阿部

 とある総合大学の教室の隅。私は彼女と二人きりでいた。もう外は暗くなりかけているが、私たちは電気をつけていなかった。彼女と私が仲良くなったのは、半年前の新入生歓迎会。彼女と私はシェイクスピアの中で一番好きな作品が『リア王』だということで、すっかり意気投合したのだ。


「Kさんは次にどんな作品を書きたいの?」私は彼女に聞いた。夕日がKさんの横顔を照らす。

「私は前作の続きを書きます……」Kさんは先日の文芸部の部誌で唯一作品の「前編」だけを投稿したのだった。

「そう」と私は言う。

「応援している」

「はい」

「にしてもさ、この前の文芸誌さあ、みんな締め切り、破ってたよね。ちゃんと出したの、私とKさんしかいなかった」

「そうですね。往々にしてそういうことはあります」

「そうなのかなあ。私なんてあの間に五作書いたよ」

「阿部さんはおもしろい人ですね」と彼女は言った。彼女は表情を崩さない。

「私が?」

「はい」

「そうかな」

「私は高校を出てから一度社会人になって、そのあと今の大学に来ました」とKさんは言った。そうだったのか。全然そんな風に見えなかった。あれ、ってことは年上? でも今更敬語にするのも、ちょっと、なあ。

「だから私は、少しだけみんなより大人なんです。でも、部活だと締め切りを破るのは往々にしてあることです。仕事じゃないですからね」

「そういうものなのかな」

「そういうものですね。人と人が協力するときは、多少寛容にならないといけない部分もあるのかもしれません」Kさんの落ち着いた語りは、何かしら私を圧倒するような説得力があった。

「そう……なのかな」

「得てしてそういうものだと思います」

「Kさん、私はトルストイになりたかったんだ」と私は自分の話を切り出した。

「はい」Kさんはじっと私を見つめた。

「高校の頃、彼の描写力に圧倒されたの。彼の目から見れば、世界はたぶん書くべきことで満ち溢れていたんだと思う。もちろんこれは私の想像でしかないけれど」

「そんな気はします」

「でね、私はなんで小説を書いているのか、自分でも未だに答えは出ないんだけど、書きたいことがたくさんあるの」

「それはいいことです」と彼女は言った。

「書きたいこと、羅針盤さえあればどこまでも渡っていけます」

「そう。私はおそらく、現実のコアを引きずり出したいんだと思う」

「それは興味深いですね」Kさんが姿勢を整えた。

「うん。小説ってね、嘘のことばかりでしょ? でもね、ちゃんと読めばそれが真実だってわかる人にはわかるの。もちろんそれはつくりものなんだけどね。でも、嘘の領域で現実を分解して、再構築して、複雑な現実のコアの部分を取り出して、別の角度から見せることができたら、すばらしいかな、って。もちろん、そのためには描写力も、現実を知ることも大事だけど」

「そうですね、実にそうです」彼女は深くうなずいた。

「だから本当は現実を描きたいの、私は。ガルシア・マルケスが、豚のしっぽが人間から生えてくるさまや空に女が飛んで行ってしまうようさまを描きながら、『自分は本当のことだけを書いている』と言っていたように。でも私はいつも……現実でも嘘ばかりついてしまう……」

「うまく嘘をつければそれでいいではないでしょうか」とKさんは静かに言った。それはまるで何か、天からの啓示のように聞こえた。

「それで誰も傷つかないのなら、嘘を貫き通してしまいましょうよ」

「そんなの……」私は一瞬戸惑った。

「あり?」

「一つの生き方として提示しているだけです。私は法学部で法律を勉強していますが、世の中には真実よりも論理性が勝ってしまうことは往々にしてあります。それがこの社会ルールである限り。もちろん阿部さんがそれを望まないならば仕方ありませんが」

「でもそれも面白そうかも、一つの生き方として」

「ええ。それを貫き通せばたぶん真実ですよ。たとえ嘘でも、ね」彼女の言葉だけが静かに教室に反響した。

「阿部さんの作品は……」Kさんが静かに語り始めた。

「よくよく見れば意味が隠されている文章が多いですね。それもはっきりと明示しないで、わかる人にだけわかればいいような」

「そうね……。隠すのは悪い癖だと思う。手癖なんだよね」

「謎解きみたいで面白いですけどね。わざわざ読者に気づいてもらえなくてもいい仕掛けを施すなんて。阿部さんは他の作品を読んだら一層理解が深まるような書き方をしますから」

「そうかもしれないな……。悪い癖だとは思ってる。課題だなあ」

「そうですかね。読み手にいちいちへりくだらなくもいいじゃないですか。ベケットやブランショなんて、私にはまだ全然わかりませんよ。でも素晴らしい作家たちです」

「そうかもしれないけれど」

「何か不都合でも?」

「いいえ……でも、わかりやすかったり、スラスラ読めるような文章を書くのも才能だとは思う」

「それも一種の才能です。往々にしてそういったものの方が需要はあるかもしれません」

「それでも私は……」言葉はそこで途切れた。私は続きを待ったが、Kさんはそこで止まってしまった。

「往々にして、小説講座では『書けることを書け』と言われます」とKさんは今までの文脈をすべて無視して切り出した。

「スティーヴン・キングはそれに対し、『書けること』の解釈を変えろと言っています」

「そうね。そうじゃなきゃ我々は魔法使いのことを書けないし」

「阿部さんはただ書きたいだけなのではないでしょうか」とKさんは言った。

「どういう……」

「そのままの意味です」

 彼女はリュックを背負って椅子から立ち上がった。私は彼女の後を追った。

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