天空の標 序盤舞台裏
『天空の標』の舞台裏です。
さて、シレア国第一王子と従者は隣国に着き、宿を見つけましたが……。本編の抜粋からどうぞ。
***
「夜分に恐れ入ります。申し訳ありませんが、開けてはもらえないでしょうか」
こつ、こつ、とゆっくり戸を叩く音と同様、扉の向こうの声は丁寧だ。夜盗の類では無いだろうと、そう思うと、緊張で痛みを覚え始めた娘の手がふっと緩まった。胸を撫で下ろし、そうはいっても一応、用心して、鎖をかけたまま戸を半分開けた。
そこに立っていたのは、長身の美丈夫だった。後ろにもう一人、彼と同じくらいの年頃と思われる男性が、馬の手綱を引いて控えている。
「深夜にお騒がせをするのは忍びないのですが……道中の雨で到着が遅れてしまって。部屋は空いてないでしょうか。あと、馬が二頭いるので、出来れば
田舎者や無骨者の多いここ一帯の宿場町ではほとんど聞かれぬ丁寧な男性の挨拶と、明らかに高貴なその風格に、娘はしどろもどろになった。
「お部屋はありますが、あいにく一人分の寝台しか無いんです……」
男性は喜ばしそうに目を輝かせた。
「部屋が空いているのなら有難い。お部屋さえ貸していただければ寝台のことは構いません。一人は床で寝ますから」
「ちょっと待て」
「構わんだろう。私が床で寝れば」
「それもまずいですって」
後方の男も見るからに質の良い衣服を身につけており、上流階級であることは間違いない。娘に話しかけている男の従者だろう。しかしまるで、
「此方へ。
そうして二人が通された部屋は、確かに二人用としては狭かった。室内には寝台と簡易な文机があるのみで、床に布団を敷いたら足の踏み場も僅かになってしまう。
ただ一晩だけのことだ。幸い荷物もそこまで多くはなく、寝ている間は文机と椅子の上にでも置いておけば良い。布団も多少、端をおってひけば間口まで布を踏むことなく進めるだけの間もできるだろう。そう思い、従者が丸めた寝具を広げようとした時だ。
隣に立っていた主人が、おもむろに口を開いた。
「やはりロスみたいな長身が床に寝るにはやや窮屈じゃないか」
「殿下も十分高いでしょう。平気ですよ。雑魚寝の経験くらい人並みにあります」
従者は意に介さず作業を進めようとするが、その背中で主人がぽつりと呟く。
「寝台、思ったより広いから二人くらい平気か」
「何馬鹿言ってんですか、いいから寝台使ってください」
仰天して反対するが、相手は正真正銘、真面目である。心底、従者も床には寝させられないし、自分が床で寝るのがだめなら、と考えているようで、さらに真顔で続ける。
「いやでも私は床でも平気だし」
「こっちが耐えられないからやめてください。移動も長かったしお疲れでしょうに」
「それを言うならロスこそ、のはずだ。私の方が荷物は軽かっ」
「黙って寝ないと姫様に言いつけます」
「……」
例の如く、他は負けを知らない主人の唯一の弱点か。呼吸と同じ即座の返答が止んだ。
「言葉に甘える」
「説得する方が疲れますよ」
灯りを消して横になると、風が窓を静かに撫でる音がする。雨雲は既に遠くへ去ったらしい。
暗闇に目が慣れていく。狭い室内だ。互いに相手がまだ起きているのが分かる。
「すまないな。助かるよ」
「何ですか。やけに素直ですね」
「普段から素直だが? 何だろうな、兄がいたらこういう感じだろうか」
一呼吸おいて、「いや、兄みたいなものか」と笑いをまじえた声が上から降ってくる。ロスは寝返りを打ち、わざと聞こえるように溜息を吐いた。
「上に立つ人が自分みたいなのにそんなこと仰っては駄目ですよ。自分は従者で十二分です」
「私は逆でもいいな」
「こちらはまっぴらですね。さっさと寝ましょう。明日も早いんですから」
同意の応えのあと、間も無くして規則正しい寝息が聞こえてきたのを確認し、ロスも四肢と神経の緊張を解き、休息状態へと移行させる。
ただ寝入る前に聞いた囁き声に、感情の起伏が皆無だったわけでもない。
——いつも頼れる相手がいるのはいいな——
不意打ちの言葉を平気で口にするほど、変に素直すぎるのがこの兄妹の困るところだ。
明日からもこの主人が何をやらかすか分からない。それが誤る方向だということはまずない。ただ、心してかかろうと、ロスは瞼を閉じた。
(「一人は床で寝ますから」「ちょっと待て」「構わんだろう、私が床で寝れば」の会話は、見ている方からすると「一緒に寝たらいいのよ?」と思われたようです(by
茶番は次回。のはず。
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