの社交辞令的営業スマイルなのか。それを二人に知る術はない。寧ろ、そのような些末事は彼らの心にはない。

 今の二人の心にある物はお互いの事だ。両者の間を満たす、完熟に一歩及ばない酸味と甘未が綯交された苺のような空気は、初々しくも本格的なそれ。それが運命であったかのように疑義の念を一切持ち合わせない純粋な両者の心は、全くの他人から見ても思わず目を覆いたくなるほどに眩しいものだ。

 一部界隈では、カップルに対し“リア充爆発しろ”という言葉が最早決まり文句として定着しつつあるが、この二人の関係を見ればそれもむべなるかな。

 甘く優しく刹那的でありつつも恒久的でもあるそれは、第三者の心に暗い影を落とす。まさに“他人の不幸は蜜の味”の対極に位置する理論だ。他人の幸福は、己にとって劣等感の象徴であり、彼我の心理的幸福度を比較するのは、人間が思考する生き物であるが故の本能に近い反射的行動なのだ。

 幸福の絶頂にして人生のターニングポイントを現在進行形で疾走する彼らには到底理解しえない理論を余所に、二人の甘く温かい談笑はその花弁を広げる。先ほどまで進路の話をしていたはずなのに、と思わず突っ込みたくなるほど瞬間的に話のネタは変わり、二人の会話は転換する。


「そういや、部活の方はどうなったんだ? 確か、来月試合だったろ? やらなくていいのか?」


「そうそう。確か来月の15日……だったかな? そこが試合なんだけど、休むことも大事だからって今日は休みになったの」


「そうか。これが引退試合になるかもしれんからな。ちゃんと勝てよ?」


「うん。今の感じだったら、県大会くらいまでなら問題なく勝ち上れるかな? そこから先はまだわかんないけどね」


「さすが、地区大会ベスト4常連さんは、言う事が違うねー。県大会までは余裕とか、一度でいいから言ってみたいもんだ」


「もう、からかわないでよ」


「すまん、すまん」


 バドミントン部に所属する彩香は、その類稀な運動センスも相まって地区大会では勿論、県大会においてもある程度上位まで安定して勝ち上がれるほどの実力を有している。

 その姿は、可憐という声よりも美麗という声の方が多く、大会中は同性異性問わず黄色い声援が後を絶たない。

 とても高校から始めたとは思えないほどの成長度合いで並み居る強敵を打ち破ったその姿もまた、達也が彼女に惚れたきっかけの一つでもあるのだ。

 それに比べて、と達也はいつも自分と彩香を比較してしまう。

 達也は中学からテニスを始め、高校でも同様にテニス部に所属しているのだが、イマイチ成績が振るわない。高校三年間は、常にベンチウォーマーだった。この最後の大会でもお情けから団体戦のメンバーとして名前が登録されているが、恐らく出番はないだろうと諦観の境地で部活に参加している。


「達也君だって、団体戦こそまぁあれだけどさ。個人戦には出場してるんでしょ?」


「ああ」


「だったらさ、団体戦の事は忘れて個人戦の事を考えようよ」


「でもな……」


 運ばれた軽食を手に持って、彩香は達也をビシッと指差す。


「でもじゃない。折角楽しいムードなんだから、湿っぽい考えは無し! いい? 達也君だってもう六年続けてるんでしょ? 凄いじゃん! 私だってまだたったの三年だよ。だったらさ、その経験の長さだったら他の人にも負けないと思わない?」


「ああ、そうだな。すまんな」


「ううん。俯いてる達也君より、ちゃんと顔を上げて真っ直ぐな目をしてる達也君の方が好きだから」


 顔を赤らめてボソッと呟く彩香の言葉に、達也の思考は停止する。人間というものは、不意な一撃に弱いのだ。それまで彩香の口から語られることのなかった好意の言葉。行動でこそ相互的な信頼関係の構築を感じる事が出来ていたものの、こうして言語化された意識の共有は付き合ってから初めての事だった。

 やがて、ちょっと顔を赤らめるだけだった彩香も事の重大さに漸く思考が追いついたのか、耳の先端まで真っ赤に染め上げた。その色は茹蛸と形容してもよい程で、目の前にいる達也自身、思わず不安になるほどの相貌だった。

 パタパタと足を揺れ動かしながら顔を手で覆い隠す彩香の姿は、これまで以上に可憐に感じられた。勿論、それまでの彩香が可憐ではなかったわけではないのだが、ただでさえ可憐だった彩香がより一層可憐に感じられた。

 漫画のキャラクターがアニメーションになるとより映えるかのように、純粋に可憐な人に感情が加わったことで、その可憐さに磨きがかかったのだ。

 やがて漸く心の整理がついたのか、肩で息を切らしながら彩香は顔を覆っていた手をおろす。未だに耳の先まで紅潮したままで、達也の言動を窺い知るかのようにチラチラと目線を送る。

 その姿を見た達也は、フッ笑みを零すと、彩香に優しく語り掛ける。


「ありがとう、彩香」


「う、うん」


 ほら食べるぞ、と軽食に達也は手を伸ばす。それを見た彩香もややあって軽食を頬張る。

 リーズナブルで味も良いと評判のファミリーレストランだが、両者ともに、今日だけは何時にも増して美味しく感じられた。

 やはり、食事という概念は感情に隷属される行動だ。僅かな心情の変化、情動の波がこれほどまでに味に作用する。何と幸福な事だろうか。

 ポジティブ思考は食事を含む日常生活活動をより豊かにし、より豊かになった日常生活活動が、思考をよりポジティブにする。サイクルを上手く適合させれば些細なきっかけで人生を大きく変えることが出来るいい例だ。

 幸福感に包まれた両者は、注文した料理を完食すると伝票を持ってレジまで移動する。


「ありがとうございました。またお越しくださいませ」


 至極丁寧な感謝の言葉に見送られ、二人はファミリーレストランを後にする。ごちそうさまでした、とレジを離れる直前に言うあたり、二人の育ちの良さが窺い知れるだろう。食物に感謝し、提供者に感謝する。食事前後にかける言葉は、自然環境の摂理のみならず食べ物そのものやそれを扱う人への感謝の念が込められている事を忘れてはならないのだ。

 すっかり暗くなった夜道を、二人は手を繋ぎ歩く。ポツポツと点在する街灯のみを頼りにし、二人は住宅街の中をまっすぐ進む。

 やがて、煌々と室内灯が溢れる一軒家の前にたどり着く。


「それじゃあ、また明日だな」


「そうね。気を付けてね」


「おう」


 名残惜しいが、名残惜しいからこそ次に会う時を楽しみにすることが出来る。いつでもどこでも顔を合わせられる狭い世界は、人と人の心理的距離をも取り払い、焦燥感と楽しみを奪う。会いたいときに会えることは確かに大切で良い事である。しかし、いつでも会えないからこそ、その時その時の出会いを大切にし一秒一秒をより濃密なものにしようとする。

 距離の払拭は時間密度の低下であり、それは即ち単位時間辺りの関係の希薄化を招くのだ。

 だからこそ、達也と彩香は此処で時間を浪費しない。舞い降る雪のように話は積もらせ名残惜しさと共に保管することで、明日への期待に胸を躍らせるのだ。

 彩香と別れると、達也は振り返ることなく自宅への帰路を進む。達也と別れると、彩香は振り返ることなく家の中に入る。

 振り返ったら名残惜しさに戻れなくなるかもしれないから。それに、たとえここで振り返らなくても、明日になったら会えることを達也も彩香も知っているから。

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