第122話:賢王が残したもの
望んだ朝、理想に最も近い状況だというのに、アンジェリーナの心の内は苛立ちのほうが強かった。
例え道を誤ったとしても、ドリオ・マリーエイジが父であったことは事実なのだ。
愛されようとしていた時期だって、あったのだ。
だからこそ、その父の悲願でもある今のアンジェリーナの立場は、マリーエイジ家の本懐でもある。
しかし、と思う。
無理だろうと諦め、しかしどこかで待ち望んでいた結果であっても、期待していた過程を通ることができなかった。
それだけで、こうも不愉快な感情に支配されるのか。
リディル・ゲイルムンドが[王]を裏切った。
ずっと一緒だったのに。
リディルならば――彼女になら、負けを認めても良いと思っていたのに。
彼女ならばアンジェリーナの胸の奥底の欲望や、チリチリと焦がす野望を諦めさせてくれると思っていたのに。
父が命を賭けて、守った子なのに。
だのに、[王]を裏切り、国を捨て、あまつさえ世界に、守るべき王に仇をなす邪な者へと成り下がった。
悔しくて悔しくて、アンジェリーナはベッドの上でぎゅっと唇を噛んだ。
こんな形で、剣聖の座に付きたかったのでは無い……。
ふと、思う。
――私は、あの子と戦ったことがない。
模擬戦だとか、訓練だとか、そういう話では無い。
彼女を本気にさせたことが一度も無いのだ。
数日前、[ロード・ミュール]の甲板でリディルが反旗を翻した時は、アンジェリーナは持てる力の限りを尽くした。
生まれてはじめて、リディルに対して全力で挑んだ。
だと言うのに――戦い、と呼べるようなものではなかったのだ。
あしらわれた、と言ったほうが正しいかもしれない。
戦わせてすらくれない、相手。
成すべきことを、成せ。
魔人ビアレスの血筋、フランギース・ガジットが[王]の力を奪い、何処かへと逃亡を図った。
[王]は弱っている。
アンジェリーナと魔力の相性が非常に良いというのは、光栄だし救いである。
毎日彼女と同じベッドで、手を握って眠りにつけるのだ。
それは従姉妹であるアンジェリーナの特権だろう。
[王]の血を持つ他の者たちも、魔力の譲渡を志願したものの、総量があまりにも足らない。
だから、アンジェリーナは生まれ持った才能、七つもの[天性属性]と[強属性]に感謝した。
――私だけが、[王]を支えることができる。
その感情が熱を帯び、アンジェリーナの思考を本来の聡明さから遠ざけていることに気づかない。
だから、アンジェリーナは[王]からテモベンテ隊と共に出撃し、リディルらを殺せと命じられた時でさえ、立場上そう言わざるを得ないのだと、[王]も本心では苦しんでいるのだと胸を痛めただけだった。
※
追撃部隊の編成で[花の宮殿]も慌ただしくなり、志願者のリストをまとめ、自らに与えられたマリーエイジ家専用[魔導アーマー]の最終確認を終えたちょうどその時だった。
出撃の延期を、ロベル・パイソン卿から告げられたのだ。
彼は[裏切り者討伐隊]の編成に最初から反対している者の内の一人だ。
「……陛下の命が聞けぬと、そう仰るのか」
怒りと苛立ちのまま、アンジェリーナは静かに問う。
「テモベンテの合意も得た。ようやく他の議席も後継者が出揃ったことで、会議は正常に戻る」
気に入らない言い草だ、とアンジェリーナは更に苛立った。
「陛下の意に背いているのでは?」
「議会政治である。我らは千年前に陛下が提言し、作り上げた仕組みに乗っ取りここにいるのだ。我らが意に背くことも含めて、陛下への忠臣だと理解している」
「――屁理屈を……」
苛立ちが息と共に声となる。
だが、パイソン卿は意に介さずに続ける。
「陛下は焦っているように見える。なればこそ、陛下の道を正し、助言し、叡智を授けるのが我らの務め。――無論、人材が不足しているところを否定するつもりは無いが」
ふと、パイソン卿が緊張を解き、少し離れた場所で興味深げに[魔導アーマー]を様々な角度から眺めている男に視線をやる。
パイソン卿が少しばかり小声になり、言った。
「貴公が剣聖となったことで、議会に空席ができた。――他の者らの推薦が有り、あのような男が議会の一員となった。……どうも、きな臭いように見える。どう思う?」
「どう――」
思わず彼の言う男に視線をやる。
その男は、飄々と軽薄そうな態度を取っているように見えるが、視線や物の触れ方に奇妙な敬意を感じ、そのアンバランスさがなぜだか不気味に思える。
この手の人間は何かをきっかけに豹変するタイプだ、と直感する。
アンジェリーナは、父に監視されながら貴族と何度も交渉してきたのだ。
だから、アンジェリーナはこの直感を大切にしていた。
「……警戒はします」
短くそう述べると、パイソン卿は、
「頼む」
と返してから、その男を呼んだ。
「いつまでそうして遊んでいるのだ、ユベル・ボーン殿!」
すると、名を呼ばれた青年、若き実業家のユベル・ボーンはどこか楽しげに顔を向け片手をあげる。
「すまない、パイソン卿!」
彼は隣にいた整備士に、
「ありがとう、素晴らしいものを見せてくれた」
と肩にぐっと触れてから微笑んだ。
すぐに踵を返し、こちらに足早に向かってくる。
先の戦いで、彼の雇う傭兵部隊もほぼ壊滅したと聞いた。
彼自身も最前線で戦い抜いたことから、それなりに評価されたようだ。
パイソン卿が眉間に皺を寄せる。
「あまり勝手をされては困る。貴公は議会の一員となるのだ。――推薦した者、票を投じた者らの顔に泥を塗るな」
「これは失礼を。軍事用のものを間近で見ることができたので――」
「責任を持てと言った。貴公の成すべきことは、趣味に没頭することでは無い」
「それは勿論。はしゃいでしまいましたことを、お詫びします」
白々しく頭を下げた彼に、パイソン卿は冷ややかな視線を送る。
「貴公には貴公の仕事がある」
パイソン卿が短く言うと、彼は頭を下げたまま、
「勿論」
と機嫌よく答えた。
パイソン卿がアンジェリーナに言った。
「――魔人フランギースの手から、救出された者がいる」
唐突に切り出された話の内容に、アンジェリーナは返すべき言葉が見つからず息を呑む。
同時に、その情報を[王]直下のアンジェリーナよりも早く掴んでいるパイソン卿の手腕と、壊滅したまま復旧の目処が立たない[盾]と[剣]の弱さが悔しくてぎゅっと奥歯を噛みしめる。
――形だけの、組織。
前任者が死に、[盾]と[剣]の正しい情報の在り処は[王]しか知らないのだ。
アンジェリーナが知っている知識は、表向きに公表されている情報だけだ。
曰く、それは[神器]を用い、[王]より信託されるのだとか。
そうすることで、[盾]と[剣]の長にだけ伝えられてきた、俗に言う[試練の間]と呼ばれる何処かへ単身で向かい、突破する。
そしてその儀式は、[王]だけが知っているのだ。
だが、[王]の体調が優れないことから儀式は行われておらず、それどころか――。
続きを述べようとしたパイソン卿を遮り、ユベル・ボーンが唐突に言った。
「――[禁書庫]を開けられなかったという話を耳にしました」
それは、意識の外からの攻撃であり、アンジェリーナは一瞬息を詰まらせた。
すぐに失態だと気づくも、もう遅い。
ユベルはにんまりと満足気に微笑む。
「ありがとう、お嬢さん」
その言い草が余計にアンジェリーナの神経を逆撫でる。
パイソン卿が絶句し、ユベルに小声で詰め寄る。
「――おい!」
「失礼。まさかとは思いましたが、アンジェリーナ嬢――剣聖、殿のご様子。どうやら事実のようですね?」
「貴公が議会に推薦されたのは、魔人の人質にされていたレイブン家の長男を無事に救い出したからだということを忘れるな」
レイブン家の――。
アンジェリーナはようやく平静を取り繕えるほど落ち着きを取り戻し、言った。
「ダーン・レイブン……? 十三番隊の――」
友人、と呼べるかは微妙なとこである。
知人ではあるし、同僚でもあるが――。
しかし、と思う。
「救出、とは?」
「詳しくは議会でお話致しますが――[支配の言葉]というものを、剣聖殿はご存知か?」
ユベルが薄い笑みで述べた言葉の意味を記憶から辿ってみたが、思い当たるものは見当たらない。
ユベルが続ける。
「彼が言うには、ほとんどの者は裏切りったのでは無く、魔人フランギースが放ったそれによって洗脳されている状態にあるのだとか」
それは、即ち――。
パイソン卿が難しい顔で言った。
「無論、全てを信じたわけでは無い。だがそのような[言葉]の可能性は、考慮すべきだし、既にその情報は広まってしまっている。――どこから漏れたのかは知らぬが」
と、彼はユベルをじとりと睨みつける。
「ボーン家から漏れた可能性は、否定しませんとも。先の戦いで多くの人員を失ったので、冒険者や傭兵で補っているのです。――彼らの口を完全に閉ざすことは不可能でしょう」
――この男……。
アンジェリーナは言いようのない不信感をユベルという男に抱く。
まるで、状況を楽しんでいるような――。
ユベルが柔和な笑みを崩さずに言った。
「操られている民ごと、敵を討ちますか?」
それが許される国で無いことを、この男は知った上で言っているのだ。
[王]に許されている権限は、あくまでも[承認]のみなのだ。
そして議会のメンバーは、各々の[ギルド選挙]と呼ばれる投票で決められる。
最終的に議会のメンバーを選ぶのは、国民なのだ。
故に、[王]の長い平和の統治の結果、軍事部門は縮小され、大半が生産系や工業系のギルド長が議会にいるのは時代の流れである。
そこにいきなり、彼らは裏切ったのではなく操られているのだ、そして操られている家族ごと魔人を討伐する、などという事態になったらどうなるか――。
アンジェリーナは、まるでユベルが混乱の種をわざわざもってきたような錯覚すらしてしまい、目眩をしてきた頭を支える。
やるべきことが――考えなければいけないことが、多すぎる。
ともあれ、これで出撃の計画は白紙に戻ってしまうことだろう。
裏切り者の討伐、人質の救出作戦という大義名分が一気に崩れてしまうのだ。
心のどこかで、リディルも[支配]されたのなら、と安堵している自分に気づきつつも、アンジェリーナは平静を装った。
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