[16] 二〇〇三 夏休み 8

 最後のお盆だ。いつもより早めに出勤した千歳は、丁寧に窓を拭きながらそう思った。辺り一面に広がる田んぼの、みずみずしい緑に朝露が降りている。その中を貫く一本道に反射する陽射しが眩しい。窓を拭き終わると、テーブル、客席の間のついたて、さらに壁に飾られた額縁や看板、ナンバープレートをすべて拭き上げた。

千歳はドアを開けると、準備中の札はそのままに、外に出て歩き始めた。百メートルほど歩いて後ろを振り返ると、緑の真ん中に立つ店は、草原の中の家のようにも見える。その草原の中をバイクで走ってくる姿があった。店を通り過ぎて、スピードを落としながら近づいてくる睦は、千歳の近くでバイクを止めた。

「おはようございます、なにやってんすか」

「おはよう。ちょっと散歩してたの。いつも車で来て、車で帰るだけでしょ? もし歩いてきたらどんな風に見えるのかなと思って」

店の方に目をやる千歳につられて、睦も店を見る。オレンジの瓦葺きの屋根の向こうに入道雲が立ち上がり、その後ろに真っ青な空が広がっている。


 コルセットをした片桐が朝食の後片付けをしていると、歯磨きを終えた尚斗がやってきた。

「いいよ、俺がやるから」

片桐は手のひらを尚斗に向けて制止すると

「このくらいやらないと体がなまるからいいんだよ、それより遅刻しないようにしなさいよ!」

時計を見ると思ったよりも時間が迫っていたので、尚斗は急いで着替えるとスクーターで店に向かった。

 

 トニー・ベネットの歌声とビル・エヴァンスのピアノが流れている開店三十分前、睦と尚斗が忙しく調理場で動く一方、千歳はわかめスープのストックを準備したり、食器の用意をしたりしていた。カウンターの中で作業をしていると、駐車場に一台の車が入ってくるのが見える。Uターンでもしてるのだろうと思っていたら、家族連れなのか、両親と子供の四人が車から降りて、入り口の前までやってくる。母親がCLOSEDの札を見た後、店内にいる千歳と目が合った。口を動かしているがなんと言ってるかは聞こえない。カウンターから出て、ドアを開けると、母親がもう一度言った。

「何時からですか?」

「十一時からですけれど……」

駐車場にとめてある車のナンバーが目に入る、県外のものだった。きっと朝早くに遠くから出発してきたのだろうと思った千歳は、

「よろしかったらどうぞ」

と笑みを浮かべ案内し、ドアの札を裏返した。子供たちが元気に走って店内に入ってくると、父親が困ったようにたしなめながら後を追う。千歳が調理場にいる二人のところへ行って事情を話すと、

「開店前からお客さん来るとか、さすがお盆すね」

と睦が驚いていた。お冷とおしぼりを出し、注文をとった千歳が調理場に向かっていたら、ベルが鳴って、また客が入ってくる。その後も次から次に客が訪れ、テーブル席は満席、カウンターに少し空きがある状態となった。尚斗が鍋を振り、千歳は接客、睦はその間に立って両方を器用にこなしている。そう広くはない駐車場だが、満車になるのはずいぶんと久しぶりのことだった。お盆とはいえ、ここ数年これほどの客入りになったことはない。千歳は首を傾げながら料理を運んでいた。途切れることなく客が入ってきたランチタイムをやや過ぎたころ、会計を済ませた三十代くらいの女性客が千歳に話しかけてきた。

「あの、このお店閉店するんですね」

エントランスの閉店の貼り紙をみたのだろう、この数日間、常連から同じように話しかけられた。千歳はいつものように、少し残念そうな笑顔で

「ええ、そうなんです」

と答えた。すると客は続けて

「昔、まだ夫と付き合ってたころ、よく海に行くとき寄らせてもらってたので、残念です」

と、ちょっとだけ気の毒そうな顔をして言った。その後に入店してきた客にお冷とおしぼりを出しに行くと、また話しかけられる。今度は四十代くらいの夫婦だ。

「閉店されるんですねえ」

夫と思われる男性が言う。このあたりでは聞かないアクセントだったので、きっと帰省客だろう。

「子供たちが小さいころ、帰省するときはよく寄らせてもらったんです。もう子供も大きくなって部活やらで一緒に帰省もできないんですけど、当時のいい思い出です」

そう言って、妻らしき女性が笑顔を見せる。千歳は

「ありがとうございます」

と深々とお辞儀をした。その隣のテーブルで注文を取っていた睦が、

「いや、知らないすね」

と言っている。千歳が何のことかたずねると、五十代くらいの女性が

「ラジオを聴いて、それで来たんです。ああ、あのお店閉店するのねって思って」

と千歳に説明する。睦が

「店長ラジオに出たんですか?」

と訝し気な顔をしている。千歳は感づいて、調理場に向かうと尚斗に話しかけた。睦もその後を追ってくる。

「尚斗くん、ひょっとしてラジオでこの店のこと話してくれたの?」

尚斗はぎくりとして、ゆっくり千歳の方を振り向くと、

「はい……、勝手なことしてすみません……」

と頭を下げた。千歳はあわてて尚斗に歩み寄り、

「頭下げなくていいわよ、むしろお礼を言わせて」

そう言って尚斗の体を起こすと

「ありがとう」

と言った。尚斗はほっとしたような照れたような表情で、

「いえ……」

と返事をする。それを聞いていた睦は、

「なんだそうだったのか、すごいな、尚斗の宣伝効果」

そう言って感心していた。その後もたびたび、話しかけてくる客があって、中にはラジオを聞いた友人から話を聞いて、帰省のときにわざわざ寄ってくれた人も居た。


「今日は疲れたな……」

窓のブラインドが下ろされた店内では、めずらしく睦の食が進んでいない。よほど疲れたようで、さっきから何度も寝そうになっている。

「食べないんなら片付けるけど」

すでに完食した尚斗が皿に手をかけると、その腕を睦がつかんだ。

「なあ、片桐さんってまだぎっくり腰治ってない?」

「まだ、一応コルセットつけてるかな」

「そっか、んじゃだめだな」

がくりと肩を落としたかと思うと、少しして寝息を立て始める。

「もったいないな……」

尚斗は睦が残したパスタを平らげると、調理場のシンクで皿を洗ってしまう。ベルが鳴って千歳が本店から戻ってきた。

「ごめんね、遅くなっちゃった」

突っ伏している睦を見て、「眠っちゃった?」と無音で口を動かし、尚斗に確認する。尚斗は声を出して「睦、起きて、店長帰って来たよ」と睦の体を揺らす。

「へ? 俺寝てた?」

口元を拭いながら睦が起き上がる。

「ごめんね、本店もお盆で客足が伸びてるらしくて、応援に出せる人手がないみたい」

千歳が困り果てた様子でカウンターに腰かける。

「ばあちゃんに聞いてみますよ、一日は無理かもしれないけど、ランチだけとか」

千歳は考え込んでいる。

「でも無理はさせたくないわね……」

「大丈夫ですよ、たぶん、もう普通にご飯作ったりもしてるんで」

尚斗は鞄を肩にかけて、帰る準備をしている。それをみた睦は背伸びをすると、頬を両手で叩いて眠気を覚ます。尚斗は千歳に向かって

「じゃあ、俺たち帰るんで、店長また明日」

と軽く会釈する。千歳は

「うん、ありがとね、気を付けて。睦くんバイク大丈夫? 送っていこうか?」

と心配そうに言う。睦は

「いや、全然大丈夫っす、ちょっと寝たらめちゃくちゃすっきりしたんで」

と笑顔で返した。

 一人店内に残った千歳は、写真立ての夏也を見て、

「私が思ってたより、この店のこと覚えてくれてる人たくさんいたわよ」

と嬉しそうに話しかけた。

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