中百舌鳥 美映子(なかもず みえこ)
メールには不採用通知ばかりが並んでいた。現代において、就職活動の際にインターネットは欠かせないライフラインだ。私は生まれた頃からインターネットがあったので、ネットが無い時代の就活なんて想像がつかない。電話が頼みの綱だったのだろうか。今や履歴書も全てパソコンで作成する。顔もわからない相手に私の個人情報が渡され、吟味される。私がやってきたことと、先方の求めている能力が合致すれば書類は通る。そうでない場合は通らない。非常にシンプルな原理だ。
不採用通知は溜まっていた。
中百舌鳥君にもこのままだと気づかれるだろう。実をいうと、私は彼に隠れて札幌か東京で働けないかと隠れて模索していた。
中百舌鳥君と結婚してもう二年になる。私は周囲には結婚したことをほとんど伝えていない。結婚と同時に職場もやめてしまったし、学生時代の友人にも伝えそびれたし、SNSの苗字は未だに旧姓のままだし。とはいえ私は自分の旧姓を手放すとき少しだけ安心したことを、昨日のことのように覚えている。だって自分の個人情報がずっと同じだなんて、そんなの怖いでしょう。自分の名前が切り離されることにちょっとした寂しみはなくはなかったが、新しい苗字が今までとは打って変わってかなり珍しいものだったから、名残惜しさはなかった。単純なものだ。二十二年間背負ってきた名前も、珍しい苗字ならばうきうきして手放せるのだから。
私の旧姓は、日本人に多い苗字ランキングでは常に上位に入っているだろう。ごくごくありふれた名前である。学校には大抵私と同じ苗字の人が二、三人はいた。
実際、私は自分をごく平凡な人間だと思う。普通に学校を卒業し、高校の幼馴染と結婚して、退職して二年。ありふれた、このうえない幸せ。
なんだけども、私はたびたびこの家から出ようと画策していた。この家のいいところは、なんといっても家賃が安いところである。中百舌鳥君はここで中学校の音楽の先生をしており、この馬鹿でかい三部屋もある教員住宅に格安で手に入れたのだ。
個人情報と引き換えに。
ここは北海道のとある町で、そう、町だ、市ではない、小さな町だ。聞けば、彼の赴任先の中学校は全校生徒が四十人しかいないとのことだ。ほぼ小学校とメンバーは変わらない。全校生徒とその親は、ほとんど誰が何をしているのか把握している。教員だってそうだ。誰がどこに住んでいて、その奥さんなり夫なりが何をしているのかも全て筒抜けなのだ。ここでは。
初めてこの地に降り立った時、彼は私の移住祝いとして寿司をとってくれた。この町は漁業と観光業で成り立っており、当然寿司や海鮮丼は絶品、、それはほとんど唯一と言ってもいいほどのこの町に許される贅沢だ。そんなわけで、新しい土地と食への希望を胸に抱き、私が一緒に寿司屋の前で彼の車から降りようとしたら、
「ミエコさんはじっと中にいて」と彼は言った。
「なんで?」私は当然聞き返した。
「このお店は生徒のお母さんが働いているんだ」この街では働き口が極端に少ない。そのため、どこに行っても彼の知り合いに遭遇した。
「別にいいじゃない、そんなこと」
「でもね、一度自分か彼女と歩いていたなんて噂が広まると、まるで授業にならないんだ」
「最初だけでしょう、そんなの」と私が言っても、
「中学生は厄介なんだよ」と彼は言った。
私は納得できなかった。確かにあのとき、私たちはまだ正式に結婚を報告していなかった。しかしそれで私の行動範囲が狭められるとは何事だろう。
とはいえ、彼の大事な聖職を邪魔するわけにはいかない。私だって彼が困ることを望んでなんかいない。
「わかった」私は大人しく、鎖でつながれた犬のように車で彼をじっと待っていた。もう成人している人間ですけど。
その日食べた鮨は、今まで食べたどんな寿司よりも美味しかったが、ちょっと酢がききすぎていて酸っぱかった。その日、私たちは示しあったように寝た。それが始まりだった。
翌日の土曜休みには(そのときはたまたま中百舌鳥君も休みだった)、お向かいに住む教頭先生夫妻に会いに行った。教頭先生は還暦近い女性で、旦那さんが専業主夫をしているのだそうだ。
「ミエコです、よろしくお願いします」
少し肌寒くても、受けがよさそうな膝丈のスカートとストッキングを穿いて挨拶に伺った。どうせ向かいの家に行くだけなのだから多少は我慢できる。教頭先生は物腰の柔らかい女性で、私たちを温かく迎えてくれた。
翌日から、教頭先生の旦那さんと会うようになった。働いていない私ははゴミ出し以外の全ての家事を担当した。私は朝、中百舌鳥君と自分の朝食を作り、彼を見届けて家の前の雪かきをする。向かいの家も専業主夫の旦那さんが雪かきをするみたいで、朝八時過ぎになると私たちは体を動かしながら世間話をした。天気の話だとか、最近のニュースとか、他愛のない話だ。
私は車の免許を持っていない。ここからスーパーまでは車で二十分くらいかかる。コンビニはさらに遠い。最近はアマゾンがこんな所まで来るから重宝しているが、大抵は週末に中百舌鳥君と買いに出かける。しかしそこでも彼は言う、
「ここのレジは部活の子の母親がいるんだ。ミエコさんは外の餃子屋か焼き鳥屋で総菜を買っていて。自分が野菜を買うから、別々に行動しよう」と。私は黙って彼の言うとおりにする。
遊ぶ場所も限られている。一軒だけ駅前にカラオケ屋があるが、夕方から始まるし、個室は少ないし、そもそも私はそんなに歌うのが好きではない。そんなわけで家事を早めに済ませたあと、たまに私は海沿いを歩くことにしている。ここはとにかく海の匂いがする。いたるところに『ウニをとるな』『カニをとるな』と書かれた看板が目に付く。人よりもカラスと猫の方が多い。ここだと案外話しかけられることはない。午後は漁師がもう仕事を終えて寝ているからだ。
私の精神上の頼みの綱はアマゾンプライムビデオだ。これがなければ私は既に退屈過ぎて発狂していただろう。大抵は洗濯と皿洗いをしながらアニメを見る。
忘れもしない四月のまだ肌寒い日、ある一つの少年漫画を原作としたアニメに出会った。もうその時分に私は二十三を過ぎていたはずだ。その主人公はあらゆる『敵』——ヱヴァンゲリヲンの「使徒」みたいなものだと思ってもらえばいい——と戦うのだが、その過程で自らを鼓舞しながらも強くなっていく。しかし強くなってもその先には社会的なしがらみが存在する。主人公は実力があるものの、その不器用さから周りには全く評価されず、人間社会に馴染めない。相棒となるもう一人の同僚ともうまく折り合いがつかめず喧嘩ばかり。なんやかんやあって敵を倒しながら、社会とも折り合いをつけれるよう生き方を模索していく……といった話なのである。多少大人向けに作られていることもあって、私はこれにまんまとハマってしまった。
はまってしまった、なんて浅い言葉では言い表せられない。それはもう革命だった。あのアニメを見る前には戻れない。寝ても起きても、私の中には主人公とその相棒がいた。ちょっと家事をさぼろうかな、と思っても、いけない、あの主人公ならどうするだろう、と考えてしまうとさぼれないし、ちょっと今日は雪かきも近所付き合いも面倒くさいな、と思っても、やっぱりあの相棒がだめだと声をかけるのだ。私の生活はあのアニメに人生を、生き方を侵食(ファック)されてしまった。
恥ずかしいことだが、私は二十三年間生きてきて、ほとんど初めて男色の世界を知った。そういうものがある、とは認識していた。が、自分自身がこの世界に足を踏み入れるなどと、この時まで毛ほども考えていなかった。私の恋愛対象は男性であるし、夫である中百舌鳥君のことを愛している。それは間違いない事実だ。しかし私は、こともあろうに、アニメのキャラクターである主人公とその相棒が愛し合っているところを想像せずにはいられなかった。
それは本当に偶然が重なった結果だった。私がたまたまSNSであのアニメに関して検索したとき、こともあろうに主人公とその相棒がアナルセックスしている絵が大量に出てきたのだ。今考えてもその理由はわからない、本来ならば検索除けのためにそのような絵をアップする際は、表記を変えて投稿するのが「この界隈」のお約束ではあるはずなのだが……。とにかく、私はほんの偶然と吸引力に導かれ、たまたま彼らの性行為の絵をたくさん吸収した。
堕ちた。堕ちたという他に言いようがない。もう、あれから私は変わったのだ。
幸い旦那はアニメ趣味に理解のある人だった。彼が好むのはほのぼの日常系で、女子高生がゆるゆるだべっている作品ばかり見ているが、とにかく私の趣味には寛容だった。
が。
だからといって、私のBL趣味まで理解してくれるかどうかはわからない。彼はいたって普通の、普通のセックスが好きなのだから。将来は子供を一人か二人か生んで、北海道に骨をうずめたいと考えている、善良な音楽教師だ。
その日から私は中百舌鳥君の目を忍んで、ネットに転がっている二次創作の漫画や小説を漁り始めた。幸いまだ二年前はこのアニメも旬ジャンルで、たくさんの実力あるすばらしきアマチュア作家さんたちが、この主人公と同僚の絡みを書いてくれた。本当にあの時はもう口を開けているだけで自動的に欲しいものが流れてきていた。推しジャンルのパックス・ロマーナ(今はアニメの二期が終わってしまい、ちょっと下火になっているけれど)。
私がそのアニメの二次創作オンリー同人誌イベントに足を運んだのは、それから半年後のことだった。
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