[19] 二〇〇三 冬休み

 窓の外では雪が降り始める。居間では片桐が、そわそわしながら窓の外を眺めていた。

「路面凍結するんじゃないかね」

話しかけられた尚斗は、ヘッドフォンを外して

「なに?」

と聞き返す。ヘッドフォンから音楽が漏れている。

「下からうちに上がってくる坂道、凍結するかもしれないね」

「大丈夫だよ、凍結したら下の空地に車止めて歩いてくればいいんだから」

そういうと、またヘッドフォンを耳に戻す。

「耳が悪くなるよ!」

片桐の声が聞こえてるのか聞こえていないのか、尚斗からの返事はない。

「ほんとにもう」

片桐は台所に戻って食事の支度を再開した。居間のテレビでは今年の大河ドラマの予告番組をやっている。座卓の上に置かれた携帯の背面ライトが点滅して、振動でブブブと移動している。尚斗は腕を伸ばしてストラップを掴み、携帯を手に取った。さっき送ったメールの返信だった。

「気持ちはわかるけど、片桐さんのためだと思って頑張れよ」

尚斗は携帯を折りたたむと、投げるようにして座布団の上に置いた。「歩けないくらい路面凍結すればいいのに……」と心の中で思った声が漏れたような気がして、ヘッドフォンを外して片桐の方を見るが、鍋の煮える音と包丁とまな板の規則的なリズムから察するに、声に出してはいなかったようだ。ポータブルMDプレーヤーを停止すると、ヘッドフォンを首にかけたまま窓の外を見る。ぽつぽつと灯る黄色い民家の明かりの他に、坂道を上がってくるヘッドライトの光が見えた。カーテンを閉めると、畳の上に置いていた音楽雑誌を拾い上げ自分の部屋に戻る。ほどなくインターホンの音が聞こえて、片桐が「はーい」と言いながら廊下を歩くミシミシという音が聞こえた。

「こんばんはー、あけましておめでとうございます」

声がした矢先、ドタバタと廊下を走る音が聞こえてくる。その後からまたミシミシと音が聞こえて、

「尚斗ー! 皆きたよ!」

片桐が声を張り上げる。「ああ」と返事をしたが、部屋の外に聞こえるはずもなく、ドアをノックする音がすると同時に、片桐が顔を覗かせて

「聞こえてんの!」

と言う。その腰当たりからこちらを覗く顔があった。尚斗と目が合うとささっと逃げていく。

「聞こえてるよ、あとで行く」

ベッドに横になったままそう言って、音楽雑誌を読む。

「もうすぐごはんだからね!」

片桐がドアを閉めると、雑誌をわきに置いてため息をつく。パーカーのポケットに手を入れて、居間に携帯を忘れたことに気づいた。

 ゆっくりドアを開けて居間に近づく。座布団に座る男がこちらに気づいて少し姿勢を正すと

「ああ、尚斗くん、あけましておめでとうございます」

と笑顔で話しかけてきた。尚斗は精一杯の作り笑いで「あけましておめでとうございます」と返した。その隣にいる加奈子が

「これでしょ?」

と少しにやついて携帯を渡してきた。背面ライトが点灯して新着メールが届いていることを示している。尚斗は無言で携帯を受け取ると部屋に戻ろうとするが、

「はい、ごはんできたよ!」

と準備を済ませた片桐が尚斗の方を見て言う。

 黒豆と数の子を含む何品目かのおせちと、鍋、刺身が置かれた四人掛けのダイニングテーブルに、椅子が一脚足され、座布団が二枚重ねて乗せられていた。尚斗はいつもの自分の席に座り、その隣に片桐、向かいに加奈子、その隣に加奈子の夫、そして片桐と加奈子側の誕生日席には、五歳になる尚斗の弟が座っている。父親は加奈子の今の夫だ。

「布団は客間に出しといたから」

鍋を注ぎ分けながら片桐が言う。「ありがとうございます」と笑顔で加奈子の夫が頭を下げる。

「いえいえ、いいんですよ、さ、食べて、あ、ビール出さないとね」

そう言って片桐は冷蔵庫から瓶ビールを出し、栓抜きで開けると加奈子の夫にお酌をする。

「いいわよ手酌で、母さん」

加奈子が苦笑いしながら言う。尚斗はもくもくと椎茸や白菜を食べている。視線を感じて目を向けると、弟が顔をそらす。加奈子はビールを飲みながら、居間のテレビを眺めている。

「あ、見て母さん、懐かしい」

テレビでは年始でにぎわう神社の境内が映されている。リポーターが御神木である梅の木の説明をしたり、合格祈願に来た受験生にインタビューしたりしていた。

「尚斗も懐かしいでしょ、覚えてない?」

加奈子に聞かれたが、尚斗はまったく覚えていない。

「尚斗のお宮参りも七五三もここでやったのよ」

懐かしそうに加奈子が言うと、弟の頭を撫でて「この子もそう」と言った。片桐は「そうなのかい」と嬉しそうに孫の頭を撫でている。弟は屈託のない笑顔でうなずく。尚斗は食事を済ませると食器を片付けて自分の部屋に戻った。

 携帯を開いて、睦からのメールを確認する。

「用心棒たちが、今年も聴きに行くからなって言ってる」

尚斗は少し笑って

「じゃあ今年も安心して歌えるよ」

と返すと、ギターを抱えて弾き始める。その音が聞こえたのか、ドアが少し開いて、小さな顔がこちらを覗く。尚斗が手招きすると、部屋に入ってきてベッドに座った。尚斗はギターを新しく買った。壁に立てかけてあった古いギターケースを開けると、弟に持たせてやる。尚斗が奏でる音に合わせて、弟はジャカジャカと楽しそうに弦を鳴らした。

 加奈子の膝枕で弟が眠ったころ、ギターケースを背負って玄関に立つ尚斗のところに片桐が来て「気をつけなさいよ!」と言う。尚斗が坂を下って行くのを見届けて、片桐は玄関の戸を閉めた。


 バスを降りると、すでにアーケード街は大勢の買い物客でにぎわっていて、尚斗は人の波をぬうように歩く。いつもの公園に到着すると、尚斗に気づいた睦が手を挙げた。その後ろの用心棒たちも「遅かったなー、ファンが待ってるぞ」と言いながら大きく手を振っている。尚斗が定位置について、ギターを構えるころには、公園のあちこちから少しずつ人が寄ってきた。尚斗が歌い始めると、ギャラリーが二重三重に半円を描いて、携帯の動画を撮っている者もいる。睦の友人たちは一年ぶりに見た尚斗の変わりようと、人気に驚き、睦はそれが誇らしかった。少し経ってから公園の入り口に現れたたまきが、睦を見つけて駆け寄ってくる。

「睦くんありがとう、ライブ始まったのメールしてくれて」

「全然、樋山さんは?」

「店番してる。じゃんけんで私が勝ったから来たの」

「そっか」

たまきは感慨深そうに尚斗を見る。この街の音楽通で尚斗を知らない者がいないくらい、尚斗は注目を集めていた。SUNNYに来る客の中には、有名なミュージシャンの真似だとか、イギリスの誰それのパクリだとか言う者もいたが、その数倍の数、好意的なファンが居た。樋山が知り合いを集めて自主制作したアルバムCDは、尚斗が参加したものだけ断トツで売れていたくらいだ。

「一年ってすごいね」

尚斗を見つめたまま、たまきが睦に話しかける。

「去年の今日、一年後にこうなってるなんて全然予想できなかった」

睦はゆっくりとうなずいて、

「来年、尚斗はどうなってんのか、楽しみだよ」

と言う。

 最後の歌を歌い終わった尚斗は、「えーっと」と話を始めた。いつもは歌うだけでまったく話すことはないので、皆珍しそうに耳を傾ける。

「実は、今日で、ここで歌うのは最後になります」

聴衆がざわついた。

「これまで聴いてくれてありがとうございました」

そう言って深々と頭を下げると、ギターをしまって背負う。睦たちのところへ歩いてくると、

「なんか恥ずかしかった、挨拶とか、自意識過剰な感じで」

と、照れくさそうに言う。

「でも大事だろ、皆ファンなんだから」

挨拶するように勧めたのは睦だった。

「ファン、か」

尚斗はさらに恥ずかしくなったようで、

「樋山さんは店? 挨拶に行こうかな」

とたまきに言うと歩き出してしまう。睦は用心棒たちに「ごめんちょっと行くとこあるから」と伝えると、たまきと一緒に尚斗について行った。


 SUNNYの一角には、大量に入荷したレコードが置かれている。Moon riverから引き取ったものだ。樋山が店番をしつつ整理をしていると、ドアが開き、冷気が吹き込んできた。

「あけましておめでとうございます」

そう言う尚斗に続いて、睦、たまきが入ってきた。

「おー、おめでとう、ことよろー」

樋山はすっかり治った腕を挙げて挨拶をする。

「どうだった? ラストライブ」

「ラストライブとか、なんか恥ずかしいんでやめてください」

尚斗が言うと、樋山は「え? じゃあラストコンサート?」と言い直す。

「すごい人気だったから、皆さびしそうだったね」

たまきが尚斗を見ながら言う。睦も

「そうだなー、あっさり終わっちゃって置いてきぼり感あったかもな」

と続ける。「そ、そうかな」と尚斗が少し心配そうに言った。

「もう準備すすんでんの?」

たまきに聞かれた尚斗は

「うん、高校の単位も取り終わったから」

と答えた。樋山は「そっかそっか」と言うと、あらためて尚斗の方を向いて

「すげーなー、東京!」

と声を張り上げる。

「いや、デモテープ送ってくれてた樋山さんのおかげです」

尚斗は頭を下げる。

「俺骨折してたから、ほとんどたまきちゃんが送ってくれてたんだけどね」

とたまきに目を向けた。

「そうだったんだ、ありがとう、たまきちゃん」

尚斗はたまきにも頭を下げる。

「いいよいいよー、私も東京の大学行ったら遊んでね」

と手をひらひらと振った。


 次の朝、遅く起きた尚斗が部屋を出ると、ダイニングテーブルに横に長いポストカードが置かれていた。

「HAPPY NEW YEAR! 今年もよろしくね。これを書いてる今はまだクリスマス前なんだけれど。日本のお正月に届くのかしら? 私の帰国の方が早かったりするかもしれないわね」

裏面は、パノラマでも入りきらない、赤くて大きな橋の写真だった。

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