第103話

「お姉さん……どうして?」


「あなたの声が聞こえましたから」


 ミセリはグールを宿から追い出す際、無中で叫んだ時のことを思い返す。


 短く返答したエルミナは、徐に自身の手を振った。鋭く伸びた彼女の爪の先からグールのものと思われるどす黒い血が飛ぶ。


 そこで初めてミセリは倒れたグールに視線を移した。うつ伏せになったグールの首の後ろは、深く四本に抉られていた。


 エルミナの黒いドレスにすっかり紛れてしまっていたが、よくよく目を凝らすと、胸の辺りに黒い返り血が付いているのが確認できる。


 ミセリはもう一度血で塗れたエルミナの指先を見る。


 それでもなお、一体何が起こったのか、理解するまで数秒の時間を要した。


「これ……仮面のお姉さんが……」


「驚かせてしまって申し訳ないですが、お話は後です」


 ミセリが言い切るより早く、エルミナはくるりと身体を反転させると、そのまま残りのグール二体の顔面を爪で切り裂いた。


 破けて短くなっているスカートの丈が翻り、白い太腿が露わになる。黒い布地に隠されていた縫い合わされたような腿の傷跡が、一瞬ミセリの視界をかすめる。


 二体のグールは爪の斬撃を受け、顔面をぐちゃぐちゃに崩壊させながらそのまま倒れた。ミセリの近くを、斬撃の衝撃で飛び出たグールの目玉が転がった。


「ふぅ……なんとかなりましたか……」


「すごい……」


 ひとまずの危機は去り、指先に付いたグールの血を払うエルミナの姿を、未だ信じられないといった様子で呆然と眺めるミセリ。


「あなた、お母さんは?」


「え? ママ? 大丈夫。奥の部屋に隠れてる」


 質問をされたミセリは上擦った声で答えた。


「そうですか……」


 エルミナはそれを聞いて、仮面越しに安堵の息を吐いた。


 そして徐にミセリに近付くと、エルミナは手を差し伸べる。ミセリは一瞬躊躇ったが、そっとエルミナの手を取り、彼女に引かれながら立ち上がった。ミセリが初めて触れるエルミナの手はひんやりとしていた。


「それよりも!」


 呆気に取られてしまっていたミセリはようやく我に返ったかと思うと、急にエルミナに詰め寄る。


「な、なんです?」


 今度はエルミナが気圧されるように後退った。


「仮面のお姉さん、すんごく強いのね! グールの顔面を素手でグシャって! グシャぁ!」


 ミセリはそんな擬音と共に、エルミナのグールを葬った時の動作を真似た。


「やめてください。わたし自身あまりこういうことは好きではないので」


「でもでも、どうしてそんなに強いの? お姉さんは何者?」


「今は長話している暇はないです。早くこの街から逃げましょう」


「そうね! ママを連れて来なくちゃ!」


 ミセリはエルミナに向かって笑みを返す。それを見て、エルミナも仮面の下に隠れた口角をそっと上げた。


 その後、すっかり壊されてしまった宿の入口をエルミナが見張り、その間にミセリが母親のクラナを連れて来た。


「あわわわわわ…………」


 勇敢な娘と違い、クラナは眼前に転がる無数のグールの姿を見て、あからさまに狼狽した様子でそんな言葉を発していた。


「さあ、行きましょう」


「え、ええ……」


 クラナが震えた声で答える。


 すっかり腰が抜けてしまっているのか、クラナは娘のミセリに腰を抱えられる形で何とか宿を出た。室内以上に凄惨な光景の広がる店先に、クラナは思わず目を瞑ってしまう。


「ママ、大丈夫。わたしが付いてるし。それに仮面のお姉さん、すっごく強いんだから」


「それほどでもないです」


 言われ慣れない評価に、エルミナは謙遜を返した。


「急ぎますよ」


 エルミナは先程自身が通って来た、街の外へ続く道を見据えた。


 際限なく湧き続ける魔物。依然として油断はできない。そう思いながらもあとは自身が無事に辿り着けた道を戻るだけだということ。加えてこのまま戻ればシナリスとナツメの二人と合流できる。その二つがエルミナの中で幾分かの余裕をもたらしていた。


 ただそれも束の間。只ならぬ気配を察し、エルミナは殆ど無意識に立ち止まる。


「………………。下がって」


 そう絞り出すように告げると、気配の主が姿を見せるより先に、エルミナはミセリとクラナを自身の背後に隠すようにして身構えた。


 直後に、何か巨大な影に日の光が遮られる。


 その巨大な影は上空より現れ、三人の眼前に降り立った。


 その衝撃に乗って、よくわからない粘液の類が辺りに飛び散った。


「……なんです? これは……」


 目の前の光景に言葉を失うエルミナ。


 現れたのは巨大な異形。悍ましい姿をした魔物。


 表皮は絶え間なく崩れ、あふれる体液がその異形の肉をぬらぬらと光らせていた。こうしている間にも強い粘度をもった糸を引きながら魔物の皮膚が地面に落ちている。巨体から伸びる前脚。その丸太程もある太い指から伸びる爪だけが、まるで研ぎ澄まされたナイフのようにしっかりとした形状を保っていた。


 巨躯から溢れ出る咽返るような腐臭が辺りを支配している。エルミナは思わず口元を抑えた。


 距離が近い所為でいまいちその全貌を推し量れなかったが、魔物が大きく翼を広げたことにより、その外形が先の討伐で相対したドラゴンと酷似していることがわかる。


「危ない!」


 広げた両翼から飛び散る肉片と粘液。その一滴が背後にいる親子に降り掛かりそうになり、エルミナは咄嗟に腕で防いだ。


 直後、身に付けていたロンググローブに粘液が触れ、その個所から煙が生じる。エルミナが慌ててロンググローブを外し、地面に放ると、そのままボロボロに朽ちてしまった。腕が曝け出され、隠していた傷跡がまた一つ露わになる。


 明らかに単なる血液や唾液ではない。


 魔物は長い首をくねらせながら悲鳴のような咆哮を響かせる。


 より一層濃い腐臭がまるで質量を持ったかのように錯覚する分厚さを伴って、エルミナの全身にぶつかった。


 その魔物、ドラゴン型のアンデッドは粘液でへばり付いたような瞼を開け、エルミナの姿を視認した。


 想次郎のような魔法を持たないエルミナでも、相手にしてはいけない存在だということだけは明確にわかった。


 同じアンデッドとはいえ、エルミナの中に蘇った人の本能が、その醜悪な姿を絶対的に拒絶していた。


 そんなこと、ある筈がないのに、エルミナの中で何かが脈打つような感覚がした。


 自然と息は荒くなり、今の身体には不要な空気を忙しなく取り込み続けている。


 傍らの少女へ意識を向けながらも、目の前の醜悪から視線を切らない。集中を途切れさせれば死が待っている。状況を把握しきれずにいるエルミナでも、それだけは確信できた。


「まあ、死んでるんですけど」


 虚勢混じりに、エルミナはそう嘯く。腰のあたりで少女が心配そうに彼女の顔を見上げる。


 エルミナは怯える少女に向かって笑みを返すが、折角のその表情も仮面の下に隠れてしまっていた。







------------------フレーバーテキスト紹介------------------

【モンスター】

アンデッド族C4:ドラゴンゾンビ

罪が消えないと言うのならば、せめてこの身を消し去って欲しい。罪以外の残された一切を。この身が朽ち、泥と混ざり合うまで。骨すらも、残さないで欲しい。雪のように白く、陽炎のように淡く、骨の最後の一欠けらが、風に流されて消えるまで。

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