日蘭同盟
カノキョウ
序章 「彼は白梅の如く」
文化四年。東風はまだ仄かに梅の香を残し、春景に溶けていく。海辺では、漁船やら商船やらが真っ白な帆を上げ、麗らかな陽光を浴びている。そんな晩春の黎明を、清一郎はひとり、ぼんやりと望んでいた。まだ夜明けを迎えたばかりの町は、静寂と言う名の霞に包まれていて、みな微睡の中にいる。小半刻か過ぎると、取り巻く靄を打ち破るが如く、金箔の暁光が彼の元にも降り注いだ。しかし未だその心は晴れず、清一郎はただ呆然と、海の地平を見つめている。
この美しい眺望こそ、ここ百年余「異端の地」として隔離されていた、長崎「出島」である。そこは喩えるならば、硝子瓶の中のビードロ玉の様な世界だ。およそ百年続く鎖国体制の日本で、慎ましくも、しっかりと文明が息衝いている港町。何れ長崎は、日本文化史の新地平を切り開いていくのだが、それはまだまだ後の話。いまは、幕府に交易を許された清とオランダ公国の商人たちが、そこに居住し、働いているだけの小さな島である。それでも、美しい海と、白亜の西洋館、真紅の唐人屋敷、三国の文化が混ざり合うこの港は、エキゾチシズムというに相応しい。仕事ではなく観光であれば、もう少しこの景色を堪能できたはずなのに。そんな思いは空に浮遊したままで、全ての煩悩を打ち砕くような明六つの音が、清一郎を我に返らせた。
一つに結い上げた黒髪を揺らし、長崎奉行所へ続く坂を、そっと見上げる。長い睫毛で瞬きをするその顔付きは、二十歳の武士とは思えないほど愛らしく、可憐な美童の面影を残している。少女と見紛うその美貌に、寄らぬ女も、放っておく男も、恐らくいないだろう。だが、そんな見た目とは裏腹に、彼の心根は生粋の江戸っ子そのものだ。竹を割った様な、どこかあっけらかんとした態度を見せる。それにどうやら色恋に関しては掻暮疎いらしく、二十年間その貞操を崩されたことはないらしい。良く言えば欲がなく、悪く言えば愚鈍。だからこそこの男には、どことなく純潔めいた、透明な色香が焚かれているのかもしれない。
明け六つの音が止み、辺りはまた静寂に包まれていく。本当に煩悩が消え去ってしまったのだろうか、清一郎の心にも一寸の晴れ間が見え始めていた。―坂の上には、どんな景色が広がっているのだろう。そうだ。クヨクヨ落ち込んでいる場合じゃあない―持ち前の江戸っ子気質が働いて、ようやく彼は、その一歩を踏み出す。そして潔く気持ちを切り替えると、全ての雑念を振り払う様に、勢い良く坂を上り始めた。
【彼は、白梅の様な男なんだ。喩えこの世が真っ暗闇になったとしても、彼の香は決して消えない。その雅やかな匂いで、僕を導いてくれる】
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