第92話
「ごめん……何でも……ない」
そう言って、想次郎は一度上げた腰を再び同じ場所へ落ち着ける。
「…………」
沈黙が流れ、背後の噴水の音が耳に入った。
地面を見つめながら想次郎は思う。
あの世界が仮に夢だったとしても、結局は中途半端だったと。
確かにあの世界の中においては、想次郎は決して弱いわけではなかった。しかし、よく創作の題材にされるような「最強」というわけでも、「チート」と呼ばれるような圧倒的な力をもっていたわけでもない。そして何よりも、虚構の中であっても自身はどうしようもなく弱虫のままだった。
想次郎という人間は、どうなろうとも、想次郎のままだった。
最弱でもなく、最強でもなく、ただ相変わらずの怖がりで泣き虫で弱虫な自分。全てがことごとく中途半端。
「そうそう、今日学校で大変なことがあったんだ」
「え?」
齋藤が突然沈黙を破るようにそう切り出した。
「お前は真っ先に帰っちゃったから知らないだろうけど、ほら、同じクラスの雪城、あいつ階段から落ちてケガしたんだよ」
雪城とは想次郎のクラスでイジメを先導していた女子生徒の名だ。そして想次郎が階段から突き落とした女子生徒の名でもある。
「…………そう……なんだ」
不意打ちを食らった想次郎は息が詰まりそうになりながらも、何とか当たり障りのない言葉を絞り出す。
「……で? 無事……だったのかな?」
「さあ? でも救急車で運ばれたらしいよ。そのあとのことはわかんない」
あの世界が虚構であった以上、現実のこの世界で罪と向き合わなければならない。目まぐるしい心情の変化の中で希薄だった罪への意識が、今この時になって急激に想次郎の中で膨らんでいった。
「誰がやったんだろうね」
想次郎の心中を知らないであろう齋藤は、ポツリと呟くように言った。その何気ない言葉が想次郎の胸に突き刺さる。
「うん……だ、誰……だろう。……怖いね」
想次郎は齋藤の言葉に合わせるように言葉を返す。返しながらも言いようのない罪悪感に苛まれていった。
想次郎のしたことは間違いなく暴力的で決して美化できることではない、責められるべき行いだ。その反面突き落とした女子生徒もまた断罪されるに値する人物だ。だが、今となっては自身の方が圧倒的に大罪人である、想次郎はそう思った。
「何言ってんだよ」
相手の目を見れずにいる想次郎の耳に入る齋藤の言葉。その声からは感情が消えていた。想次郎がその違和感に反応するよりも先に齊藤は言葉を続ける。
「何言ってんだよ。お前がやったんじゃん」
「…………え?」
想次郎は一瞬、何を言われたのかわからなかった。依然として視線を向けられないまま、何もないアスファルトの溝へ視線を泳がせる。
「…………どう……いう」
「だから、あんたがやったんだって言ってんの」
瞬間、想次郎の腕が掴まれる。想次郎の腕を掴んでいる手はぎりぎりとより強く締め付けていった。
そして、その声は既に齋藤のものではなかった。
腕を掴まれたまま、傍らの人物へゆっくりと視線を向ける想次郎。
「階段から突き落としておいて、よくも平気でそんなこと言えたわね」
傍らに腰掛けるのは、想次郎が階段から突き落とした筈の雪城だった。腕を掴んだまま、冷たい視線が想次郎の揺らぐ瞳を射抜いている。
「あ……え……」
何かを言おうにも、想次郎の口からは言葉にならない音だけが漏れていた。
「あの……ご……め……」
「いいの」
辛うじて謝罪を口にしようとした想次郎の言葉を遮ると、雪城は必要以上に短い制服のスカートをはためかせながら軽快な挙動で噴水の縁に立つ。
「ほら、あんたも立って」
そう言って手を引かれながら、想次郎も立ち上がる。噴水の縁の上と下。雪城から見下ろされる形で想次郎は彼女と向き合う。
「許してあげる」
「え?」
下から見上げる雪城の表情は笑顔だったが、しかしその瞳は変わらず冷たいままだった。雪城はゆっくりとその両手を想次郎の両肩を置いた。
「これで、許してあげる」
「…………? あっ!」
戸惑っていると想次郎はそのまま彼女に両肩を押され、後ろに倒れる。
反射的に片足を下げ、体勢を保とうとするが、下げた足が地面に着地することはなかった。行方をなくした片足からがくりと崩れるように後ろ向きに落ちる想次郎。
「なん……で……?」
そのまま仰向けの状態で落下しながら、雪城を見る想次郎。彼女は依然として笑っていた。
そして落下しながらも想次郎の目に映るその景色は、先程までいた筈の商店街前広場ではなかった。
そこは想次郎の通う高校の階段。想次郎が雪城を突き落としたあの階段であった。階段の最上段に見える雪城の姿が遠ざかって行く。
徐々に遠ざかり、その表情がよくわからなくなった瞬間、想次郎の全身に衝撃が走った。そして意識は暗闇に落ちて行った。
(ああ……今度こそ死んだのか……)
そう自覚し始めると、想次郎の全身を恐怖が襲う。先程までまったく感じていなかった恐怖が今更急に思い出したかのように、想次郎の全身を支配していった。
その苦しみに喘ぎながらも、想次郎は妙に納得していた。
いや、諦めていたという方が正確だ。
自分はそれだけのことをしたのだと。これは当然の報いだと。
そう思いながら、想次郎は言い知れぬ恐怖に身を委ねた。
「――さん」
不意に誰かの声が想次郎の耳に入った。だがくぐもった音でよく聞き取れない。
「――ろう……さん」
今度は先程よりもはっきりと聞こえる。しかし想次郎にはまだその声の正体がわからない。
「想次郎さん」
その瞬間、想次郎は両目を開いた。眩い光の中で一人の女性が想次郎を覗き込んでいた。
光に照らされ白銀に輝く髪、燃えるように紅い瞳、その女性は想次郎が目を覚ましたとわかると、瞼をスッと微かに細めた。
想次郎は震わせながら必死で手を伸ばすと、その彼女の手を取る。そして枯れた声を絞り出した。
「好きです……」
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