第107話
「気付かれてはいない……ようです……」
押し込められたようにボロ屋の連なる路地裏から顔を出し、恐る恐る辺りの様子を伺うエルミナ。
エルミナ、ミセリ、クラナの三名はエルミナの機転で何とかドラゴン型アンデッドから逃げ延び、狭い建物の路地裏へと身を隠していた。
暗い路地裏には、地面に染み込んだ酒なのか死臭なのかわからない、饐えた臭いが立ち込めていた。
「…………」
首を引っ込め息を吐くエルミナの傍らで、ミセリは無言のまま俯いている。表情は暗い。先程の魔物に対する恐怖の所為もあるが、どうやらそれだけではないらしい。
「安心してください。あなた方は何としても街の外まで避難させます。それと……、正体を隠していたことはすみませんでした……」
理由を察したエルミナは、そう言って頭を下げた。
「…………」
ミセリは応えない。下げた両手の拳をふるふると震わせている。
「大丈夫……ですか?」
ミセリの様子を伺うエルミナ。
「大丈夫じゃない……」
エルミナの問いに、ミセリは俯いたまま呟くように静かに答えた。
「あの――」
「大丈夫じゃない!」
今度は面を上げ、目元に涙を溜めながらエルミナの言葉を遮った。
「仮面のお姉さん、魔物だったのね……。それもアンデッド……、あいつらと同じ……」
「ミセリちゃん……」
娘の容赦のない言葉に、クラナは何か言いたげな様子で彼女の両肩に手を置くが、言葉が見つからず、口籠ってしまった。クラナ自身もエルミナの正体を目の当たりにして当惑していた。
エルミナの中で以前聞いたミセリの言葉が蘇った。「魔物を憎んでいる」。その言葉だけは心の片隅に残り続けていた。
「なんで今まで黙ってたのよ!」
「ミセリちゃん。でも彼女のお陰でわたしたちは――」
「わかってるわよ!」
「助かったのよ」と続く筈だったクラナの言葉を待たずして、ミセリは捲し立てる。
「わかってる……」
ミセリはエルミナの元へ歩み寄ると、恐る恐る手を伸ばす。そして、
「でもなんで……お姉さんが魔物なのよ……」
エルミナの服を掴みながら弱々しく言葉を漏らした。
「それは……わたしにもわからないんです……」
そう答えるエルミナの声は、今にも泣き出しそうな程震えていた。
「わからないんです……」
それでも、決して涙の出ない目を伏せることしかできなかった。
「最初から言ってくれても良かったじゃない。こそこそとあんな仮面までしちゃって」
そう言って不満そうに口を尖らせるミセリ。「それはわたしも思います」と娘に同調するクラナ。
「もし仮に、最初から正体を明かしていましたら、快くわたしをあなた方の宿に泊めて頂けましたか?」
「それは……」
〝違う〟とは即答できず、口籠るクラナ。ミセリはばつが悪そうに視線を背けた。
それを見て、エルミナは静かに吹き出すように笑った。
「あなた方は正直者です。それに良い人たち」
エルミナは口元だけにそっと笑みを作ると、すぐに表情を戻し、二人に向き合った。
「わたしのことは許さなくても良いです。この先もずっと、恨み続けて頂いて構いません」
「お姉さん……」
「ただ、わたしはあなた方に感謝しています。この先もずっと、感謝しています。もう会うこともないでしょうが、どうか無事に逃げ延びて下さい」
その言葉は紛れもないエルミナの本心であった。騙す形であったとはいえ、暗い地の底から這い上がってから、ひと時の人間らしい生活を送れたのは、想次郎という変わり者の少年と、あとはこの親子のお陰だと。
全てを明かした今、彼女らにどれだけ失望されようと、この気持ちは変わらない。エルミナはそう感じていた。この期に及んで赦しを乞うつもりはなかった。
だが、ミセリは徐に口を開く。
「許す……」
「…………え?」
不意の言葉に、エルミナは不思議そうな表情のまま固まってしまう。
「許すって言ってんでしょ!」
ミセリは大粒の涙を流しながらエルミナに抱き付いた。フリーズしたままのエルミナはその勢いに圧され、危うく後方へ倒れそうになる。
ミセリ自身にも何故泣いているのか、わからなかった。街にアンデッドが溢れ、宿が襲われ、巨大な魔物が飛来し、そして窮地の自身を助けたのもまた魔物であった。
目まぐるしいまでの出来事に、色々な感情が頭の中でかき混ぜられ、膨らんだ感情が抑えきれず、それが涙となって溢れ出たのかもしれない。
「あの……すみません……」
エルミナは目の前で嗚咽し泣きじゃくる少女を前にどうして良いかわからず、ただただ謝り続けることしかできなかった。顔をぐしゃぐしゃにして胸元に縋りつく娘を抱くことすら、エルミナは躊躇ってしまった。
「……てくれたら……す……」
ミセリはエルミナの胸の中で何やら呟いている。だが、エルミナの胸元にある大きな質量で圧迫されている所為か、くぐもってしまっており、聞き取れない。
「……? 何でしょうか?」
エルミナはミセリの肩に手を置き、そっと彼女の顔を胸元から引き離すと、優しく尋ねた。
「わたしが作ったメイド服、着てくれたら許す……」
すると、ミセリは目元と鼻先を赤くしながらそう言い直した。
「先程一度無条件で〝許す〟と仰っていたような気がしますが……」
「いいえ、やっぱりダメよ! わたしたちを騙していたんだから、無条件なんてあり得ないわ! あとあのメガネ君も一緒に! じゃないと許さない!」
「この機に乗じてありったけの欲望を吐露しましたね」
エルミナは助けを求めるようにクラナへ視線を送った。すると、クラナは娘と瓜二つな表情で瞳を光らせた。
「ミセリちゃん! そんなのよりも、彼女にはもっとセクシーな服の方が似合うわよ! お母さんに任せなさい! 飛び切りきわどくて大人な衣装を作ってあげるから!」
「あなたたち親子は……」
エルミナは呆れて力が抜けてしまい、溜息と共に肩を下げた。
しばし状況を忘れ、和やかな気持ちになっていたエルミナを現実に引き戻したのは、背筋を突き刺すように走る寒気だった。
「っ!?」
感じたのはこの世のものとは思えないまでの邪悪な気配。先程対峙したドラゴン型アンデッドなど比にならなかった。
「逃げなさい……」
エルミナはその只ならぬ気配に圧し潰されそうになりながらも、なんとか言葉を絞り出した。
「お姉さん……?」
「いいから逃げなさい!」
エルミナが叫ぶと同時に、三人の目の前に黒い靄が現れた。人の背丈程の靄は曖昧な形のまま、その場で揺らめいている。
エルミナたちがゆっくりと後退りながら距離を取ろうとすると、突然その靄の一部が細長い鞭のような形状に形を変え、三人に襲い掛かった。
「っ!?」
エルミナは考えるより先に背後にいる二人を思い切り後方へ突き飛ばした。
瞬間、エルミナの右腕が二の腕のあたりで千切れ、吹き飛ぶ。
ミセリの目の前を、白く細い腕がまるで糸を失った人形のように、くるくると舞った。
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【スキル】
C2:火属性耐性
火属性攻撃によるダメージが50%減少。
均衡は人の手に非ず。虚栄こそ真実。堕落は至当。零落に身を委ね。思案に能わず。
かつて、炎を極めし魔術師は、己の情念をも燃やし尽くした。
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