もしもシレアにホワイトデーがあったら(最終回)
件の菓子騒動からもうかなり日が過ぎた頃のことである。冬の名残はいつの間にか消え、春も盛りになったと、空気そのものから感じられる時分のことだ。冬至はいつだったか忘れそうになる。もうそろそろ城下では店じまいも近くなるというのに、やっと夕陽が木目の廊下を照らし始め、書庫へ向かう兄王子カエルムの足元を明るくする。
そこへちょうど執務室から出てきた妹王女が、兄を後ろから呼び止めた。
「ねえお兄様、大臣を見ていらっしゃらない?」
「大臣を? 夕飯の前に一度、会う約束をしているが」
「でしたらお兄様から聞いてくださらない? 私がこの間あげたお菓子の感想を聞いてもちっとも答えてくれないんだもの」
口を窄める妹の様子にカエルムは苦笑する。そして一つ思うところがあり、妹には承諾のみを述べ、頭によぎったことの真偽を確かめようとそのまま書庫に歩を進めた。
***
王女と従者が街に訪れた前日のことである。
「なんだ大臣」
総務省で仕事をしていたカエルムは、斜め向かいの机で別の作業を進めていた大臣に突然声を掛けた。
「何、とは」
「さっきからちらちらと視線を感じるから。何か意見があるなら私の方が終わるまで待たなくてもいい。耳は聞いている」
諸々の申請書に目を通しながらそう言うと、大臣はしかし、と言い淀んだ。
「いまの業務のことではありませんで、私事を持ち出すのは」
「珍しいな。どのみち大臣は自分の時間でもなかなか余裕はないだろう。構わない。他がいない時だし、私でよければ聞く」
「では……」
この老人にしては柄にもなく、それでもまだ言いにくそうに大臣は先を続けた。
「殿下は、姫様が今まで何か贈り物をされてとても喜んだというのを、ご覧になったことがおありですか」
てっきり城内で仲違いが起きているとか、勤務姿勢がまずい者がいるとかそういう話かと思っていたところで、少々予想と違う返答である。不思議に思って顔を上げると、大臣は首を一振りする。
「いえ、質問を変えます。姫様が贈り物をされて特に喜ぶものはなんだと思いますか」
今日のこの日に質問の内容が内容だ。これが何のことを言っているのか、すぐに察しがついた。しかし自分の推測が当たっているならこれほど面白いことは滅多にない。カエルムはわざと書類に視線を戻し、全く表情を変えずに答える。
「私がアウロラに何かあげた時にはつまらぬ物でもなんでも喜んでくれるが」
「それは殿下だからでございましょう」
「それにしても贈った方を逆に喜ばせるのが上手い」
「まあ姫様にそういうところはおありでしょうが」
「だろう。よくできた妹だ」
側で別の報告書に取り掛かっていた従者はすぐさま「この馬鹿」という言葉が浮かんだが、頭の中で突っ込むのに留めておいた。大臣がいるところで口にすれば後が面倒である。そして自分は一年に一度見られるかわからない大臣の様子を傍観して楽しむことに決めた。
「もっと何か具体的に姫様がお好きなものなど、殿下ならご存知でしょう」
「そうだな……」
「例えば食べ物で構いません。特にお気に召しているとか」
「ああ、確かに妹は甘いものが好きだけれど。しかし菓子ならばシレア国の中でうちの料理長を凌ぐ逸品を作れる者はなかなかいないだろうし」
「それはあまり良策ではないかと。常以上に姫様がお元気に明るくなられるものでなければならないのです」
あまりに必死になっている大臣と、わかっていて飄々ととぼける主人に、ロスはつい吹き出しそうになるのを堪えるのに注力した。それが分かってか、カエルムがロスの方へ含みのある笑みを向けてから、大臣に助言を続ける。
「本人に聞いてみたらいいのでは。案外、簡単に答えが得られるものだろう?」
そう言いながら従者と視線を合わせ、互いに了解を示して頷き合う。
***そして王女***
「ねえ大臣、用事があるならそんなそろそろと見ていないで入ってらしていいのよ?」
書庫で資料を見ていた王女は、首だけ回して扉のところにいる大臣に声を掛けた。
室内に入っていくのをなかなか躊躇していたのだが、こう言われては仕方ない。大臣は一歩踏み出す。
「お邪魔してすみません。すぐに去りますゆえ。一つ、お聞きしたいことがありましてな」
「なあに?」
「直感で構いません。姫様、いま一番、足りないとお思いになるものは」
「時間」
即答されて、大臣は一瞬、息を詰めた。しかしめげずに問い直す。
「言葉が悪かったようです。ではあったら良いとお感じになることは」
「余裕と自信?」
その表情はさも当然と言わんばかりである。
「まあ仕事は減らないし終わりがないし。時間がもっとあったら自由にできることは増えるわよね。あとやっぱりお兄様くらい余裕を持ててないってところが半人前で歯痒いかしら」
でもそれには自信が……と続けつつ思案顔で悩み始める王女に、大臣は次第に困惑してきた。ついぞ勢い余って問いを重ねてしまう。
「そうではなく、例えば姫様がわたしめに望むことといったらなんでしょうか」
「なあにいきなり。そうね、健康?」
「は」
「だっていっつも忙しそうだし、でも忙しく仕事をするのはお好きみたいだし、じゃあ身体壊さないのが一番でしょう」
大臣はよろめき、片方の手を扉について身体を支えると、もう片方の手で顔を覆い、皺だらけの指で目頭を抑えた。
「立派に……なられて……っ」
「ちょっとどうしたのもう。何があったの」
笑いながら困る王女だったが、大臣はいいんです、と繰り返すばかりである。しまいには瞼を押さえたまま、そのまま王女を置き去りにして行ってしまった。
「これ誰かに報告しておいた方がいいのかしら……」
***
そして今日である。
「どう思う」
書庫で従者と約束していたカエルムは、室内に入るなり笑みを浮かべつつ先の出来事を話した。
「まだあの
「だろうな。もし口にしていれば聞かれる前に感想を言っているだろう」
「確かにわざわざ言いに行きますね」
ロスも苦笑気味に返す。大臣のことだ。味がどうであれ感激を露わにするに違いない。まあ王女はそれなりに菓子作りはうまいのだが。
カエルムは悪戯を思いついたように瞳を光らせた。
「いつまでこれが続くかな」
「賭けますか」
「王子の座を?」
「そんなものいりません」
互いに微笑を交わしつつ、扉を閉める。当の大臣が来てしまってはまずい。
かたや椅子に座して脚を組み、かたや壁に寄りかかって窓の外を眺めながら、二人はこの後どうするかと銘々、思いを巡らせた。
「とりあえず、もうしばらく様子を見るか」
「同感です」
外では日が暮れ、城下にあかりが灯り始めた。そろそろ城も夕餉が近い。
***その後しばらく経った頃***
春が足早に通り過ぎようとし、夏が近づいている。城内も日中は窓が開け放たれるほど気温も上がってきた。特に今日は急に暑くなり、半袖で動く者も多い。
「失礼します。今朝の会議の議事録ですが——」
返事を待って大臣の部屋の扉を開けたロスは、尋ねた当人が座った机の後ろに見たことのある小箱が置いてあるのに気がついた。箱には光沢のある紅葉色の紐が掛けられ、上部で結ばれている。まだ開けられていないように見える。
「議事録は夕方の会議と合わせて確認するからそちらの台へ。それから戻るついでにこちらの確認を殿下に」
「昼までに、ですね。わかりました」
努めて事務的な態度で書類を受け取ると、ロスは一礼してもと来た方へ戻る。しかし廊下へ出る直前、ふと思い至って振り返った。
「ああそういえば大臣。先頃、女性の間で流行っていた菓子は、油分が多いのであまり気温が高いと劣化してしまうそうですよ。そうそう毒にはなりませんが、本来の風味は失われてしまうとか」
大臣の眉がひくりと動いたのを確認し、それでは、とロスは部屋を辞した。
そしてそのまま笑いを堪えつつ主人のところへ直行する。
「殿下、こちら昼までに」
「ああ、ありがとう。薬学研究への経費増加か。聞いていたものだ」
「ところで例のもの、あの人まだ開けてもいませんよ」
「見たのか。実は私も先日見て多少気になっていたが」
「流石にまずいでしょう。一言申し上げておきましたが」
するとそこへ扉を軽く叩く音がし、カエルムの許可を受けて女官が入ってきた。
「殿下、今日は暑いですから水分補給にお持ちしました——って貴方もいたの」
水差しと杯を載せた盆を卓に置くと、女官は話しながら杯に柑橘の果物を一切れ落とし、そこに冷水を満たしていく。
「気を遣わせてすまない。さらに頼んで悪いのだが、大臣のところにすぐに茶を」
「え? お水でなくて、ですか」
「水でもいいが、茶の方がいい」
「ソナーレの好みでいい。甘い菓子に合いそうなのを。かなり急いで」
「はぁ……わかりましたけれど」
怪訝な顔をしながら出ていく女官の背中に、「濃いめで」と二人の揃った声がかかった。恐らくこのまま放っておいたら、賭けなどと言っていられなくなるほど気の毒なことになったかもしれない。
惜しむらくは、老人がどんな様子で例のものを味わうのか見られないところである。
ただ、後から女官から伝え聞くという楽しみはできたわけで。
***
もしシレアにバレンタインデー&ホワイトデーがあったら——完
如月さん、またもやありがとうございます。大臣(本丸)エピソードに味付けをいたしました。
他にも「もしも〜」希望があったらお寄せください。ユークレース、匠響子も可です。
「作者の余裕次第で書く候補」にありがたく頂戴します!
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