第123話:忘れられた国
[グラン・ドリオ]が吹雪の嵐を抜けると、先程までの情景が嘘のように移り変わり、晴れ渡った青空と氷海がどこまでも続いていた。
しん、と空気が静まり返ってるように感じるのは、氷の大地が音を吸い込む以外にも理由があるような気がした。
興味本位で甲板に上がっていたミラベルの隣で、バーシングがつぶやく。
「時の彼方に追いやられたのは、この地だけでは無いのだな」
その発言の意図はわからない。
ただ、彼にも彼なりの思うところはあるのだとはわかった。
真っ先にザカールを裏切るだけの理由も、彼なりにはあるのだろう。
だがそれが、彼を信用して良いという理由にはならない。
同時に、こうも思う。
――いかにも質問して来いって言ってるみたいでムカつくわこいつ。
故にミラベルはあえて無視し、傍らで不安そうにしているカルベローナの肩に指を触れる。
「何もないね。戻ろっか」
ミラベルと比較して、カルベローナが失ったものは圧倒的に多い。
無論、取り戻すために行動しているのも事実だが、ミラベルも含めてその先に何があるのか何もわかっていない。
フランギース女王の指示に従って動いているだけだ。
それでも、とミラベルは思う。
――わたしは、信じると誓ったはずだ。
自分自信に――。
言うべきでは無い秘密はある。
その一端を、ミラベルとカルベローナは知ってしまった。
……知らない者はもっと不安だろうに。
だが、知ってしまったからこその責任もある。
今は、信じて動くしか――。
カルベローナが、
「そうね」
と視線を伏せたままミラベルの指に触れる。
バーシングが慌てて割って入った。
「待て、まずは聞けミラベル卿」
「やることがいっぱいあるんですけど」
と、すぐに返す。
嘘では無い。
だが、そのやるべきことをミラベル自身で作ってるのも事実。
結局の所、ミラベルも恐れているのだ。
未知への、恐怖――。
それは、かつてジョットが知らない病気に侵された時に感じたものと同質の恐怖だった。
先行きが見えず、後ろ盾も無く、ただただ無限の荒野に放り出されたような漠然とした不安。
救いなのは、それが一人では無いこと。
以前と同じなのは、何かに没頭して紛らわすことしかできないこと。
それでも、かつても今もミラベルは、一歩踏み出し自分の信じる道を選んだのだ。
それが良いことなのか悪いことなのかはわからない。
それでも、ミラベルは一歩踏み出せる人間なのだ。
同時に、そうか、ともミラベルは思う。
友人を失うかもしれない現実から、逃げているのだろう。
仲良しのルーナ・チェルンは、今どうしているだろうか。
『……ミラベルちゃんは凄いね』
帝都襲撃の少し後、幽閉されていた[幽世の塔]に会いに来てくれたルーナ・チェルンは俯きながらそう言った。
そして、泣きそうになりながらはにかんだ笑みをミラベルに向ける。
『臆病者の家系とか、言われてて……そんなこと無いって思ってたのに……あたし、駄目だね……』
開拓者の家系、チェルン家。
ミュールの時代から国に仕えてきたのに、家から兵を出さなかった臆病者の家系。
戦後になってビアレスに取り繕った下賤の者。
ふざけるな、とミラベルは怒鳴りたかった。そう言ったやつを片っ端からぶん殴ってやりたかった。
だけど、そう思えるのはきっと……ジョット姉に育てられたからなのだろう。
本物の、ビアレスの血筋の者に――。
もう、[ハイドラ戦隊]の面々とは大なり小なり、友情と呼べるものを育んでしまったのだ。
舐め回すような視線が少し苦手なアンジェリーナですら、一応友人と呼んで良いはずだ。
バーシングが言った。
「呼んでみろ。[言葉]として。〝知恵の狩人(ウィンター)〟、と」
「――?」
意図を読みかね、ミラベルは首を傾げた。
バーシングは続ける。
「既に、俺たちの助力無しでこの地に来たのだ。ならばあいつはお前を認める」
「――わたしの、力じゃない」
「お前たちの力は、お前の力だ。そういうものなのだろう?――だから、できる。やれミラベル卿。お前たちの力は強大だ」
「それを簡単に聞いてやるほど、わたしは貴方を信用してないので」
と、突き放すように言ってやる。
――敵だろうが。
はっきりと、明確にこのドラゴンは敵だったのだ。
居なくなってしまった、[翼]の、彼とは、違う。
ミラベルは不安なのだ。
勝手なことをして、取り返しがつかないことになったとして……。
被害を出さないという自信が無い。
ふと、思う。
――彼は、本当は誰なのだろう。
ガラバか、ベルヴィンか。
あるいは別の誰かか。
決して頭の悪い人では無い。
命を救ってくれたという恩はある。
[従属の言葉]の本質を知れば、彼が限りなく善なのも分かる。
だが、それが即ち頼れる味方というわけにはならないのは、冒険者時代に嫌というほど学んでしまった。
無能な善人ほど怖いものは無いのだ。
もしも……もしも、ザカールが言う、『混ざっている』のが彼だったとして。
今もこの世界のどこかで、『混ざっている』別の誰かが彼の主導権を奪ったとして――。
先の見えないのは、たまらなく恐ろしいのだ。
バーシングがどこか楽しげに言った。
「その疑り深さ。そうでなくては困る。俺はお前が気に入ったぞミラベル卿」
……この無駄な前向きさは見習うべきなのか?
そして、ミラベルとバーシングに遺跡探索の指示が下ったのはちょうどその時だった。
※
バーシングが言うには、[竜の国]に向かうには、正しい道順を踏み、同時にドラゴンの[言葉]が必要なのだそうだ。
それらは全てドラゴンだけが持つ知識であったが、諸々全てを女王側が把握していたことで、バーシングに求められたのはただそこにいることだけであった。
ドラゴン種の存在そのものが鍵であり、即ちそれはドラゴンなら誰でも良かったということでもある。
故に、少しばかりふてくされているようだがミラベルは無視した。
同時に思う。
あの巨大ゴーレムは[ハイエルフ]の国にあり、鍵は王家の血筋。
そして[竜の国]へ行く為の知識を王家が保持していながら、その鍵はドラゴンが持っている。
これが意図されたものなのだろうとは容易に考えつく。
だがビアレスは、いつまでも世界は平和だとかいう理想論で動く男だったのか……?
物思いに耽っていると、バーシングは構えと言わんばかりに喋りだした。
「あの女、人間の女王。人の身で有りながら何故こうも容易く我らの[言葉]を使えるのだ? 確かに、長い時間と鍛錬を重ねることで二言三言の[言葉]を学んだ者はいた。だが――俺から見ても、あの量と質は異常に見える。どういうことだ?」
知るかボケ、という言葉を飲み込みミラベルは言った。
「知るかボケ」
が、口を滑らせた。
まあ別にこいつだから良いだろうとミラベルは失態を顔に出さず、話題を反らした。
「あなたたちより、こっちの方が上手だったってだけでしょ」
「確かに」
とバーシングは納得し、構ってもらったことが嬉しかったのが更に言った。
「オルドゥームは、我らの中でも最年長。かつて、ザカールがまだマティウスと呼ばれていた時代に、同士として[イドルの悪魔]を封じた者。[イドル]の専門家と言っても差し支えない」
その情報は、既に女王側から説明されている。
つまるところ、国家としては既に知っていたのだ。
だが、その女王でも知らない[紅蓮の騎士]なる者。
――[翼]の彼。
もっと、話をしておけば良かった。
今になって思うも、状況がそうさせてくれなかったのだと心の中で言い訳をする。
[司祭]となってしまったミラベルが彼と会うだけで、皆が不安になるのだ。
だから、状況が――。
そこまで考え、ミラベルは思う。
そうじゃあねえだろ、と。
結局、ミラベルは新しい友達ができて嬉しかったのだ。
妬まれたり疎まれたりしていた[魔術師ギルド]とは違う、ずかずかと人の領域に踏み込んでくる、友達。
ただただ楽しくて、ミラベルは恩人のことを忘れたのだ。
昔のミラベルなら、他人の不安など無視して彼の元に行ったはずだ。
未知へと臆すること無く飛び込んだはずだ。
だのに、大切なものができ、それを失うものが怖くなった結果、臆病になってしまった。
ミラベルは、幸せでがんじがらめになってしまったのだ。
同時に、嫌なことを思い出す。
『――お前もまた、私に縋るだろう』
ザカールは、不愉快な男だ。
そんな瞬間が来てたまるものか。
だが、もしもカルベローナの身に何かあったら。
その知識を、ザカールが持っているのだとしたら。
可能性は恐怖である。
そんな悪寒を感じ、ミラベルはぶる、と肩を震わせた。
股下のバーシングが言った。
「どうしたミラベル卿。我らの故郷は間近だ。寒いのか? 怖いのか? 武者震いか? 全部か?」
どれも違うわボケ、と言う言葉を飲み込みミラベルは問う。
「そもそも、あなた帰って襲われないんですか? 裏切り者ですよね?」
当時としては人間側についたドラゴンこそが裏切り者だったのだろうが、立場が変われば見方も変わるのだ。
だが、バーシングは笑った。
「人間らしい見方だ、嫌いでは無いぞ! 面白いな!」
イラッとしたミラベルは踵で彼の首横をぐりと蹴る。
「答えになってねえだろ……」
「そう急くな。ミラベル卿、我らは不死身だ。命は無限であり、殺されても死なない。ほんの数百年裏切ったところで、我らからしてみれば大きな問題では無いのだ」
「それは裏切った側が言っちゃ駄目な台詞ですよね」
「ああ、わかる。見たものしか信じないのだな。俺もそうだ」
「…………」
「もうじきその目で見ることになる。そしてお前は俺の言葉の正しさを知るのだ。楽しみだ」
ミラベルは無性に腹が立ち、思い切り舌打ちをする。
ジョット姉が見ていたら、癖になるからやめろと怒鳴られるだろうが――。
更に吹雪の中を飛ぶと、後方を飛ぶウィンターの首に跨るメスタが言った。
「すごい吹雪だけど、道はあってるのか!?」
……結局、あの後ミラベルはウィンターを呼んだ。
バーシングの言う通りになったのは不愉快だったが、感情よりも利を優先できたのはほんの少し大人になった証拠なのかもと自分をごまかした。
すぐにバーシングが答える。
「愚問だ、ゼータのメスタ。俺はたちはただの鍵として置かれただけだ、進路はお前たちの女王が決めている」
「な、なんだ、その呼び方……!」
「そう憤るな。俺は見たものしか信じない。お前はゼータに似ている別の者だということだ。――抜けるぞ」
メスタの股下のウィンターが、
「我らをただの鍵扱いにするなど――」
と小声で言うと、バーシングが笑った。
「そうだな! 新しいものの見方だ!」
更に飛ぶと、やがてさーっと雪の粒が頬を撫で、光が視界を覆った。
次の瞬間には、雲ひとつ無い青空が眼前に広がる。
しかし、とミラベルは思う。
眼下に広がっているのは、ただただ自然のままの氷海。
彼方に見えるのは、どこまでも続く氷の大地。
すなわち、何も無いのだ。
これが……こんな物が、[竜の国]なのか?
バーシングが懐かしむように声を漏らす。
「変わらないのだな、ここは――いつまで経っても」
ふと、最後の一言にどこか軽蔑するような色を感じた。
ミラベルは問う。
「千年も経っているのに……?」
「そうだ。彼らは停滞を良しとし、世界の変化から距離を取ったのだ。ただただそこに存在し、永遠の時を木や岩のように過ごす。傍観者で有り続けるなど、俺には耐えられない」
ほんの少しだけ、バーシングの気持ちがわかったような気がした。
そしてその結果、ザカールのような邪が生まれたのだ、とも。
バーシングが語る。
「名は無い。ただの氷海、氷の大地が国の半分。そしてもう半分は、火山地帯だ。開拓もせず、小規模な漁業と狩りだけで生活している」
ミラベルたちの背後で光が溢れると、遅れて旗艦[グラン・ドリオ]が結界を抜け、姿を表した。
「ミラベル卿、俺の見たままを伝えておけ。ここがそうだと。何もない場所だと」
「あ、うん……」
「後は、お前たちの女王に委ねる。長の居城、[オルドゥーム遺跡]を目指すのだろうがな」
バーシングとウィンターを先頭にし、[グラン・ドリオ]は、ただの氷海と氷の大地の空を征く。
天候は快晴。
風は無く、氷の海にはアザラシやペンギン、シャチなどの生き物の姿がそこかしこに見える。
音は氷に吸い込まれていくような、不思議な静けさが漂う[竜の国]。
そこからは、ただただ静かなひと時だった。
襲撃は無く、新しい発見も無く。
やがて、空中に浮く奇妙な石の古城にたどり着いたのだ。
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