人類の泡沫にクジラは鳴かない
もくはずし
人類の泡沫にクジラは鳴かない
ガン、ガン、ガリ、ガリ、ガリガリガリ……。
光の届かない洞窟の中で、鈍く岩を削る音だけが響き渡る。音の出どころだけが、地面に刺さった手製の松明によって、なんとか暗闇をはね除けている。動物の類はおろか、植物すら見当たらない乾いた岩窟に、彼は立っていた。
擦り切れだらけでくすんだ黒色一色の学生服には、『片丘第二中学校』と刺繍されていた。肩までかかっている髪に水気はなく、やせ細った顔と体に似つかわしくない、ギラギラとした眼差しだけが、彼の生を象徴している。
彫刻刀とは言い難い、変形した鉄管を持っている柄山克は、生涯最大の仕事に手をかけた。
あてずっぽうで行き当たりばったりであった半年間、彼は常に『最後』の仕事に手をかけ続けてきた。今回はこれまでになく、『最後』にふさわしい仕事だと、彼は奮起していた。いつ終わるかわからない人生で、その意識が彼の気力を保たせていたのだった。
くすんだ茶色の壁が、ある程度彫り進めると明るい灰色を見せる。柄山は、比較的平坦な岩肌に鉄管の残骸で絵を彫っていた。紙の上にペンを走らせて描く絵とは異なる勝手に苦心惨憺しながらも、少しずつ慎重に事を進めていた。実に2日前には、既に彼の頭に全てが完成していた。にもかかわらず、洞窟内の失敗作の数々は全3枚のうち、1枚目の描き始めで筆、もとい鉄管が止まっていた。描き直し不可能かつ、思った通りの描けない上、そもそも堅くも脆い岩肌は簡単に剥がれ落ちてしまう。
けれども今日の柄山は、これまでの挑戦とは比較にならないほどに慎重に、丁寧に岩を削っていた。ここは当たりの壁だ。他の場所とは比べ物にならないくらい強固で、岩盤を叩いて穴をあけてもボロボロと崩れていかない。最高の壁。柄山はここを本番と定めて、腰を据えていた。
彼の目の前にはまっさらな岩盤が聳え立っている。2枚目の絵を慎重にかつしっかりと彫り始めていた柄山の目にはあの日の光景がありありと映し出されており、そこは暗い洞窟などではなく、澄み渡る青空の下、山から街を見下ろしているその瞬間だった。
※※※
忘れもしない9月24日。まだ中学1年生だった僕は、振り返ると周りよりも少し幼かったのかもしれない。比較的勉強熱心な友達が多かったので、小学校の頃よりも放課後に人と遊ぶ、という機会は目に見えて減っていた。部活が活発な学校ではなかったにもかかわらず、ほとんどの友達は塾や家庭教師との勉強といった授業の延長戦に勤しんでおり、そこまで裕福でもなければやる気もない僕は、毎日ぽっかりと穴が空いているような時間を過ごしていた。
それこそ半年前までは学校が終わればすぐに駆けだして、学校の近くにある標高300m程度の裏山に登ったり、公園で遊んだりしていたものだ。開発が急ピッチで進んでいた街は、僕が中学に進んだ頃から公園が遊ぶに適した場所ではなくなってしまった。周りが田んぼだったのであれば駆けまわったりボール遊びをしても問題なかったが、住宅が建ち並んだり、ショッピングモールの駐車場が隣接したりすると子供ながら遠慮がちになって、最早小学校低学年ですら公園ではしゃぐ子供がいなくなってしまった。
大人の世界が急拡大していったことで、思いっきり遊べる場所は裏山だけになってしまった。けれども、僕は裏山から望む街が都会化していくのを見るのが好きだった。駅を中心に聳え立っていくビル群やショッピングモール、高速道路をゆく車の数々をぼぅっと見ているのが楽しかった。今考えるとそこまで好きだったのかと言われれば、友達と遊べずに1人の時間を持て余して山を徘徊していた自分を肯定したいだけなのかもしれない。今思えば最高に平和で、素晴らしい時間だ。
その日も同じように、裏山を登っていた。よくわからない貯水槽につながる道路があるだけの小さな山だがここで遊ぶ子は多いため、獣道のようなものがいくつも通っている。何回とさまよったこの山で迷うはずもなく、僕はいつも通り1人で山を登っていた。ちょうど夏と秋の境目で、この程度の運動であればあまり汗もかかないし、鬱陶しい虫たちも段々となりを潜め始めていた。場所によっては赤だったり黄色だったり、まだ緑色を残していたりする紅葉やハナミズキを見て年不相応の感傷を覚えながら到達する頂上はやっぱりいつもの通りの頂上で、そこにたどり着いたからと言って何かが変わるでも、何かを得るわけでもなく、ただそこについて時間をつぶして適当に帰るだけだった。いつもであれば。
遠方の暗がりに気づき、目を凝らす。なんだろう、あの影は。雲にしては速いし、飛行機にしたって大きすぎる。落ち葉の上に座って空を眺めていた僕は、遠く東の方から来る、影の一団に目を見張った。空の色よりほんの少し濃い青色だったそれは、見える限りの地平線の右から左全てを埋め尽くし、上下のうねりを伴いながらどんどんこちらのほうに迫ってくる。
ドン、ガン、ドン、ガン、ガシャガシャガシャガシャガシャ、ガガガガガガガガガ!
聞いたこともないような地響き。その一団が迫ってくるにつれ、音は大きくなっていく。
次第に視界の多くを占めるようになってきたうねりの正体は、思っていたよりもすぐに目の前に到達した。まるで飛び魚が海面を跳ね回っているかのように、白と青のツートーンカラーの生物の群れが、空と地面の間でうねっていた。音の正体は彼らが着地する際に破壊する人工物がたてる音だった。
山の上からその光景を見ていた僕は、まるで映画の1シーンを見ているように、他人事として眺めていた。白い飛沫はコンクリートを打ち砕き、青い波間に鉄筋が溶かされてゆく。まるで海が全てを洗い流すかのように、僕らの街をさらう。
逃げるという気持ちすら湧く前に、それは僕の目と鼻の先で大きな跳躍を見せた。なんというか、山を守っているみたいだった。飛んでくる物体には見覚えがあった。
「クジラだ……」
昔テレビで見たことがあった、くじらにそっくりだった。いくら子供とはいえ、クジラが空を飛ばないことは知っている。けれどもそれはまごうことなきクジラで、それ以外に適切な言葉が見当たらなかった。高層ビルよりも大きな体に1対のヒレと尾ひれがついており、背中が青黒く腹が白。地上を尾びれで打ち付け、その反動で跳躍し、また落ちてくる。何頭ものクジラによって波となったその大群は、人間のつくったものを根こそぎ破壊していった。まるで、特撮のジオラマのように、簡単に粉々になっていった。
僕を見下ろしているそのおっとりとした表情はなんというか、人間にはまるで興味がないかのようだ。最初の一頭が頭の上を飛んで行ったとき、ものすごい風があたりを薙いだ。冬の訪れを予期させる、冷たい風だった。
幾重にも連なるクジラの大群が、僕の真上を通過していった。何分呆けていただろうか。それは1時間にも、2時間にも思えた。いや、5分位しか経っていなかったのかもしれない。とりあえずその場は、僕の身に危険は降ってこなかった。飛び去ったクジラの大群は山の反対側から再び轟音を発しながら、どこかへ過ぎ去ってしまった。
「はぁ、はぁ、はぁ」
洞窟内で僕の息遣いが反響する。やはり文明の在りし日を思い出しながらそれを表出する、というのは精神的にしんどい作業だ。息の切れがちな体をなんとかなだめながら鉄管を岩で打ち鳴らす。
ガン、ガン、ガリガリガリ。
2枚目が滞りなく描き終わった。1枚目は人間の作った街や機械、乗り物なんかをふんだんに描いた。未来、どこかで生き残った人類が再びこれを見て復興できるよう、手を尽くすのが僕の役目である。あらゆる可能性を考慮して、なんの知識がなくとも伝わるよう、無い知恵を絞って慎重に頭の中の構想を形に変えてゆく。
横から見た図の中に、覚えているすべての文明を描き起こす。林立するビル群の麓には人々が歩き回り、流線型のフォルムにタイヤのついた乗り物は人々を運んでゆく。家の中には洗濯や掃除をする家電製品を描き、これは最も伝わらない気がするが、パソコンなんかもちょこんと描いておいた。幾度ない学校行事の工場見学で培った知識をもとに食料や電気、乗り物なんかが人の手をほとんど介さずに作られるシーンは、我ながら未来人をあっと驚かせられると感じる自信作だ。
2枚目はあの日山の上で見た景色そのものだ。クジラの大群が、1枚目の全てを踏み均して行く。この絵があれば、誰だってわかるはずだ。海が遠いこの地でクジラなんて描いても見る人に伝わるのかわからなかったが、迫力のある、恐ろしい存在としてその強大さと暴力性を強調した。全てを無に返す破壊神のような険しい面持ちで、1枚目で描いた全てを大胆に破壊していく巨悪として描いた。なので、細部の描写が難しい俯瞰という構図をとっても、伝える力は衰えないと思った。
あの日以来、生活は一変してしまった。僕は襲い掛かるクジラの群れに怖くなってしまって、山を下りる決断が今日までできていなかった。呆然と佇んでいたあの時の僕の目の前には第2波、第3波が襲い掛かり、そのたびに街は原形を失っていった。建物はおろか、生きている人間の気配すら感じ取れなくなっていった。最初は聞こえていたサイレンや悲鳴の数々も、次々と迫りくる波に飲まれ、消えていった。
僕のいる場所はまだ安全で、一頭たりとも尾びれを山に打ち付けたものはいなかった。僕と同じで運良く生き残ってる人間はいるに違いない。その想像を活力に半年間、山籠もりに耐えてきたが、中学生の僕にはこれ以上ここで耐え忍ぶ術はないようだ。そもそも、この冬を乗り越えられたのが奇跡のようなもので、比較的暖かい年でなかったなら、こんな場所で絵を描いてはいないだろう。
ぬくぬくと親元で、人間が長い年月をかけて培ってきた文明のなかで生活してきた時代が懐かしく、有難みが今になって分かったところで、もう過去には戻らないのだ。自分にできる役に立つこと、自分が生きてきた証が何か残せないかを探し続け、この仕事にたどり着いた。そして、これを描き終えたらどうなってもいい、下山して他の人間と合流したいという気持ちでいっぱいだった。なんといっても、ここ数か月はクジラの大群が通過することもなくなっていた。
漸く3枚目が描き終わった。僕が学校や本なんかで得た浅くて少ない知識を総動員して、電気や蒸気の扱い方社会制度の基本なんかを図解したものだ。今の僕にはこれくらいしか、伝えられるものがない。
大量の水が火にかけられており、それをもとにタービンを回す。その回転する力を電気に変えると様々なことができるところを描いたが、果たしてこの歯車と、磁力の機構は伝わるのだろうか。電気とは何か、が自分自身わかっていないので、これ以上描くこともできない。
社会制度と言っても、関節民主主義の基本形、すなわち構成員全てが投票の上リーダーを決めるということを描いたつもりだ。すべての人間が1人の人間を指さし、彼が様々な支持を行う様子を描いた。
それなりに成績はよかったものの、もっと勉強をしっかりしておけば、という後悔の念に駆られながらなんとかそれらを描き上げた。もっともっと伝えなければならない技術があるはずだし、もしかしたら描いたもの全て間違っているのかもしれない、もしかしたら伝わらないかもしれない。そんな不安は全て押しとどめ、完成させることだけを目標にひたすら岩を削った。
思い出したくもない記憶を掘り起こし、腕が動かなくなるくらい体を酷使した。睡眠欲は限界を迎え、3日分の眠りを欲している。一旦ここで寝よう。そして、ここで眠るのはそれが最後だ。明日から、新天地を求めて歩き出そう。そう決めた僕は洞窟の入口付近の寝床まで何とかたどり着くと、泥のように眠った。
※※※
洞窟に光が差す。柄山は数日ぶりの日光に無理やり目覚めさせられた。本当はもっと眠っていたいと体が悲鳴を上げているようだが、強い日差しがそれを許してはくれない。さらに彼には下山という新たな目標があり、それについての希望で胸が膨れていた。期待感が彼の早起きを強制した。
一仕事終えてそこそこの体力を回復させた彼の清々しい朝たるや! あらかじめ残していた野イチゴの実を急いで腹に入れ、洞窟を出る。多少の食料と日用品だけを持って、山を降りるべしと歩き出す。
あの日と同じ、青い空。梅の匂いがどこからか漂い、春の訪れを感じさせる。色づき始める草花が彼の旅立ちを祝福するようだ。優雅に漂う蝶や俊敏に飛び回るハチに加え、彼の嫌う蚊やコバエなんかも生き生きと辺りに散在している。無味乾燥に突っ立っていた木々も緑色の装飾を備えはじめる。木々の隙間を縫って下界を覗く時は、あわよくば昔の風景がそこに広がっており、夢に怯えて山に逃げ隠れていた柄山が行方不明として捜索されている、というシナリオに彼は僅かな希望を抱く。だが、そんな望みは微塵も抱けない景色が今日も広がっている。
やがて歩いていると、あの開かれた頂上を通過する。街を一望するのも最後、と思ったのか、彼は踵を返して街を見下ろす。そこには本当にビルやショッピングモールがあったのだろうか。人はただの平野で暮らしていたのか、はたまた全ては誰かの夢の中だったのだろうか。生気のなく荒んだ大地を見下ろす。下山しても、何かが残っている可能性は低い。食料の少々も難しそうだ。しかしここにはもう用はないのだ、と彼は一歩を踏み出す。
その時だった。あの轟音が聞こえた。暫く聞いていなかったその音に、あの時の光景がフラッシュバックした彼はしゃがみ込み、耳をふさぐ。一方でここにいる限りは安全、ということを思い出すと、なんとか街の方向を見返す力をふり絞った。
以前の大群とは異なり、それは1頭のクジラだった。あの日と同じくこちらめがけて大地を弾みながらやってきた。踏み潰すものもなく、ドスンドスンと平面を叩き鳴らすかのような地響きに柄山は固まりながらも、ここにいれば大丈夫、ここにいれば大丈夫と自分に言い聞かせていた。下山はあれが過ぎ去ってからでいい、ことによっては遅らせようと思考を逡巡させていた。
それはとうとう目前に迫ってくる。過去に見たものよりも大きくなっていった。背中も青とは呼べない黒に染まっており、モノトーンの巨大な化け物が、相も変わらずゆったりと、興味のなさそうな目で彼を見下ろしている。麓に落ちたタイミングで、山を避けるための強烈に地面を打ち付ける一打が来る。いつも通りであれば。
「なんで……!」
いつもの通り、ではなかった。クジラはそれまでと同じように地面を打ち付け、柄山の真上に落下した。山の一部は抉り取られ、再びクジラは尾びれを打ち付ける。その跳躍は再び山を越え、そしてクジラは西のほうへ消えていった。
後には何も残らなかった。
人類の泡沫にクジラは鳴かない もくはずし @mokuhazushi
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