第108話

「お姉さんっ!」


 尻を地に付けたまま、ミセリは眼前で宙を漂うエルミナの細い腕を目の当たりにしながらまるで数秒間、時が止まったような感覚でいた。そして、その腕が地面に落ちると同時に、ほとんど悲鳴交じりの声で叫んだ。


 薄汚い裏路地の地面に落ちたエルミナの腕に向かって、必死に手を伸ばそうとするミセリ。わけがわからず、だがとにかく、彼女の腕を拾わねばという思考だけが頭にあった。


「何をしているんです!」


 ミセリの意識を正気に戻したのは、片腕を失ったばかりのエルミナの怒声だった。生前のように出血があるわけではないが、赤黒く湿った断面を残された方の手で押さえる。


 そして再び叫ぶ。


「そのまま逃げなさい!」


 エルミナは切り離された右腕の行方など気に留めず、二人に逃げるように促す。


「だって……、お姉さん腕が……」


「いいですからっ!」


 もう一度エルミナが強い口調で叫ぶと、ミセリはようやく立ち上がった。


「お姉さんはどうするの!?」


「できるだけ……、せめてあなたたちが逃げ切れるくらいまでは……時間を稼いでみせます……」


「で、でも! それじゃあお姉さんが!」


「はやく行きなさいっ!」


 異論や抗弁を聞いてやれる間などなかった。一刻も早く二人を逃がさなければならない。その想いでエルミナは声を荒げる。


 だがそれでも、頑なに動こうとしないミセリ。


「ミセリちゃん……」


 今度はクラナが娘の手をそっと取り、瞳で訴えかける。エルミナを置いていくことはクラナににとっても耐え難いことであったが、それでも娘の安全を第一に据えるのが母親としての正しい選択だった。


 エルミナはその選択を肯定するように笑み浮かべながら、クラナに向かって一度だけ頷いた。


「お姉さんっ!」


 クラナ自身も目元に涙を溜め、泣き叫ぶ娘の手を引きながらその場を去った。


「どうか、ご無事で……」


 エルミナは黒い靄への視線を切らさないまま、背後で遠ざかっていく二人を想って、心で祈った。


 そして極度の緊張を少しでも薄めるように一息吐くと、やや重心を低くし、前後左右どちらへも素早く動ける体勢を取った。


 生前に戦闘の経験などある筈がない。ならば今こうしているのは魔物としての本能だろうかとエルミナは思った。


「さて……」


 視線の端には、地に転がる自身の片腕。それをようやく視界に入れた。


「どうしたものでしょう……」


 謎の黒い靄は、未だ燻る煙のようにその場で漂い続けている。


 エルミナは警戒を解かないまま、僅かに片足を下げた。その自我を有しているかすら怪しい謎の靄に気取られないようにと、そっと。


「…………まさかアンデッドが…………人間をかばったのか?」


「…………。え?」


 どこからともなく声が聞こえた。遠くから響くような、近くで囁くような、そんな音だった。


 果たして、目の前の黒い靄が発した声なのか、未だ判然としない。


 エルミナは右腕の切り口を押さえながら、目の前の黒い靄に視線を凝らす。


「お前は…………なんだ? …………本当に魔物か?」


 再びエルミナの耳に入る声。


 その声は老人のようでもあり、年頃の娘のようでもあり、壮年の男のようでもあり、はたまた幼子のようでもあり、実に不可解、それでいて不快なものだった。


 どのようにして音を発しているのか、エルミナには理解が及ばなかった。


「何故自我を保っている」


 だが、その正体不明の相手もまた、エルミナの存在に困惑しているようであった。


「何故本能のまま血を求めない。肉を求めない。生者を引き裂き、はらわたを貪らない。何故……」


「まあ、お肉を食べるのは割と好きな方ですが」


 エルミナは謎の声にそう返した。


 黒い靄が発している声なのかは確信できたわけではないが、エルミナが話した瞬間、その靄はざわめくように微かに揺れた。


「面白い……」


 瞬間、黒い靄は膨張し、全てを塗り潰した。エルミナの視界は瞬く間に漆黒に包まれた。


「そうですか……あなたが……」


 エルミナは為す術なく全身を包まれながらその黒い靄に問う。


「あなたが……魔王の……」


「……王じゃと?」


 靄は答える。その声は相も変わらず名状しがたい音であったが、嘲笑に一握りの不服を滲ませたような、そんな声色だとエルミナは思った。


「違うな」


 靄は答える。感情の読めぬ声色ながら、不思議と明確な否定の意思が伝わって来た。


「そのような地位など、無意味でしかない」


「ではあなたは……一体何です」


 エルミナは既に見えなくなった前後に意識を集中させながらなおも問う。


「我は……そうだな…………」


 靄は僅かに考え込むような間を開けてから答える。


「神…………」


「神?」


 状況も相まってか、エルミナには全く理解が及ばなかった。


「言うなれば……そう……。我は神。死を司る神。死を支配する存在……」


 男と女、幼子と老人、様々な声色を縺れさせながら、その存在は確かに神と自称した。





------------------フレーバーテキスト紹介------------------

【スキル】

C2:水属性耐性

水属性攻撃によるダメージが50%減少。

水神と呼ばれる竜の鱗を手にしたものは、強靭極まる水の加護を得るという。その昔、とある王家では欲に駆られて大規模な竜狩りを謀ったが、逆に水神の怒りを買い、城諸共洪水で流されてしまった。

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