[18] 二〇〇三 夏休み 10
盆休み最終日、遠慮のない陽射しが降り注ぐ中、店の前の国道は、県外ナンバーで渋滞している。明日か明後日に接近する台風を避けるためか、一斉にUターンラッシュが始まった。その中でたまにMoon riverに立ち寄る車があった。県外に戻る前に寄る客だったり、今日が閉店だと勘違いした地元の住人だったりして、店内はそれなりに、にぎわっている。
ランチタイムを過ぎたころ、店内の客がまばらな時間を見計らって、尚斗がまかないを作る。カウンターに睦と並んで食べていると、店の奥で子供が泣く声が聞こえてきた。海水浴に行きたいらしいが、「お盆は海に入ってはいけない」と親に反対されている。それを聞いた睦がつぶやいた。
「そういえば、今年結局、海行ってないな」
「俺も行ってない」
千歳は二人の会話を聞きながらコーヒーを淹れている。睦が
「こないだ、海行こうとしたら俺らバス間違えたんすよ」
と笑いながら千歳に言う。
「ちなみに間違えたのは睦です」
冷静に指摘する尚斗に「そうだっけ?」と睦はとぼけた。千歳は笑みを浮かべて話を聞いている。睦が
「でも考えてみたらさ、盆過ぎたらもう海行けなくない?」
と言うと、
「なんで?」
尚斗には意味が分からない様子だ。
「だって、盆休み過ぎたらクラゲだらけになって泳げなくなるからさ」
「そうなんだ」
「そうなんだって、クラゲに刺されたことあるだろ?」
「ないよ、俺泳げないから」
「まじか、じゃあ海行っても泳がないの?」
「うん、泳がない」
千歳が二人にコーヒーを差し出すと、二人が同じタイミングで軽く頭を下げる。
「じゃあ、実は海好きじゃなかったりすんの?」
睦がコーヒーを飲みながら聞く。
「いや、海は好きだよ、潮の匂いが好きだし、あとどこか遠くにつながってるんだって思いながら眺めるのが好き」
二人の話に耳を傾けていた千歳が口を開く。
「わかるわ、それ。遠くどこかにつながってるって思いながら海を眺めるの、楽しいわよね」
「あ、わかります?」
尚斗がうれしそうに反応した。店の奥の子供はいつの間にか泣き止んでいる。
「あー、海行きたくなってきたなー、泳げなくてもいいから」
背伸びをしてのけ反りながら睦が言う。千歳は時計をちらりと見て、
「今日はディナーの営業お休みにしようかしら。海に行ってらっしゃいよ」
と言った。睦はガバっと起き上がると両手をカウンターについて
「え、まじすか?」
と言う。千歳を見る尚斗の目も心なしか輝いて見える。
「一昨日も昨日も頑張ってくれたし、これからお休みにしましょう。思い立ったが吉日よ」
そう言うと千歳はドアに歩いて行って、OPENの札をひっくり返す。睦と尚斗はそれを見ると、互いに顔を見合わせ
「すげえ、店長って結構大胆なことするんすね」
「なんかテンション上がってきた」
と喜んでいる。千歳はにこりと笑うと、
「せっかくの高校生の夏休みなんだもの、アルバイトばかりじゃつまらないわよ」
と言って二人の前に置かれた皿を下げる。
最後の客が帰ると、睦がテーブルを片付けて食器を持ってくる。
「いいわよ、シンクに浸けておいて。あとは私がやるから」
千歳が調理場を覗きこんで言う。
「陽が沈まないうちに行った方がいいわよ」
「いやいや、まだ沈まないすよ」
そう言って睦が皿を洗い始める。尚斗は調理場の片づけを終えて、店内のテーブルやカウンターを拭いていた。閉店の準備が終わり、睦と尚斗を見送ると、千歳も帰り支度を始める。裏口の施錠を確認して、誰もいない店内に戻ると、肩にかけていたバッグをカウンターに置いて、レコードプレーヤーの前に立った。カウンターの下に置いてあるレコードのストックから一枚、取り出して眺めていたら、ベルが鳴る。顔を上げて振り向くと、睦と尚斗が立っていた。
「あの、店長も一緒に行きませんか、海」
「え?」
睦はカウンターの中、千歳の後ろの棚を指差しながら歩いてきた。
「そのヘルメットって店長のっすよね」
写真立ての横には、年季の入ったヘルメットが置かれている。
「ばあちゃんに前、聞いたことあって」
と尚斗が続ける。千歳はレコードをしまうと、ヘルメットを手に取った。
睦のバイクの後ろに千歳が乗り、その後ろから尚斗がスクーターでついてきている。千歳は流れていく景色を見つめた。長い一本道を過ぎ、坂道を上ると宅地開発された住宅地が広がっていて、道路の両脇にはプールを出して遊ぶ子供や、バーベキューをする家族が見えた。三十分ほどで今度は下り坂になり、目の前を横断する高速道路の向こうに海が見えてきて、バイクを包む風の独特な湿り気で海を感じる。ほどなく大きな橋の見える砂浜に到着した。家族連れや若者のグループ、カップルでにぎわっている。バイクを降りてヘルメットを外すと、海風が気持ちいい。はしゃぎながら砂浜に走っていく睦と、その後ろから歩いてついて行く尚斗、千歳は日陰にあるベンチに腰掛ける。
「店長は砂浜行かないんですか?」
「日焼けしちゃうもの、ここから海を眺めてるわ」
尚斗はうなずくと、睦のいる方へ走っていった。千歳はサングラスを外して、ゆっくりと辺りを見回す。十年ぶりにここから眺める海は以前と変わらず、悠々と流れていて、向こうの島にかかる橋は、新しく塗り直されたのか、赤色が濃くなっている気がする。昔あったアイスクリームや軽食を売る売店はなくなって、代わりにコンビニができていた。それでも変わらず、砂浜には楽しそうな声が響いている。
「あっちぃ!」
靴と靴下を脱いだ睦が、砂の上で足踏みしていた。熱さから逃げるように波打ち際まで走る。尚斗は靴の中に砂が入らないよう慎重について行く。ズボンを捲り上げた睦は、足首を海に浸しながら突っ立っている。振り向いて
「尚斗も入れよ」
と言う。尚斗は首を横に振って
「ベタベタしそうだから嫌だ」
と返した。睦は駐車場の下、砂浜に降りる階段を降りたところに目をやって、
「足洗い場あるだろ、それにもう靴に砂入ってるし」
と尚斗の靴を見た。尚斗は「足洗えるんだ」と言いながら、少し躊躇したあと、ズボンを捲り靴と靴下をその場に置いて、海に向かって走った。
「おおー、思ったより冷てえええ」
いつになくはしゃぐ尚斗に、睦もついうれしくなって、波の合い間を走り回る。どれだけ海の方へ近づけるかのチキンレースをしていると、ついに尚斗が膝まで水に浸かってしまい、驚いた弾みで波の上に尻もちをついた。一瞬テンションが下がる尚斗だったが、睦が爆笑しながら同じように波に倒れこむのを見て、顔がほころんだ。
散々遊んだ二人が足洗い場で砂を落としていると、階段の上から千歳が近寄ってきて
「コンビニ行くけど、アイス食べる?」
と聞いた。睦と尚斗が「あ、いや俺ら自分で」と言いかけて、自分達の姿を見合わせると、千歳が
「そんなびしょ濡れでお店入れないでしょう、遠慮しなくていいわよ」
と笑った。「食べます!」と睦が返事をする隣で尚斗が照れ笑いしていた。
いつの間にか陽射しの角度が緩やかになり、砂浜の人影も半分ほどになっている。アイスを食べ終わった二人は、これもまた千歳が買ってきてくれたスポーツドリンクを飲んでいた。心地よい風が、ベンチに座る三人の間を通り抜けていくと、尚斗が口を開いた。
「俺、ずっと母親は東京に居ると思ってて」
両側に座る千歳と睦が尚斗の顔を見る。
「だから海を見るといつも、ああ、この海の向こうにきっと母親が居るんだなって、だから俺の居場所はここじゃないって思ってたけど」
水平線に浮かぶ島の向こう側にオレンジ色のグラデーションが広がっている。
「でも実際は隣の市に住んでたから、なんか力抜けたっていうか」
千歳が視線を海に移す。睦はまだ尚斗の顔を見ている。
「東京に行けるって思ってたのに、現実突き付けられたなあって感じ」
そう言うと尚斗は黙り込んだ。睦は何かを言おうとして息を吸ったが、そのまま口を閉じてまっすぐ海を見た。
「いいじゃない、好きなところに行っていいのよ、自分が行きたいところに」
千歳は水平線を眺めている。
「もちろん大事な人が一緒に居たら、とっても素敵だけど、そうじゃなくたって行きたいところがあって、そこを目指すのって、ワクワクしない?」
尚斗の目を覗き込んで言う。
「実は私ね、お店やめたらアメリカに行こうと思ってるの」
「アメリカ?」
尚斗と睦が同時に声を出す。
「え、アメリカに住むんですか?」
睦がたずねると、千歳が笑って首を振る。
「住まないわよ、英語もよくわからないし。でも行ってみたいところがあって、もうパスポートもとったのよ」
少し自慢げに話す。睦が「すげえ」と感心している。
「行きたいところってどこですか?」
尚斗がたずねる。千歳は島の方を見ながら
「サンフランシスコって街。その街にね、あの橋と似てる橋があるんですって」
そう言って目の前にある橋を指差す。
「それが理由すか?」
睦がたずねると、千歳はうなずく。
「そう、変な理由でしょ? あとは、広い一本道を車で走ってみたいかな」
「それって店に飾ってある写真の場所ですか?」
尚斗が言うと、千歳が手を叩いて驚く。
「そう、よくわかったわね、でもあれがどこなのかわからないのよね」
視線を落とす千歳に、
「でもどこかには、あるんでしょうね」
海を見ながら尚斗が言う。「そうね」と千歳が返事をした。真っ赤に塗られた橋が、夕焼けの光に溶け込もうとしている。
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