第83話:内側の敵
手元の資料を読み終えたその青年は、楽しげに鼻を慣らした。
線の細い顔立ちと、耳元までかかるくすんだ茶色い髪の色をしている青年だが、身なりは整えられており、身分の高さが伺える。
彼の名は、ユベル・ボーン。
三十歳でありながらもボーン家当主として才覚を発揮し、たった一代でボーン商会を業績を伸ばし、もうじきこのボーン商会はグランイット帝国で最も巨大な企業になろうとしているのだ。
目の上のたんこぶとして、マクスウェル商会があったが、現当主であるシグルド・マクスウェルが体制側に組み込まれたことで、いくらかボーン商会が動きやすくなったのは幸運なことであり、同時に不幸なことである。
国家のインフラ、として先を越されたのだ。
ボーン商会の社員たちは大いに焦ったが、ユベルはその様子を冷ややかに見ていた。
そこじゃないだろう、と。
ボクたちは、国のためだなんてカスのようなくだらないことのために生きているのか?
違うだろう。
ボクたちは、ボクたち自身のためだけに、生きているんだろう?
だったら、ボクたちの目指すのは、国家と共にあるだなんて馬鹿なことじゃあない。
ふと、傍らにいた老執事が言う。
「マクスウェル商会が、帝都復旧のために寄付を募っているようですな」
ユベルはすぐに答える。
「一応参加しておこう。印象ってのはやっぱ怖いよ。でもやるのはそこまでだ」
「と、申しますと」
「マクスェル側は、この後も大勢がインフラの回復のために参加するんだろ? なら、ボクたちはさっさと通常営業に戻させて貰おう。ああ、割引くらいはするけども」
そして、ふと思いたち、付け加える。
「ザカールってさ、どこに捕まってるんだろうね?」
老執事は答える。
「此度の襲撃は、ザカールではなく、かの名を騙る[暁の教団]によるもの、という情報もありますが」
「まさか! そんなわけ無いよ!」
老執事は少しばかり眉間にシワを寄せ、ユベルの意図がわからないと言った様子で黙りこくる。
ユベルは飄々とした性格だが、不確実な情報を信じるほど愚かではないのだと知っているからだ。
ユベルは小さくため息をつき、言った。
「国が、ザカールの知識を独占したら、それはつまり国家に取り込まれたマクスウェルの連中がその後も経済を牛耳ることにもなりかねるんじゃない?」
「それは――しかし、憶測です、旦那様」
「キミの言ったことも憶測じゃないか」
「では……いえ、しかしザカールが捕らえられたという根拠がございません」
「映像は見たろ? 仮面の男」
「見ましたが、それがザカールであるという根拠がございません」
「ああんもう! 言うじゃないかっ」
「わたくしめは、ご党首様の、ひいてはボーン家の繁栄に努める者であります」
「だったら、ボクの言うこと信じられない?」
「根拠が、ございません」
「んもう!……でもま、だから良い。そうでなくては困る。そうじゃあ無いと、ふふ、消えて欲しいって思っちゃうところだ」
ユベルがあっけらかんと言うと執事は表情を変えずに返す。
「旦那様は戦いでも一流であらせられる」
「そういう世辞は嫌いだ」
「世辞ではございません」
「そうか、ならば見解の違いだ、ありがとう」
執事の眉間に少しばかり皺がよる。
ユベルは気にもとめずに言った。
「一流ってのはボクの知る限り一人だ。ゲイルムンド家の娘。ありゃあ無理だ、怖いよ。近づきたくない。……いやほんと、有視界戦闘だと勝てない。毒を盛ろうにも、ガジット家とか、チェルン家とか、マリーエイジ家とか、もう全員でガッチリ囲っちゃってるからどうして中々消えてくれない」
一度ユベルは言葉を区切り、鼻から小さく息をつく。
「じゃあボクは二流か? って思うんだけど、それもまた違う。二流なら結構いる。ゲイルムンドの怖い剣聖とか、この前おっちんじゃったドリオ・マリーエイジとか。二流ってのは一流に一歩及ばない連中のことだ。――というわけで、ボクはボクのことを三流だと思っているんだけど、どうだい?」
「確かに、その見方ならば旦那様は三流でございます」
「あ、そう? だよね。でもちょっと傷つくな。ま、しゃーない! 切り替えていこう! それはそれ、これはこれってね! で、何だっけ? ああ、根拠?」
「さようでございます。いかに旦那さまと言えども、根拠の無い行動は謹んでいただきたく思います」
「んはぁー、んもう、はぁー。……ん、しゃーない!――チラッと、だよ?」
「……? チラッと、でありますか?」
執事が怪訝な顔になる。
「そう、チラッと、ほんの少し。いやね、キミは相変わらず頑固だから、ほんの少しだけ……ん、ああすまない、シャイな友人でね。つい先日知り合ったんだ。ねえ、出てきても良いよ?」
しかし、何も起こらず部屋はしんと静まり返った。
「……旦那様?」
執事が心配げに言うと、ユベルは更に盛大にため息をつき、言った。
「ああもう、頼むよほんと。良いかい? コイツは有能なやつだし、裏切るような真似はしない。生まれたときからこの家に仕えていて、そういう[契約]も組んでいる。相当きついやつさ。……わかるだろ? そういうやつ。キミらがよぉぉく知っているやり方」
そして最後に、ユベルは自分の影に向かって言った。
「だから、チラッと、出てきてくれよ――なぁ、魔人ヴァレス君」
すると、ユベルの影がぞわりと広がりを見せ、室内全体をあっという間に覆い隠す。
暗闇に二つの赤い双眼がギラリと輝くと、その暗闇よりも暗い黒が低く言った。
『殺してしまうか?』
「あ、ちょっと駄目だって! 結構貴重なんだから! ほら、もう良いから戻って戻って。そこのフルーツ持ってって良いから」
すると、影はゆっくりと蠢き、再びユベルの影へと縮小する。
テーブルの上に置かれたフルーツの盛り合わせは、消えていた。
そして、ユベルが言った。
「知識と力はね、独占しないと意味が無いんだ。ボクたちだけがそれを持っていれば、もう何も怖く無いだろう?」
と。
※
ティルフィング・ゲイルムンドはふと目が覚め、夜風に当たっていた。
考えることが、たくさんある。
リディルは――。
そこから先の思いは言葉にはならず、ただ過ぎてしまった時を悔い、あるいは逃げ回ることしかできなかったのだ。
合わす顔がない、という感情をたった一人の娘に抱いている事実。
対等な友人だと思っていたフランギースに嫉妬している自分がいる。
ドリオ・マランビジーは何故娘をかばった。
国家転覆を企む獅子身中の虫が、王家に弓引く反逆者が――娘の命を……。
理想と現実は、違う。
かつて、ティルフィングとフランギースは生前のオリヴィアと共に、[禁書庫]の真実を公表すべき考える同志だった。
それが世界が豊かになる鍵となるのなら、たとえ王家に都合が悪いことであっても――。
その頃はまだ、ドリオとも志を同じくした友人だったのだ。
やがて、オリヴィアは女王となり、ティルフィングもまた亡き母の意思を継ぎ剣聖となり、[禁書庫]の全てを知った。
そこにあったのは、鍵でも、希望でも、禁忌の知識ですらなかった。
ただの[警告]であったのだ。
来るべき日の――。
[暁の勇者]は、[古き翼の王]を滅ぼせなかった。
その手段が、無かったのだ。
だから、最後に[器]を未来に託したのだ。
その[器]が[希望]であるという願いを託して――。
公表すべきではない。
ティルフィングは、そう理解してしまった。
敵は、ザカールなのだ。
そして[古き翼の王]なのだ。
どこに潜んでいるかもわからぬ敵に、それを知られてはならない。
[器]が、空っぽなのかもしれないという事実を……。
それでも――。
ティルフィングは考える。
もしも、未来の可能性を犠牲にしてでも公表していれば、ドリオは裏切らなかったかもしれない。
別の対策が取れたかもしれない。
オリヴィアは、死なずに済んだのかもしれない。
そういう口惜しさも、あった。
誰もが、今を大きく変えてしまうことに恐怖を抱くのだ。
それは聡明なフランギースだって例外では無かった。
ティルフィングも、また――。
そして、深く落ちた思考の海が反応を遅らせた。
『剣聖、ティルフィング・ゲイルムンドとお見受けする』
心の臓に響くなめらかな声が、夜風に乗って聞こえた時には既にティルフィングは剣を抜いて臨戦態勢を取っていた。
同時に千年前より伝わる[古の鎧]が起動し、ティルフィングの全身を覆う。
「何者だ!」
問いながら、頭部を完全に覆い隠す[古き鎧]の[フルスクリーン・モニター]がわずかに混乱している様子に気づく。
その男は、分厚い壁のような長髪をマントのように靡かせながら、病的なほど色白い顔にほんの少しの困惑の色を浮かべ、言った。
『さ、て。誰なのだろうな――俺は。……いや、私は、か?』
妙に安心感を覚える声にぞっとし、
「[花の宮殿]は立ち入りを禁じている」
と剣の切っ先を男に向ける。
『[花の宮殿]。いい名前だ。由来は?』
ティルフィングは答えず、じり、と後ずさった。
どくん、どくん、と心臓の鼓動が大きくなる。
兜の内側の[モニター]には、[古き鎧]が解析した情報がそのまま提示されていた。
ティルフィングは、困惑する。
馬鹿な、という思考が行動を遅らせる。
『まあ良い。お前がティルフィング・ゲイルムンドならやることは一つだ。――かわいそうに』
そう言って、その黒い男――[古き翼の王]はどこからかくすねてきたのかみすぼらしいただの鋼の剣でティルフィングに斬りかかった。
その動きは滑らかだった。
かつて対峙してしまったリディルのそれを遥かに超えていると知覚した時、ティルフィングは刹那の瞬間脳裏に幼いリディルが膝を抱えてて泣いている背中を思い出す。
――そう言えば、今日はリディの誕生日だった。
忘れていた、わけでは無いはずだ。
ただ、やるべきことが多くて、それに追われて――。
でも、娘の笑顔が思い出せない。
そう思った時には既に遅く、ティルフィングは剣を振りかぶる間すら無く心臓を貫かれ絶命した。
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