箱太郎

「申し訳ないですが、一旦SNSを閉鎖します。いずれ別アカウントで戻ってこようと思いますが」

 いきなりの連絡に、俺はただただ茫然としていた。

「はい、待っています。何かありましたでしょうか」すぐさま返信を送るが、反応が遅い。やっと返信が来た。

「私が軽率でしたが、昨晩の会話を家内に聞かれました」

「俺たちのですよね?」

「ええ。そうしたらもう、逆鱗に触れてしまって」

「逆鱗」

「ええ。私はずっと子供の面倒を見ているのに、あなたは趣味ばかりかまけて、それもあんな若い子と二人で話しているなんて、と言われました」

「そんな……すみません、俺のせいです」俺は即座に返信する。

「私自身、軽率でした。今後はひっそりやります。もともと家内は私の趣味に快く思っていなかったのです。今後は創作も人目に付かないところでやりますよ」

言葉が出てこなかった。ハードんさんにはファンがたくさんいて、作品を更新するたびにコメントがついてて……それなのに……

「大丈夫です。活動をやめるわけではありませんから。作品だって、書き溜め分まではちゃんと更新しますし」

 俺はサイトに寄せられたハードさんの作品へのコメントを思い出す。

 めっちゃ展開わかっているのにつらい泣く はよ次を 今回動きましたね 麗華かわいいっすね 更新北 待ってた 相変わらず泣く いつ完結するんすかはやく続きを……

「ただちょっとここから離れるだけです」

「本当は」と俺は切り出した。

「俺はハードさんが喜ぶならそれでよかったんです」一瞬、沈黙。

「どういうことでしょう?」遅れての返信。

「ハードさんが俺の作品を読んでくれて、ちょっとだけ幸せになってくれれば、それで十分なんです。おこがましい話ですが」

「私も箱さんが読んでくれて嬉しかったですが、」

「地球上のすべての人に受け入れられなくてもいいんです」と俺は続ける。

「ハードさんが幸せになれるなら、それでよかったんです。今までもこれからも」

 地球が、揺らいだ。

 ように思えたのは一瞬だけ。

「ですが、箱さんの作品はもっと広く知られるべきですよ」きっかり一分後に彼から連絡が来た。

「その言葉、そっくりお返しします。貴方が帰ってくるまでに、もっと面白い作品用意していますから」

「私もです」と返事が来た。今度はすぐに。

 俺が初めて本心を言えるのは、いつだって……。


 正直になろう。ハードさんと初めて会話したときのことを、俺はすっかり覚えていない。ハードさんは、俺が昔病院に通っていた時の話を元に書いた短編を読んで、そこから俺のSNSを見つけてくれた……と後から聞いた。


「面白いですね」


 たったそれだけだった。たかが一言だった。でもその一言が俺の世界を変えた。

 ずっと俺は一人だと思っていた。ずっと暗闇の中で走っていると思っていた。ずっと手探りのまま、わけもわからず走っていた。

 ハードさんの一言で、たった一言で、世界に希望が満ちた。

 俺はハードさんのアカウントを調べた。彼も小説を書いていた。毎日更新していた。一心不乱に読みふけった。

 面白かった。それだけで十分だ。面白かった。それだけでもう何も説明なんかいらないだろう。ただ純粋に、気づいたら全部読んでいたんだ。誰が書いたとか、話題の作品だとか、そんなことは全然知らなかった。ただ最後まで読んでしまった。世界にはこんな人がいるんだと初めて知った。

 彼は生粋の小説家だった。仕事をしていても、家庭があっても、書かずにはいられない人だった。ランキングに載っても載っていなくても、彼はきっと小説を書いていただろう。

「小説を書いているときだけ息ができるんです」と彼は言った。「今このパソコンを目の前にしているときだけ、自分はやっと自分になれるんです」と。

俺もそうだった。何にも変えず、自分と世界のためだけに書いている。そんな人が実際にいることが嬉しくて、嬉しくて仕方なかった。

「きっとハードさんと俺は、たとえ紙とペンが無くても、砂浜で棒きれを使って物語を書くんですよね。波が来ても消えないように何度も書いて」と俺が言った。

「きっとそうですね」と彼は言った。そうだ、最初っからわかりきっていたことだ。

「誰に何を言われなくても書き続けると思います」

「でも俺は」とさらに切り出す。

「見られて初めて作家になる部分もあると思うんです」と語り出した。

「そうかもしれませんね」と彼は言った。

「法律的に……これは法律の話です。著作権の。法的には、作品を『作った(作り始めた)段階』で、その作品には著作権が発生します」

「そうですね」

「つまり、法的には何かを作れば、それだけで『著作者』になることはできると思います」

「法的には」

「そうです。でも俺は……ここからは哲学の話をします。『誰かに受け取られることで初めてその作品の真の作家になる』のではないかとも思うんです」

「それはなぜでしょう?」

「結局のところ、多かれ少なかれ作品には『情報』という側面を含んでいるからです」と俺はつづけた。

「情報は受け手と作り手が存在しなければ成り立たないものです」

「確かにそうかもしれませんね」


 本当の会話はここで終わる。しかし俺は言葉を続けるべきだった。今ならわかる。あの時何を伝えればよかったのかを。いつも言葉は遅れてやってくる。


「だから俺はすごく、ハードさんに感謝しているんです。初めて俺を『作家』にしてくれたから」


 あの時ハードさんにちゃんと伝えていれば、なんて返事が来ただろう。

「私も箱さんに感謝していますよ」と言うかもしれない、律儀な彼のことだ。そんで俺は、たとえそれがお世辞でも嘘でも、彼自身が真実を曇り無く見ることが出来なかっただけだとしても、たぶん、きっと、泣いただろう。

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