第91話

 想次郎の中で、その日に何か行動を起こそうと心に決めていたわけではない。


 本当に、急に、突発的に、それは起った。いや、起こしてしまったというのが正しいだろう。


 その日、想次郎が授業を終え教室を出ると、彼よりも先に教室を出た女子生徒の後ろ姿が目に入った。顔を見ずとも、後姿でその彼女がイジメの首謀者の女子生徒であることはすぐにわかった。


 特段何も考えず、一階へ続く階段を目指す想次郎。目的地が同じなだけに、必然的にその女子生徒の後を付いて行く形になる。


 階段に差し掛かった時だった。その女子生徒は誰かからの着信を受け、スマホを耳に当てたまま階段を目前に立ち止まる。想次郎も不意に立ち止まった。


 何故そう考え至ってしまったか、想次郎自身未だによくわからない。


 想次郎の目の前にはイジメの首謀者である女子生徒の背中。通話相手との会話に笑い声を上げながら階段を下ろうと一歩を踏み出そうとしている。


 ただその刹那、想次郎は確かに考えてしまった。


(今なら……)


「あ……」


 その瞬間の想次郎の記憶は酷く曖昧だ。


 しかし、ふと我に返った時に想次郎の目に入ったのは、階段の下で横たわる女子生徒の姿だった。思わず身体が硬直し、その様子を眺める想次郎の耳に入ったのは苦しみに喘ぐ彼女の呻き声。


 それを聞いた瞬間、想次郎はその場から逃げ出した。


 曖昧な記憶とは裏腹に手に残る感触。あの場には想次郎と例の女子生徒しかいなかった。記憶が不確かでも、想次郎がしたことは明白だった。


 逃げ出し、そして自室に飛び込むと想次郎すぐにゲームを起動させた。


 現実のことなど忘れて早く彼女に会いたい。この世界から逃げ出したい。その一心で。


 何故あんなことをしてしまったか、想次郎の中で結論が出ていないままだった。しかし、今になって想次郎は思う。


 不幸と呼べる程不幸ではない。平凡を嘆く生き方を気取ろうにも、自身と同じ表情をしている人間なんて掃いて捨てるほど見掛ける。


 別に想次郎はイジメられている女子を助けたかったわけではなかった。


 ヒーローになりたかったわけでもない。


 ただ、何かが変わるかもしれない。そう思った。刹那的にそう思ってしまった。それだけだった。


 そしてその犠牲になるなら、あの女子生徒が相応しいと、恐らくは心のどこかでそう思ったのだと、想次郎は今になって考える。


「皆月?」


「っ!?」


 自身の名を呼ばれ、過去の記憶から意識を戻される想次郎。高まる心拍数。恐る恐る俯き気味だった面を上げると、そこには想次郎の見知った顔があった。


「齋藤君……」


 その人物は想次郎の数少ない友人の一人。クラスメイトの齋藤であった。


 知り合ったのは中学生の頃。特に示し合わせることもなく、二人は偶然同じ高校へ進学し、そこから交流が深まった。


 中学時代は特段仲が良かったわけではない。会話すら数える程だった。高校入学当初、見ず知らずの人間が大勢いる中で、ただ偶然同じ中学校出身だったというだけで次第に話すようになり、現在に至る。齋藤という生徒自身も、想次郎と同様であまり人付き合いが得意な方ではないだけに、同じ中学出身の想次郎とは事ある毎に積極的に絡むようになっていた。


「こんなとこで何してる?」


「いや……別に……」


 自身の現状を説明することができない想次郎は、適当に言葉を濁す。


「まあ、いいや」


 そう言いながら齋藤は想次郎の隣へ腰掛けた。


「…………」


 想次郎にとってこの友人という存在が疎ましいわけではなかったが、今はどう取り繕うともあまり社交的になれる自信がなかった。普段ならば人の顔色ばかり伺ってしまう程に気弱な性分だが、今は冷たく素っ気ない態度になってしまうことが気にならなかった。この時ばかりはむしろ早々に愛想を尽かして去ってくれることを願ってしまっていた。


「どうした? 元気ないな」


「いや……別に……」


 そんな返答しかできない自分に多少の自責の念が芽生える想次郎。しかし、やはり今の想次郎には他のことを気に掛ける余裕がなかった。


「そうそう、皆月さあ、あのゲームまだ進めてないの?」


 想次郎の様子から何かを感じ取ったのか、齋藤はあからさまに話題を変えた。


 齋藤の言うあのゲームとは、想次郎がエルミナというモブモンスターに出会う為に毎日のようにプレイしていたVRゲーム〝リリイ・オブ・ザ・ヴァリ〟のことだ。元はと言うと、そのゲームを想次郎に勧めたのが齋藤であった。無論、斎藤からしても、想次郎がゲームの本筋とは全く異なる異質な楽しみ方をすることになるとは予期していなかったのだが。


「まあね」


 想次郎は最小限の言葉で応える。


「相変わらず、バンシーとの墓場デートか? 剣と魔法の本格ファンタジーゲームをギャルゲーに昇華してしまうとは……。お前は本当に上級者だな」


「まあね」


「でも、もったいないなぁ。もっと先に進めば可愛いキャラなんてたくさん出てくるのに。学園生活編なんて……あ、これ以上はネタバレだな、はは……」


「心配しなくても僕は今のまま進むつもりはないよ」


「いやいや、さすがにもう、そろそろ進もうよ。レベルだって40超えてるんだろ? しばらくは楽勝で攻略できるだろうよ。決闘場のサブイベントだって、あの辺で出るレアエンカウントのモンスターだって、楽勝だ」


 聞きながら想次郎はシナリスとナツメの顔を思い浮かべる。そしてエルミナの顔を再び頭に思い描く。あの者たちとの出会いも全ては創作の賜物。全て筋書き通りの虚構だったのかと。


「嫌だよ……」


 もう聞きたくない。しかしその理由を説明できない。そんな想いで想次郎は短い言葉を返す。


「頑なだなぁ。お前くらいじゃないの? あの最初の街から進めようとしないの」


「嫌だよ。だって……」


 そのような友人とのやり取りは、これまで幾度かあったため、ほとんど反射的に答える想次郎。そして答えながらも、想次郎は突如奇妙な感覚に陥る。


「だって……」


(だって…………なんだ?)


 迷うことなく口から出掛けた言葉とは裏腹に、想次郎は何故自身がそのようなことを口走っているのか、理解が追い付いていなかった。


 いや、理解できないというと語弊がある。想次郎は忘れてしまっていた。


 これまでろくにストーリーを進めてこなかった想次郎。一度だけ気紛れに進めたが、その時も最初のボス攻略後にわざわざセーブデータを消去した。そしてやはりそれ以来、想次郎が最初の街から先に進むことはなかった。


 何故、斎藤が言うように頑ななまでに進めようとしなかったのか。


 そして、何故一度進めた折に、わざわざデータ消去までしたのか。


「だって……進めちゃったら……」


 まるで答え合わせをするように、口から出る言葉と記憶へと、交互に意識を向ける想次郎。


「だって、そんなことしたら……エルミナさんの…………」


 そこまで口に出して、ようやく思い出す。そして何故この瞬間まで忘れていたのかは結局わからないままだった。


「皆月、どうした? 変だぞ? まあ、変なのは普段からだけど」


「齋藤君、ごめん!」


 怪訝そうにする齋藤に向かってそう言うと、想次郎は勢いよく立ち上がった。


「僕! 行かなきゃ!」


「行くって、どこへ?」


「決まってるよ! エルミナさんの……」


 そこまで口に出して、想次郎は我に返る。


 あの世界が虚構であった以上、どうすることもできない。いや、する必要がない。


(行くって……どこへ? あの世界は……嘘だったんじゃないか……)

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