畑中美和

 まさかと思ったが、受かったので来てみたら案外綺麗なオフィスでびっくりした。わざわざ片道三時間かけて田舎から抜け出してきたかいがあったというものだ。

『サクラ探偵事務所』と掲げられた看板を抜けると、まだ高校生くらいにしか見えない小柄な女性がスーツを着て熱心に私の履歴書を読んでいた。

「業務内容に関しては理解していただけましたね?」と彼女は言った。

「はい」

 別れさせ屋。レンタル家族。スタッフは美男美女。俳優業を営んでいる者もいるとか。私は緊張して真っ赤な高そうなソファに座っていた。

「貴方の名前は『畑中美和』です」と彼女は言う。

「はい」

「貴方の名前は少々記憶に残りやすいのでこちらで吟味した結果、名付けさせていただきました。よろしいですか?」

「え、はい」いきなり話しかけられたのでびっくりしたが、そもそも私はなんでもいいのだ。それが記号でさえあれば。

「ここでは『畑中美和』でお願いします。書類は郵送か直接ここに持ってきてください」

「はい」

「メールでのやりとりも必要になってくるため、メール課題は今週までに修了させてください」

「はい」

「何かご質問は?」

「研修はありますか?」

「案件ごとに綿密なプランミーティングがあります」

「どれくらいかかりますか?」

「案件によります。案件の前に綿密なミーティングがあり、想定外の事が起きたり、案件が長期化すれば月一でミーティングがあります。もちろんその分のお支払いは致します」

「案件はいつ来ますか?」

「……」五秒の沈黙。

「一件だけすぐにご紹介できるものがあります」

「何でしょう?」


 私は市内の駅から十分ほど歩いたところにある大きな総合病院にいた。手にはセブンイレブンの袋を下げて。大したものじゃない。この病院の一階で買ったことがバレバレだ。

「じーいちゃん」私はノックして部屋の扉をを勝手に開ける。

「買ってきた」私は椅子に座り、今買ってきたばかりのピーナッツの袋を開ける。

「そうか」と彼は言った。彼は目に見えて痩せていた。

「梅干しはあったか?」

「干し梅ならね。買ってきたよ」私は袋ごと彼に渡す。彼は黒いよれよれのパジャマを着ていた。

「本はないの?」と私は言う。ここに来るようになってひと月。私は伊藤さんと呼ばれる肺がんのおじいさんの「孫」として週に三回ここを訪れている。病院の先生たちにも顔を覚えられ、すっかり馴染みになった。病室にある新聞を読んで、本を読んで(『新潮』とか『文芸春秋』とかの雑誌だ)、たまに私が彼の代わりにコンビニ行って、最後に肺のリハビリをして帰る。ただそれだけ。

「外は雪かね」と彼は言った。

「そうみたい」と私は言った。

「『少納言よ 香炉峰の雪いかならむ』と仰せらるれば……」私が呟くと、

「御格子上げさせて御簾(みす)を高く上げたれば笑はせ給ふ……」と彼が続いた。私は笑った。

「白居易の原文は知っているかい」と伊藤さんが聞いた。

「知らない」私は正直に言う。

「習わなかったし」

「香爐峰下、新たに山居をぼくし、草堂はじめてなり、たまたま東壁に題す」と彼はそらで言った。

「何それ呪文?」

「詩だよ。今度調べてみなよ」

「うん、そうするよ」私はスマホを開く。七言律詩。ああ懐かしい、習ったっけ。韻が踏まれているのね。

 彼の文学に関する教養は目を見張るものがある。会う前にメールで何度かやり取りさせていただいたのだが、そこで私は人生で初めて『戦争と平和』を通読した人間に出会った。彼は古典文学に対して並々ならぬ知識があり、普段の会話でもさらりと本の話が出てくるので、こちらは常に勉強しなきゃと隠れていっぱいいっぱいだった。

 しかし私自身、本が好きなせいもあって、彼との会話の中で出てきた本をこっそり読むのはおもしろかった。趣味と実益のどちらも兼ねることができる。幸い古典はその大きな歴史の中で時間の試練を受けてきた猛者だけあり、そのほとんどが私を退屈させることなく、新しい世界へと導いてくれた。

 出会う前のメールで彼はロシア文学と中国文学が好きだと言っていた。特に彼の好きな作品はやはり『戦争と平和』で、彼のお気に入りはアンドレイだった。私はドーロホフの方が好きだったが、彼に言わせれば「武骨な荒くれ者」だそうだ。アンドレイだって夢半ばにこの世を去る当て馬ではないのか、と私は言いたかったが、その当て馬性が彼を魅力的なキャラクタにしているとも思えたし、客相手にそこまで言う権利もなかったので黙っていた。

「最近面白い本読んだ?」と私は聞いた。

「いいや」と彼は言った。

彼は基本的にこの病院内のセブンイレブンに置いてある雑誌と漫画ばかり読んで過ごしている。そんな品ぞろえではもちろん彼を満足させることが出来ないから、私がここに来るまでに大抵は本屋に行って彼の欲しい本を買う。最近だと『地下室の手記』の新訳が出たからそれを買った。あとは春秋戦国時代をテーマにした漫画とか。

 彼はいつも図書カードを余分にくれた。余った分は私が好きに使っていいとのことだった。そのほかにも駅からここまで来るのが大変だからとタクシークーポンをくれた。私はこっそり事務所にそれを持っていって社長に渡していた。何度かの「仕事」ののちに彼は

「そういえばタクシーは乗っているのか」と聞いた。「乗っている」と嘘をついた。それが嫌で、今度は私は社長に直談判してタクシーに乗る許可をもらった。ただしそれは「ここに来る時だけ」だ。そんなわけで、彼からもらった図書カードは、未だまっさらな状態で事務所に保管されてある。

「何か面白い本でも買ってきてくれないかな。今日でもいいし、今度でもいいし」

「セブンイレブンの漫画欄は見た?」

「見たよ」と彼は言った。実際のところ彼にはそれくらいしかやることが無いのだ。ここは彼にとっての檻でもあり墓場だった。

 彼はここに入院する前、いくつかの本を出していた。ググれば出てくる。大学で先生をやっていたらしく、友達は一人だけいるみたいだが、その人も入院しているとのことだ。詳しく聞いたことは無い。配偶者はなし。お金はすべて自分の趣味と研究に使っている。病院の個室を一か月以上にわたって独占したり、普段はホテルや料亭でばかり食事をしている。

「退院したら一緒にカニ料理を食べよう」と彼は言った。私は気乗りしなかった。高いお店に行くと緊張してしまうのだ。

「うん、まあ気が向いたら」と私はいつも濁している。

 彼は相当の偏食家だった。病院食でも、味のないものや牛肉以外の肉は一切手を付けなかった。彼曰く豚や鳥が殺されるのはかわいそうだからとのことだった。果物はほとんど食べない。ハンバーガーなどの庶民の食べ物は目もくれない。お菓子だって、大丸デパートにあるチョコレートしか受け付けない。そんなわけで、彼が食べるものを私が頑張って買ってくるのだ。

「じゃあ天ぷらとかはどうだ?」と彼は聞いた。

「寿司でもいいし」と言いつつ、彼はヒカリモノには全く手をつけない。回転寿司になんか行ったことないのだろう。

「まあなんでも」と私は言った。

「あんまり高級そうなところは興味ないの」と私は言った。私は彼がラーメンを食べたり、フードコートでうどんを持っている姿など想像しようとしたが、あまりにも現実味が無くやめてしまった。

「ふうん」と彼は言った。

「大丸の商品券があるぞ」と彼は財布を取り出した。

「チョコか和菓子買ってきてくれんか。ブルガリか、白梅のチョコレート」

「次の時で良い?」と私が聞く。

「うん」と彼は言った。まったく、私が彼の看護師だったらそうとうストレスフルだろうな。

 おしゃべりはいつも食事が終わった後から、面会時間の五時半までだ。私たちはそれまで各々好きに本を読んだり、ナッツを齧ったりする。テレビも見られるようだが、よほど退屈で仕方ない時にしか使わないと言っていた。

「昔、犬を飼っていたよ」と彼は唐突に言った。

「どんな犬?」

「白い犬さ。全然しつけをしなかったんだ」

「構ってやらなかったんでしょ」

「そうそう、あちこちでトイレしてね。散歩だって全然行かなかったし……」

「可愛かった?」

「そりゃあね」と彼は言った。

「犬は好き」

「うん、私もさ」

 私は彼に嘘をつかなかった。


 彼が死んだのは三月の、まだ雪の残っている時期だった。

「この案件は終わりです」と社長が電話越しに言った。あまりに事務的で、現実味に今一つ欠けていた。そうか、と思った。

「次の案件を探します」と彼女は言った。私は「はい」と言って通話を切ったが、もうその仕事をやる気はなかった。たくさんの人がいるはずなのに、世界には私の家と雪しか存在しないように思えた。全てはまやかしで、あの探偵事務所も、もしかしたら最初からなかったのかもしれない。そう思えなくもない。

 私は意味もなく本棚から本を手に取った。学生のことは毎日死にたいと思っていて(その理由は今ではすっかり忘れてしまった)、本が無かったらおそらく自殺していた。私は台所から安物のチョコレートを出す。でもこれが美味しんだ。アルフォートってやつで、船が書いてあるんだ。普通にスーパーで売っているやつなんだけどね。食べたことある? ないでしょう? 世の中には安くて美味しいものだってたくさんあるのよ。そんなこと正直に言ったことなんてなかったけどね。

 そう、私はいつも本音を隠している。一つだけ嘘をついたと思うけどね、あれは嘘なんかじゃなかったの。本当はちゃんと買おうと思っていたの。ブルガリなんてよくわからなくてね、スーツでびしっと決めた販売さんが、一粒二千円もするチョコを袋に入れてくれるのよ。それで私怖気突いちゃったのね、あんなお店は入れないって。今考えたら本当にひどい理由だと思うけれど。でもね、私は今だってアンドレイはそんなに好きじゃないし、カウンター席でじろじろ見られる高級料理になんか興味はないの。ああ一度くらい行ってみてもよかったかもしれないけど。

 だからね、あの時言った言葉に嘘はないの。でもね、本当のことも言っていなかったと思う。それは私が、


 不意に玄関のチャイムが鳴った。

「ごめん、忘れ物したんだ……」


 よく見知った人が私の家に来て去っていく。

 誰かが来て、去っていく。全てはその繰り返し。


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