天空の標 舞台裏 続き(ほのぼの編)

「ということがあったらしいのよ」


 テハイザ訪問の際に宿屋で兄と側近に起こったことの次第を聞いた王女が、調理場の傍部屋わきべやの机に座って不満露わに下男に語った。


「私なんてお兄様と二人で出かける機会なんて、小さい時ならまだしもこのところほとんどないっていうのに。ずるいわ、いつもお兄様とロスばっかり楽しそうで。ほんっとうに仲がよろしいこと」


 ぱたぱたと机を叩きながら、王女は下男が返答に困っているのも無視して話し続ける。その様子に半ば圧倒されながらも、自分は家族と一緒に過ごした時なんてもうどのくらい前だったかと、下男はつい本音を口にしてしまった。


「いいですね、殿下も姫様もみんな楽しそうで」


 しかし郷愁に浸る思いを滲ませた呟きは料理長の「おい、シードゥス仕事だ!」という怒声にすぐさま消された。


「あ、はい、料理長!」


 反射的に立ち上がり、慌てて調理場へと駆け込む。すると背中に王女の抗議の声が飛んできた。どうやら呟きは聞こえていたらしい。


「楽しくなんてないわよ、今だってお兄様がロスに取られちゃってるんだから。今日はせっかくお兄様が城下の端まで連れていってくださるって言っていたのに」


 そうなのだ。兄王子カエルムが城下の方へ所用で出かけるというのに、王女が一緒についてきても良いと許しをくれたのである。しかも久方ぶりに二人だけである。それも兄が自分の馬に乗せてくれるというから、もう数日前から四六時中楽しみにしていたのだ。

 ところが午前の会議が終わったのち、またしても兄が側近と何やら揉めているらしい。そろそろ午後の外出について話をしにきても良い頃合いであるにも関わらず、まだ執務室に引き止められていると女官から聞いた。


「またお兄様とロスと二人でずっと話していて終わらないんだわ。ちょっとシードゥス、ロス引き剥がしてきて」

「いや僕こっちの仕事が」

「私が調理場なら代わってあげるから」


 困惑するシードゥスに対して王女は何の問題もないとばかりにさらりと言ってのける。かと言って、下男が王女に調理を任せて王子のところへ行くなど聞いたことがない。まだたたらを踏んで止まるシードゥスだったが、横で白身魚を蒸し物用に潰していた料理長がほくほくと機嫌良く王女に頼んだ。


「では姫様の好きな南瓜スープの下拵えを頼みます」

「はあい!」


 いや、そこを平然と頼むなよ、という言葉を、シードゥスはどうにかこうにか飲み込む。その間に王女はさっさと腕捲りをしながらシードゥスの横を通り過ぎ、蒸して鮮やかに色を変えた南瓜を漉し器に載せ、ヘラで潰していく。手慣れたものである。湯気に乗って甘い香りが漂い、腹の虫が鳴くのを誘った。


「ほら、ここは任せてシードゥス早く行ってきて」

「任せてって。俺が殿下のところに行ってお二人のお話の邪魔をするとかそんな」

「だって殿方同士のお話でしょう。私の方こそどこで口を挟めばいいのか、ちょうどいいところが分からないもの。ねっ。だからお願い」


 そう笑顔で言う様子は大層可愛らしいのだが、正直、シードゥスは頭を抱えたかった。


「かぼちゃの裏ごしの方が簡単なんだけどな……」


 そうである。気心知れた二人の会話だからこそ、どちらかを説得する術など誰が持ち合わせているかと言えば——むしろ王女の方な気がしてたまらない。

 案の定、シードゥスが調理場を離れてのち、早々に王女の要求を満たせるはずはなかった。


「シードゥスは何やってるのかしら。もうカボチャ十六個も裏ごししてしまったじゃないの。腕を鍛えておいて良かったわ」


 器にこんもりと山を作った南瓜はつやつやと美しく、次の出番を待って控えている。王女は残った緑の皮を手遊びに飾り切りにしながらぼやいた。


「早くしないとお昼ご飯になっちゃうじゃないの」

「姫様、次はこれをメレンゲに」

「はあい♡」


 こうなったらとびきり美味しい食事を作って待っているしかない。大量の卵白が入った器と泡立て器を手に取ると、王女はこれでもか、と鬱憤を卵にぶつけ始めた。


 ——ではなぜ下男はそんなにも手間どってしまったのか。


 調理場を出て廊下を駆けていくと、なるほど確かに執務室の前で王子と側近が言い合いをしていた。というより、王子の方はいつも通り柔和な表情で応対していて、側近の方が「思うところあり」、と言う表情だったが。

 その間に入っていくのは実に躊躇われたが、もはや後には引けない。


「すみません、あの。ロスさんちょっといいですか」

「待てシードゥス。ほっといたらこの人無茶しかねないから」

「でもロスさん連れてこいって……」


 まさか王子殿下から側近を「引っ剥がしてこい」と言われたなど口が裂けても言えるはずなく、シードゥスは言葉を選び選び、述べてみる。


「ほらロス、どうやら呼ばれているようだ。大丈夫、私の方は心配ないから行ってくるといいよ」

「そう行って出かけたついでに州境の役所の揉め事片付けて市門の修繕状況を確認して中央市の区画再編の進行について相談に乗ってくる気ですよね」

「この辺りはあの五月蝿い老中どもが行くと拗れそうだからな」

「はなから行く気じゃないですか!」

「心配するな、妹は先に城に帰すから」

「その間に老中じじいどもの調停するの誰だと思っているんです。それで殿下もあっちの不機嫌を買ったらですねえ……」


 まだ言い続けようとするロスをさらりと躱し、カエルムは端正な顔に男女問わず思わず惚れ惚れするような笑みを浮かべ、シードゥスの方へ向き直る。


「ところでシードゥス、昼前だから料理長の手伝いではなかったか」

「あ、はい、そうだったのですけれど、代わるからこちらへ行けと」

「それはあちこち走って大変だったろう。では調理場は誰が?」

「すみません姫様が」

「では今日の食事は常以上に美味だな」


 妹が作るなら、とさらににこやかになって付け足す。ロスが半眼になって何かいいたげにその顔を横目で見たのをシードゥスは見逃さなかったが、彼も新たな論議を招くような迂闊な発言をするほど鈍くはない。


 ところでその頃、調理場では別のどうでも良い闘争が、周囲にしてみれば極めて面倒くさい人間の間で開かれようとしていた。


「姫様。ロスを見かけませんでしたか」


 そう言って調理場の扉の前に姿を現したのは、仕事中のはずの大臣だった。珍しいことであるが、議事録を手にしているところからすると、恐らく会議の内容に関して急用があったのだろう。だが料理に手一杯の王女はその点に気がつくはずもなく、手元を注視しながら答える。


「ロスなら今シー君が引っ剥……じゃなくて迎えに行ってるわ」

「と言いますか、何をなさっているのです?」


 王女はちょうど、真っ白な卵白をさらに固くしようと文字通り腕をふるっていたところだった。想像もせぬ光景に大臣は間口に突っ立ったままになってしまった。呆けたていの大臣とは逆に、王女は意気揚々としたものだ。


「メレンゲよ。大臣の分も作るから心配なさらないでね」

「これはこれは……」


 見事な手捌きと心遣いについ感心してしまったが、すぐに現実に引き戻される。さすが伊達に歳はとっていない。判断力にかけては長年の経験がものを言う。犯人は自明。怒りの矛先は言うまでもない。


「って料理長! 姫様に何を!」

「うるさい! 神聖な調理場で唾を飛ばすな」

「料理長。いつも何ゆえ姫様や殿下をお止めしないのか」

「お前さんのように頭が硬すぎるのもよくないじゃろ。料理と同じで苦いもんばっかりじゃ飽きる。お前さんも手伝わんで邪魔するなら出刃飛ぶぞ」


 きらりと出刃包丁が光り、大臣の方へ切先が向けられた。その辺りの女官や下級兵ならば身を縮こませるところだろうが、相手が悪い。


「ほほう、この私に勝負を申し込むとは。久方ぶりに腕を振るうか」


 間口から調理場へ一歩踏み出し、大臣が不敵な笑みを浮かべる。実はいわく付きの経歴の持ち主である。


「わしとやるだと? 十年早いわ。十年も経ったらお前さんはもう空の上かも知れんのう」

「冗談を抜かすな。六十年遅いくらいの間違いではないか? 大体、刀の使い方が正しくないのでは」

「得物を選んでいるようじゃあ、半人前と言わせてもらおうか」

「面白い、表へ出ろ」

「ちょっと二人とも邪魔するなら外でやってくれる? もう昼食が近いのよ」


 火花が散る(ように見える)老人二人の言い合いに、王女が割って入った。


 ——いまのは、誰に似た……?


 あまりに冷ややかな声音に二人とも口を噤み、硬直して記憶を辿る。


「姫様ぁ、卵黄と魚に火、通りましたけど、卵白どうしますー?」

「あっ、もう出来た? じゃあ焼いちゃうから香草と油、用意して! 釜は開けないでね、温度が下がっちゃう」

「了解でーす。皿に空豆敷き詰めまーす」


 幸いなるかな、この場を救ったのは意外にも別の料理番だった。ここで繰り広げられている一部始終を黙って見ながら、下男の慌てぶりも大臣の呆然とした顔も面白いから見ていようと思ったのだが、どうにも自分が出ないとまずい雰囲気になるのは見て取れた。


 王女の怒りに老人が恐れをなしさえすれば十分。二人の興奮は収まる。そこで止めておけばいい。


「じゃあ料理長も大臣も、食堂の方で待っていらして。それから大臣、午後はお兄様と私は出かけるから、要件ならお昼の前にしてね。料理長は食堂の支度をお願いします」


 調理場のあちこちで昼食の品を作っていた料理人は、すでにすっかり王女の采配で動いていた。てきぱきと指示を出され、本来逆の立場であるはずの二人は調理場から締め出しを食らったのだった。


 これもまた、シレアの日常の一場面である。


 ***


 遅くなりましたが、続きです。またしても今回も、如月芳美様からスピンオフのネタ提供をいただきました。いつもありがとうございます。楽しく描かせていただきました。大感謝。

 Twitterでのやり取りからなので、これの元になる台詞と設定を如月さんが一緒に作ってくださいました。

 殿下と従者は仲が良すぎですねぇ。もしかしたら女官たちも嫉妬していたりして。

 大臣の経歴については、本編をどうぞ(笑)!



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る