第二章 「まさに外道」⑴

 昨日の騒動から一夜が明け、清一郎は奉行所の業務で、高岡とともにオランダ商館に訪れていた。出島乙名に案内され、オランダ商館の書記官と通詞が待つという応接間に通される。部屋に入ると、まだ商館員の姿はなかったが、

「もう、お見えになると思いますがね」

乙名は、二人にここで待つように指示した。

「通詞は日本人ではないのか」

「ええ、何でもあちら側の通詞の方が、それはもう、目から鼻へ抜けるような明澄な頭をお持ちでして。商館長がドゥーフ殿の間は、向こうの通詞が担当することになったのですよ」

「何より、通訳が早い。あれを見たら、お前も吃驚するぞ」

 現在、オランダ商館のカピタンはヘンドリック・ドゥーフという男で、親日家とされている。出島の役人や長崎奉行、強いては幕府からも評判の良い商館長だ。今回、高岡と清一郎は、そんなドゥーフの蘭学書を長崎奉行が買い取るという商談の元、ここへ使わされたのだ。それにしても、通常であれば日本の通詞が間を取り持つのだが、あろうことかオランダ人通詞という異例の事態に、清一郎は困惑していた。しかし、乙名や高岡からは一目置かれているらしく、信用は置けそうである。

(オランダ人で、そんな日本語に長けたやつなど…)

昨日のセシリアの顔が頭を過る。彼は日本人と同じ位に日本語が流暢であったが、そんなまさか。

(そんなはずねぇ。彼奴は、ここにいる商館員とはまったく違う服を着ていた…)

清一郎があれこれ考えているうちに、上手のドアが開き、一人の青年が現れた。短い金色の髪に、グレーの目、背は六尺豊かで優しげな顔つきの男。セシリアではないことを確認すると、清一郎はホッと胸を撫で下ろした。

 乙名は、この青年に駆け寄ると、

「このお方が、オランダ商館書記のフィンセント殿です」

と紹介をした。

「フィンセントです。よ、よろしく、お願いします」

フィンセントという青年は、ややぎこちない日本語で挨拶すると、丁寧に頭を下げた。

(良かった。彼奴じゃない)

奥床しいフィンセントの態度は、昨日のセシリアとは対照的で、なんとなく好感が持てる。すると、再び上手側の扉が開いて、また一人、商館員が姿を見せた。

「やあ、この前は失礼したね。綾瀬清一郎くん」

「お、お前…やっぱり…」

扉の奥、フィンセントの後ろから現れたのは、昨日とは打って変わった姿のセシリアだった。ブロンドの髪を一つに結い、フロックコートを羽織っている。思わぬ雄々しい格好に、清一郎は吃驚して目を白黒させた。すると、セシリアは彼の耳元に手を当て、

「さすがに正式な場では〝らしい〟格好をするさ」

と、囁いてみせた。清一郎は彼を改めて黙視したが、男性と言うよりかは、美しい娘が男装をしたかの様である。その儚げだが凛とした顔は、美童愛という宝石箱の中での最高芸術品と言って、過言ではない。男の姿での正装も、溜息が出るほどに綺麗だ。

 高岡と清一郎を先に席に着かせると、後からセシリアとフィンセントも腰を掛けた。そして二人は、分厚い書物をテーブルの上に広げると、日本語の書類と照らし合わせつつ、片っ端から目を通していった。その真剣な表情に、清一郎は呆気に取られた。まるで昨日は何もなかったかのように、冷静に仕事をこなしているではないか。気難しそうな顔をしながら、セシリアはペンを取り出すと、驚くべき速さでオランダ語の文字を日本語に書き換えていった。完璧なまでに、通詞の仕事が堂に入っている。

「セシリア殿は、日本語の他に英語、清語、フランス語も堪能らしい」

高岡の説明に、清一郎は黙って頷く。鮮やかに仕事をこなしていく姿は、清一郎の目に男性的に映った。

「では、こちら蘭医学書五冊と、世界地図になります」

スラスラと字を書き写すと、セシリアは机の上に置いてあった書物を手渡した。そして、もう一つ大きな地図を取り出し、机いっぱいに広げてみせた。

「世界地図…」

「幕府の方でも製作されてますよね。長崎奉行様にも、献上しておきます」

清一郎が見たことのない、地名が書かれた地図だった。

(世界は、こんな形をしているのか)

まじまじと地図を見つめていると、セシリアは地図の右端に指を置いた。

「ここが日本です」

なんとも小さい地形の場所である。清一郎は眉間に皺を寄せた。日本とは、こんなに小さいものなのか。 ムキになって、清一郎は聞き返す。

「本当にここが日本なのか?」

今までの己の常識がいっきに覆されていく気がした。意地になっている清一郎を見て、セシリアは微笑むと、

「そうです。ここが、日本ですからね」

「では、オランダは?」

食らいつくように清一郎がまた、尋ねた。すると、セシリアは急に真面目な顔になって、口を噤んだ。そして世界地図を見つめながら、ぽつりと一言、


「オランダは、ありません…」


「ない?どういうことだ」

思わぬ答えに、清一郎はどきりとしてかの男を見た。

「我が祖国は、フランスの占領下にあります。よって、オランダという国はもう、ありません」

隣で黙って座っているフィンセントは、堪らなく寂しげな目で世界地図を見ている。だがセシリアは、躊躇うことなく話を続けた。

「日本が我々をこの出島に置いてくれているのも、大方同情のようなものでしょう。何せ、もう大した輸出も出来ないんですから。ですから我々は日々、あなた方に感謝しています。こうして蘭学書を買い取ってくれるのも。神の慈悲などではない、あなた方の美しい心によって、オランダは救われている。こんな国、見放されて当然でしたのに…」

セシリアは切なそうな顔付きだが、芯の強い瞳は決して揺らがない。

「わたしは尊びます。あなた方日本人を。嗚呼、この感情をどう日本語にすれば良いのか…。慈しむ。いや、違う。もっと高尚で、もっと情深い」

セシリアは、尚も野心的な眼差しで世界地図を見ている。彼の内に秘めた熱い思いが、言葉の端々から伝わってくる。彼は、祖国を失ったことなど恨んでいなかった。そんな感情すらも超越して、異端であったはずの己に向けられた「日本人の厚意」が、只々嬉しかったのだ。

 会談が終わった直後、清一郎はセシリアと廊下で二人きりになった。昨日の記憶がうっすら残ってはいるが、清一郎はもう憤りを感じることはなかった。一方、当のセシリアはというと、昨日のことに責任を感じているのか、至極控えめな声で彼に話しかけた。

「清一郎、くん、また会えて嬉しいよ」

「…お前、まともだったんだな」

どこか呆れたような声だ。清一郎はセシリアを指差すと、

「健気なとこあるじゃねえか」

そう言って、かの男は出会って初めて、さっぱりとした笑顔を見せた。意外な反応に驚いて、セシリアは声を裏返しながら、

「え、まともって?」

「いやだって。昨日は変な格好していたし、あれ、女の格好か?」

「ああ。そうだよ」

…嗚呼そうだ。彼は江戸っ子なんだ。屈託のない顔で話しかけてくる清一郎に、セシリアは救いを見出していた。

「どうしてそんな…まあ良い。さっきの聞いてて思ったけど、何となくお前に興味が湧いてきた」

「えっ? 本当?」

天にも昇るような嬉しさで、セシリアは思わず清一郎の手をぎゅっと握った。

「そっちの意味じゃなくて、人間として…だけど。お前がどうして日本に来たのか、オランダとかも…」

「清一郎くん…」

積極的なセシリアに清一郎は苦笑する。だが、それは全て本心から出た言葉に違いなかった。別に、母国を失ったセシリアを、オランダ人たちを、憐れんでいるわけではない。だが、只単純に、日本を敬い、何とか言葉を見つけようと考えている姿に、胸を締め付けられるような感覚を覚えたのだ。突飛なことを言い、女の化をし、日本語を話すオランダ人。最初は狂った野郎だと思っていたのに、いつの間にか、彼に感銘を受けていたなんて。

「じゃあ、まずは、その、友人として、僕と会ってくれ…ますか」

セシリアは、不安そうな顔で握った手を離した。清一郎は少年の様な、あどけない笑顔を彼に向けると、

「…ああ。友人として、な」

念を押すように、しっかりと深く頷いた。

 


晩春の過ぎた明易初夏。雨晴れの蒼葉に宿る露は涼しく、透明な玉のごとき滴りは新緑を潤していく。

清一郎は、紺の着流しに茶の角帯を締め、夏らしい清涼感ある装いだ。それとは正反対に、彼を待ち受けるセシリアは、何時も厚手の修道服を着ている。

 あれからと言うもの、清一郎が巡視に来る度、セシリアは彼を待ち伏せるようになった。ある日は隣に並んで世間話をするだけだったり、ある日は清一郎ですら分からない日本語を聞いてきたり、小犬の様に彼の後を付いて回る。最初は困惑していた清一郎も、いまとなっては日常の一部となっていた。寧ろ、晴れの日も雨の日も、健気に己を待ち続けているセシリアに愛着すら湧いてきた。

 今日もまた、清一郎を見つけると、花唇を振りまく様に軽やかな足取りで駆け寄って来た。

「清一郎に見てもらいたい物があるんだ」

そう言ってかの男は、清一郎の腕を引いて、以前出会った洋館まで連れてきた。

「ここ、前に来たが」

「この中にある庭、来たことないだろう?」

正門を抜けて、邸の裏へ周る。すると、景色がひらけ、緑豊かな洋風庭園に辿り着いた。

「ここで、野菜や植物を栽培してるんだ」

午後の柔らかな日差しを浴びて、まさに色彩の乱舞、庭の植物たちは贅沢な花や実を咲かしている。清一郎は屈み込んで、花を眺め始めた。

「全然見たことない花ばかりだ」

興味津々な清一郎を見て、セシリアの心も晴れわたった。

「みんな匂いが良いんだ。来て、清一郎」

そう言って燥ぐセシリアは、とても愛らしい。スカートを翻して庭の花を賞美する姿は、清一郎が一目惚れした少女その者だ。しかし清一郎は、この男が女子ならどれだけ楽に生きられたかを考えると、無性に悲しく思えた。

「こいつぁ、なんだ」

清一郎は、見たことのない大きな紅い花を見つけて、指差した。


『それ、バラって言うのよ』


「え…」

『…ふふっ。あなたって可愛い』

 聞き慣れぬ言語とともに、後ろから女の子の微笑む声がした。咄嗟に振り向くと、純白のシュミーズドレスを纏い、日傘を差した女性がひとり、佇んでいた。神話に出てくる王女の様な、鼻の高い神秘的な顔立ち。セシリア同様ブロンドの豊かな髪を持ち、目は緑に輝いている。

「それは、バラ」

女性は花を指差すと、品良く顔を綻ばせた。今度は日本語を話したが、少し鈍っている。

「ローズ…」

離れた場所にいたセシリアが、駆け寄ってきてお辞儀をした。ローズと言われた女性は、清一郎をゆっくり見回すと、

『もしかして、あなたのボーイフレンド?』

母国語でセシリアに耳打ちしたが、セシリアは苦笑いしただけで明らかにはしなかった。清一郎はそんな二人を交互に見比べたあと、

「このお方は?」

「えっと…商館長の妹の、ローズ」

「なんだ、そうなのか」

改まって、清一郎はローズに会釈した。

『ねえセシリア、この方に伝えて。初めて見た時、梅の妖精かと思ったって』

ローズは無邪気な顔でセシリアに言うが、彼は通訳に躊躇った。ローズが清一郎を気に入ったこともそうだが、如何せんこの清一郎という男は、見た目を揶揄われるのが一番苦手だった。しかも、実際に発言するのは通訳である自分なのだ。怒るに決まっている。

 セシリアは、脳内の辞書をすぐさま開いて、何とか無難な訳はないかと考え込んだ。そして仕方なさ気に口を開くと、

「えっと、清一郎、ローズが、君を初めて見た時、梅の…」

「妖精」という概念が、もしかして日本にはないのではないか。辞書の空白を見つけると、それに代わる言葉を見つけ出す。

「梅の、神かと思ったって…」

どうも、ビジネス以外での通訳は難しいし、億劫だ。

「梅の神?」

清一郎は、意味がわからず首を傾げたが、

「ありがたき幸せと伝えておいてくれ」

目上の女性に気を使ってか、苦笑しつつも丁寧に返答した。

『ありがとうございます、だそうだ』

『ふふ、本当のことだもの。デートの邪魔して悪かったわ。またいずれ近いうち、会いましょう。そう伝えておいて』

ローズは長いドレスの裾を掴むと、そのまま歩いて洋館へ入っていった。その姿を見届けてから、セシリアはホッと溜息を吐くと、

「ローズが、また近いうち会おうだって」

無理やり貼り付けた様な笑顔で、言い残された言葉を伝えた。ローズ、彼を気に入ったんだ。セシリアの胸に、暗い靄が立ち込み始めた。項垂れながら、横目で清一郎の顔を窺う。

「すごく美人だったな」

途方に暮れた様な顔で、清一郎はそう呟いた。その様子を見て、セシリアは至極不満げな目をすると、

「清一郎は、ああいう育ちの良さそうな令嬢が好きなんだ」

と、外方を向いた。嫉妬をすると、ほおが熱くなる。自分を介して行われた男女としてのやり取りが、いまさらながら羨ましい。

「別に、美人だとは思うけど、興味はねえよ」

清一郎は気恥ずかしそうに頭を掻きながら、バラを見つめている。その花を見て、清一郎はローズのことを思い浮かべているのだろうか。自分の代わりに、正式なオランダ人の女性に出会えたのだから。

「…そんなにバラが気に入ったのかい」

気落ちした様な声で話しかける。すると、無心にバラを見つめていた清一郎は、セシリアの方へ顔を向けた。

「この花、お前っぽいよな」

真っ赤に咲いたバラを指す。

「僕が…?何で?」

思いがけない自分への関心に、セシリアの胸はいっきに高鳴った。清一郎は、彼の期待を込めた眼差しを受けて、少し考え込む。そして、ぼそりと一言、


「…何でだろうな」

 

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