[15] 二〇〇三 夏休み 7

 いよいよ芝生の上は観客で埋まってきている中、司会が尚斗を紹介する。舞台袖からそろそろと出てきた尚斗が、スタッフにペコリと頭を下げてマイクの前に立った。パラパラと拍手が聞こえる。腕を組み、自慢げな顔で眺める島内と、穏やかな笑顔をたたえる千歳。なぜか身体の震えが止まらない睦は車いすのグリップをしっかりと掴む。その車いすに座り、尚斗を見守る片桐の手には、ハンカチが握りしめられている。

尚斗が少し照れ笑いをするように観客を見た後、指先のピックが弦をかき鳴らし始める。最前列に居たのは路上ライブの常連客たちで、体を揺らしながら、尚斗の姿を一時も逃さないよう目で追い続ける。会場のざわつきは徐々に小さくなり、尚斗に向けられる視線がどんどん増えていく。一曲目を歌い終わったときには、ステージに立っている若者が誰なのか、樋山にたずねている声が聞こえた。

二曲目を歌い始める前、尚斗は会場を隅から隅まで見渡してから歌い始める。少し懐かしさを感じるメロディと優しい歌詞が、尚斗のかすれ気味の声に乗って会場の端まで響き渡り、人もまばらなカレー屋のたまきも耳を澄ましている。握りしめたハンカチを目に当てると、片桐の肩がふるえた。二曲目が終わると、拍手に混じって指笛も聞こえてくる。

尚斗はまた、会場を右から左に見渡して、端にあるテントで視線を止めると、笑みをこぼす。目をつぶって深呼吸をすると、最後の曲を歌い始めた。苦しそうだったり、嬉しそうだったり、表情を変えながら感情が爆発しているような歌だった。千歳が睦の方を見ると、口をきつく結んでまっすぐに尚斗を見る姿があった。歌い終わると、尚斗は小さく会釈をして、袖に去っていく。

会場は、誰も知らない才能の原石を発掘したような興奮に満ちていた。ラジオ局のスタッフと会話していた樋山が、睦に話しかける。

「睦くん、ちょっと走って尚斗くん呼んできてくれない? 俺ちょっと足が痛くて」

さっき全速力で走ったせいか、樋山の足がやや腫れている。睦は快諾すると、ステージの方へ走っていった。

「私初めて尚斗くんの歌聴いたんだけど、こんなことなら時給アップしてうちで歌ってもらうべきだったわ」

千歳がうれしそうに言うと、島内も

「いや、ほんとにたまげた、こんな田舎にもったいないぞありゃ、なあ」

と興奮冷めやらぬ様子で、樋山に同意を求める。樋山も「そうでしょうそうでしょう」と同意している。片桐は思い出していた。娘が居なくなってしばらくしたころ、幼い尚斗が、母親の部屋に置いてあったギターを鳴らしていたときのことを。


 ステージ裏で尚斗を見つけると、睦は駆け寄って声をかけた。

「尚斗、樋山さんが呼んでる、なんか急いでるっぽい」

「樋山さんが?」

状況が飲みこめない様子の尚斗だったが、睦に腕を掴まれて走り出した。

「なんでそんなに焦ってんの?」

尚斗に聞かれても、睦自身もなぜなのかわからなかった。ただ、走りだしたい気分だったとしか言いようがない。ギターケースを背負った尚斗が睦に連れられてテントに到着すると、周囲に居た人がにわかにざわめく。樋山が近寄ってきて

「尚斗くん、めちゃくちゃよかったよ」

と肩を叩きながら言う。

「ありがとうございます」

謙遜気味に言う尚斗に、樋山は続けて、

「それでさ、少しラジオに出てみない?」

と持ち掛ける。隣に立つラジオパーソナリティの男がにこやかに自己紹介してきた。

 

 フードコートに移動した一行は、尚斗を待っている。

「歌うのは見られて平気なのに、喋るの見られんのは恥ずかしいなんて、ほんとあの子は変わってるよ」

不満げな口調の片桐だが、その笑顔まじりの表情からは、孫の活躍がうれしくて仕方ないといった様子がうかがえる。

「そうねえ、でも尚斗くんらしいと言えばらしいわねえ」

千歳と片桐が目を見合わせて笑う隣で、睦と島内はカレーを食べている。

「CD屋さんのカレーはどうだい?」

片桐はどんなカレーなのか気になるようだったが、じゃがいも、人参、玉ねぎと牛肉が入った、いたって普通のカレーだ。

「うまいっすよ、全然辛くないけど」

平気そうな顔の睦の隣で、島内は水をがぶがぶと飲んでいる。ステージでは次の出演者が登場したようで、歓声が聞こえてきた。

「あ、尚斗」

屋台が立ち並ぶ角からギターケースを背負った尚斗が出てきた。睦は立ち上がって大きく手を振る。片桐は座ったままピースサインを振る。

「なに聞かれたんだい?」

たずねる片桐に、尚斗は照れくさそうな顔をして

「まあ、いつもどこで歌ってるか、とかそういうこと」

と答えた。ギターケースを降ろすと、睦と島内を見てつぶやく。

「俺もカレー食べたい、それどこの?」

睦が指差す先では、たまきと樋山が暇そうに喋っている。


「こんにちは」

「尚斗くん! 歌、ここまで聴こえてきたよー、すごいよかった」

たまきは目をつぶって首を振り、余韻に浸るように言う。

「ありがとう、結構楽しかった」

「歌いながらニコニコしてたもんなあ」

パイプ椅子に座る樋山も満足そうな表情だ。

「あの、カレー、ひとつください」

人差し指を立てて注文する尚斗に、たまきが元気よく返事すると、樋山がレンジでパックご飯を温め、それを紙皿に移してたまきがカレーをかける。財布から金を出す尚斗に

「いいよいいよお金は。いい歌聴かせてもらったから。福神漬けは好きなだけ持ってって」

そう言うと、たまきは小分けパックの福神漬けが入った箱を渡す。

「ありがとう」

笑顔でお礼を言って立ち去る尚斗を、たまきと樋山は笑顔で見送った。

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