第一章 「君こそが邪道」⑴


「ほら、あんさん、早く起きて。もう朝ですよ」

柔らかく甘ったるい声が、耳元で囁かれた。うっすら目を開けると、昨日の女がこちらを覗き込んでいる。

「あんさんの髪、本当お綺麗。ほら、見て。お天道さんの光浴びて、金に光ってる」

そう言って女は、物珍し気に髪を見ている。もう随分見慣れているだろうに、己の真っ黒い髪は見飽きているのか、それとも完全にこの毛色に心酔しきっているのか、毎度褒めてくる。

「この色、何て言うのです?」

「ブロンド」

「ブロンド。ブロンドの髪。へええ、素敵。あたしもこういう髪に生まれたかったなあ」

女はいじけたように口を尖らせてみせた。

「君の黒髪の方が、ずっと美しいよ。白い肌に黒い髪、紅い唇、これが美人の三色さ」

客は布団から起き上がると、女の髪に短く接吻を施した。そして、傍に置いてあったフロックコートのポケットから葉巻を一本取り出すと、火鉢に翳して吸い始めた。

「あんさん、それ、美味しい?」

「うん? 君も吸うかい」

「ううん。あたしは煙管があるから」

女は、客の口を塞ぐようにして、深く接吻をした。口いっぱいに、葉巻の煙の味が広がる。客は舌を絡め、苦みを蕩けさすように女を愛撫した。

「もう、あんさん、そろそろ御支度しないと」

客がまた布団に押し倒そうとしたところを、女は制した。寸止めにされ、客は不満げに眉を寄せたが、後の用事を思い出してか、脱力したようにのろのろと起き上がった。

「またいらっしゃってね」

小慣れた笑顔でそう言うと、女は客に、服やら葉巻やらを手渡す。

「ああ。楽しませてもらったよ。嗚呼、でも…今月は予定が立て込んでいてね。来月また来るさ」

やや疲労感のある横顔。客は、ポケットから紐を取り出し、肩まで伸びた髪を一つに結うと、颯爽とコートを肩に掛けた。

「じゃあ、来月に」

淡々と別れを告げると、吹っ切れたように踵を返す。そうして一夜限りの「異国」の客は、女の部屋を後にした。


 坂が、多い。奉行所への道程は、平坦なものではなかった。清一郎の肌には、じんわりと汗が浮かんでいる。町にはすっかり日が昇り、坂の照り返しが余計暑さを感じさせる。それでも速度を落とすことなく上り続けるかの男は、根性精神の塊と言って違いない。

「あ…」

ようやく坂が緩やかになってきたところで、草鞋の鼻緒が突如、ぷちり、と切れた。

「何だ…新しい草鞋なのに」

焦りを滲ませた顔で、髪を搔き上げる。清一郎は立ち止まると、道端に蹲み込んだ。丁寧に鼻緒を結び直し、再び立ち上がろうとした、その寸の間。

「うっ!」

正面から腹の辺りに掛けて、強い衝撃が走った。突然受けた何かしらの重みに、清一郎は対応しきれず、そのまま地面へ倒れ込む。鈍い痛みが、背中に走る。

「いってェ」

土埃が舞う中、清一郎は軽く打った背中に手を当てつつ、上半身だけ起き上がった。

「誰でぇ! 真っ昼間から余所見して!」

 すると目の前に、弱々しく震える〝少女〟の姿を捉えた。彼女もまた、地面に座り込んでいる。どうやら先ほど衝突してきたのは、この〝少女〟であったようだ。

「お、お前…」

気を付けるんだぞ、そう注意しようとした時、ふと"少女"と目が合った。吸い込まれそうな大きな瞳に、思わず息を呑む。

(と、とーんと来た…)

 目前でこちらを見つめる〝少女〟、それは、清一郎が初めて見る「人種」だった。綺麗に切り揃えられた金色の髪。幼くも美しさが匂う顔立ち。清一郎が「闇」の中でも薫り漂う美しさであるなら、この〝少女〟は目の前で輝く「光」の様な美しさがある。日本人とは全く違う、飾らずとも華やかな外見は、清廉な美少女そのもの。紺色の修道服を身に纏った姿は、舶来の聖女と言うに相応しい。

「大丈夫か…」

「…?」

まだちょこんと座している〝少女〟に、清一郎は通じるかも分からない日本語で話しかけた。〝少女〟はぽかんとして、清一郎の顔を見つめている。どうやら、意味が理解出来ないらしい。

「えっと…。そのぅ」

狼狽しつつ、かの男は言葉を繋ごうとするが、上手く声を出せない。極度の緊張と動悸が、彼を襲う。

…誰もが振り返る町一番の看板娘。帝の寵愛を一身に受ける姫君。嗚呼、どんな絶世の美女や麗人を集めても、誰も彼女を超えられやしない…

清一郎は、〝少女〟の細く長い指先に視線を落とした。

(異国の嬢だったとは…何て話しやぁ良いんだ…!)

紅潮していくほおに手を当てる。湯気が出そうなほど熱い。

しかし、そうして一人で口籠っているのも束の間、〝少女〟は何事も無かったかの様に立ち上がると、元来た道を走り帰ってしまった。

 腹や手に残る、彼女の感触。もう消え去ってしまったかの〝少女〟の姿を、清一郎はまだ思い描いていた。手に入らない代物と解っている。恐らく、どこかの商館の令嬢なのであろう。ただ、あの上品な面立ちを、薔薇の様に華やいだ姿を、再び見たいと思ってしまう。幻でも、夢でもなく、現実で。

(長崎は異国の町だと聞いてぇたが、こんな女子おなごがいるなんて…)

清一郎の胸には、生来初めて、恋の明りが灯っていた。まだそれは仄かなものだが、きっと彼女を思い出すたび、すれ違うたび、大きくなっていくのだろう。喩えそれが、どんな困難な状況に置かれたとしても。

 

【「綺麗な薔薇には棘がある」とは言う。あれは本当だろう。そりゃあ、誰でも美人に生まれたら、己の麗しさを自覚しない筈はない。それを武器にするか、罠にするかは、その人次第だ】

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