失恋からの立ち直り方(シードゥス)〜前編〜

 国唯一の時計台が市の中央に聳え、南北に流れるシューザリエ大河を軸に広がるシレア国城下、シューザリーン。この国で最も美しいと言われる彩り溢れる秋も終わりに差し掛かり、そろそろ北の雪峰山脈から降りる風が息を白く濁らす季節に入る頃だった。

 先だって盛秋に起こった時計台の異変も解決し、豊穣祭も無事に過ぎ、王城は平和を取り戻している。隣国のテハイザヘ出かけていた兄王子も城へ帰り、留守を預かる王女の不安と負担も軽減していた。全てが兄の外遊以前よりもうまく運んでいると思われた——ただ一人を除いて。


 ***


 朝の調理場は一日の中でも特に忙しい。王族以下、臣下の朝食の準備はもとより、早朝当番の衛士や鳩小屋および厩舎の管理人、城下への伝達へ赴く役人等々、他の皆よりも早くに食事をとる面々の軽食を作るのに加え、早々に食べ終わった者たちの食器洗い、朝市で仕入れてきたものの仕分け、昼食ないし夕食の下拵え諸々、次から次へと仕事が舞い込んでくる。

 かといって人員が多いわけでもない。調理場では数人の料理人と下男が作業台の間を忙しく動き回り、一人が火の番と材料の裁断と盛り付けを掛け持ちするので、調理手順や作業に失敗が出ないよう場にいる全員が神経を集中させ、極めて緊張した空気が流れている。

 そうした中でぼやっとしていればどうなるか分からぬ愚か者はいない。物など落とせばその結果が予想されるからして、作業中は細心の注意を払っているのだ。しかし今日は——いや、何日前からか連続で今日も——調理の作業音の中で軽い金属音が鳴り渡った。


「こらぁ若造、また何やっとるかぁ!」

「いてぇっ」


 調理場最奥に備え付けられた窯のところから高速回転する何かが成人男性の頭の高さを保って真っ直ぐに空間を横切り、作業台の前に立つ青年の頭にぶつかってまな板の上に落ちた。しゃもじである。持っていた芋を取り落とした青年は、黒に近い髪をぐしゃりと掴んであまりの痛さに屈み込む。その足元には、ついぞ先ほどまで青年が持っていたはずの調理用小刀があった。


「って……あ、俺これ落とし……」

「皮剥き途中で足元にそいつを落とすとはいい度胸だ。その刀は足を切るためにあると思うなよ。床に刺さるもんでもない。野菜と果物以外に刃を立ててみろ、わしが許さん」

「料理長ー、素直に危ないから気をつけろって言ってや」

「余計な口を聞いとる暇があったら残りの粉生地打たんか」


 別の料理人が口を挟むのに怒鳴り返して料理長は調理場を闊歩すると、腰に手を当て目を光らせて、蹲る青年を見下ろす。


「シードゥス、この一ヶ月で何度粗相をしたら気が済むんだ数えてみろ」

「そんなに何回もでは……ごめん、おやっさん、すぐ残り剥いちゃうんで」

「物の落下は根菜三回、小鍋二回、乱切りと賽の目切りの間違い一回、調味料の順序違い二回、加熱時間二十三秒超過一回じゃよ」


 細か過ぎるだろ、というシードゥスの呟きは、仁王立ちになった料理長のひと睨みと共に無視された。


「若造、修行が足りん。一旦休め」

「修行って何の」

「しのごの言わずに今日はもうこれ食べて一日空でも眺めとれ」


 ずい、と焼けたばかりの生地を手に持たされる。間に作った空洞に肉と野菜の煮込みが入っており、表面に香草がまぶされていて鼻先を芳しい香りが掠める。続けてもう片方の手に湯呑みを掴まされ、シードゥスは料理長に調理場から追い出された。


 湯呑みの中は柑橘類と糖蜜の湯割りであり、甘酸っぱい湯気が冷えた廊下に白く立ち上る。じんわりと身体が右手から温まっていくのを感じながらも、シードゥスの胸の内は寒い空洞が開いているようだった。


「修行、つったってなぁ」


 湯呑みと包み焼きを両手に呟き、調理場の扉に背を預けてずるずるとその場へへたり込む。すると頭上から明るい声が降ってきた。


「暇もらったなら付き合ってやろうか、修行」


 聴き慣れた声音に顔を上げると、こちらを見下ろして微笑する王子の側近と目があった。


「ロスさん、早いですね。殿下と手合わせですか」

「いや。今日はもうあの人は鍛錬終えて執務室。ちょうどいいから付き合えよ」


 ロスは片手を出すと、シードゥスの手を引っ張って直立させた。


 ***


「ねぇロス、ちょっと頼みがあるのだけれど」


 昨晩遅くのことである。珍しくロスの主人である兄王子の妹、シレア国王女が、兄ではなくロスの私室を尋ねるなり切り出した。いつもは強い輝きを湛えている紅葉色の瞳に、今日は不安げな影がさしている。


「彼、ちょっとあの状況のままではまずいと思うのよね」

「彼って、シードゥスのことですか」


 議事録をまとめていたロスは机に向かっていた身体を回し、王女の方にも椅子を進めながら聞く。王女はしっかりと頷くと、椅子に座って足を組んだ。


「ぼーっとしすぎているのよ。あの精神状況でしょう。仕事なら休んでいいって言ってるのに絶対に休もうとしないの。そのくせ行動がおかしいわ。上着は後ろ前に着てるし、階段は踏み外すし、お皿は落とすし」

「ああ」


 下男のシードゥスがこの前の秋の騒動以来、心ここにあらずなのはロスも知っている。たびたび廊下で見かけては、曲がり角に頭をぶつけそうなところを呼び止めたことが何度あったか。

 ロスが首肯したのを受けて、王女は心配を露わに形の良い眉を下げた。


「気持ちはわからなくもないけれど、危なっかしくていつ怪我をするか分からないわ」

「仕方ありませんよ」

「でもあれじゃあこっちが見ていられないわ。それに料理長が言うには食事もあまり取れていないって言うの。あれじゃ病気になっちゃう」

「まぁ、病気ですからねぇ」


 ある種の、と胸中で付け加えてロスは苦笑する。誰しもかかりうるものだとはいえ、確かにシードゥスの状態は見ていてこちらがひやひやする。


「ねぇ、私だと話せないこともあると思うし、そもそも私を見ると顔を逸らすし、こういう場合に殿方がどうするのかわからないわ。だからお願い」


 いまにも泣き出しそうな顔で見上げられては、ロスも他に答えようがない。どのみち自分もあの若い下男の挙動不審は気にかかっていたのだ。時間が解決してくれるとも思ったが。


「分かりました。ただきっかけ程度ですけれどね。請け負いましょう」


 そういうと、王女は心底安心した風に顔を緩めた。こうした笑顔は、自分の主人が真に気を抜いた時に垣間見せる顔によく似ている。それもいまでは至極稀にはなったが、ごく限られた者相手に、ごく限られた時にしかしないものだ——そう思うとなんだか笑えてしまう。


「なあに、どうしたの」

「いや、殿下に似てると思って」

「やだ。私がお兄様に似てるわけないじゃない」


 本気で怪訝に思っている様子にますますおかしくなってしまった。そもそもその言い方が、まだ王女の歳の頃の王子にそっくりだ。


 しかし、あの下男もこれだけ心配されているとは思わないだろうに。

 ただ病というものの中には、自然治癒が難しいものもある。特に病の中でも厄介なは——


 さてどうするかな、と策を巡らせながら、ロスは窓の外を見る。

 外には風もなく、三日月が白銀に輝いている。明日は朝から穏やかに晴れそうだ。


 部屋の隅に置いた自らの剣に目をやったロスは、ふとした思いつきに笑みを漏らした。



 ***続く***




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