[11] 二〇〇三 夏休み 3
車を降りると、肌にまとわりつくような風が吹いていて、千歳は帽子を飛ばされそうになった。陽炎が立ちのぼる石段を見る限り、昼過ぎに降った通り雨はこのあたりには来なかったようだ。水汲み場で桶に水を満たすと、コンクリートに敷石が埋められた舗道を歩いていく。最近誰か来たのか、周囲は綺麗に掃除されて、新しい花が生けられている。千歳は日傘を閉じると、自分が持ってきた花をそのわきに生けて、物入れから線香とマッチと取り出した。線香の煙を少し眺めてから目を閉じ、手を合わせる。セミの鳴き声と、風が木々を揺らす音だけが聞こえた。ゆっくりと立ち上がって振り返ると街が一望できる。市街地からその先の海、さらに向こうの島までがよく見えて、陸地に挟まれた海は、まるで大きな川のようだ。サングラスを外すと、島にかかる橋の鮮やかな赤が、海の青とのコントラストで嘘っぽく浮いて見える。もう一度サングラスをかけると「またね」と声をかけてその場を去った。
車に戻ってエンジンをかけたところで、携帯が鳴った。知らない番号だ。
「もしもし?」
通話ボタンを押して応答すると、男の声が聞こえてきた。
「ああ、千歳ちゃん、島内だ。皐月さんとこに連絡して番号を聞いた。今、病院に居るんだが、千歳ちゃんには知らせとかないと、と思って連絡したんだ」
千歳は話を一通り聞くと、車を病院へ向かわせた。
尚斗と睦は、ロビーのソファで樋山を待っていた。タクシーの中でも、傷むのかずいぶんと我慢していた様子で、病院に着くと看護師が優先して整形外科の診察にまわしてくれた。
「かなり痛そうだったな」
睦が口を開く。尚斗はうなずいて
「けっこう腫れてきてたもんな」
と返した。病院に来るのは慣れていないので落ち着かない。キョロキョロと辺りを見回していたら、視界の隅に見覚えのある顔が入ってきた。
「あれ? 店長?」
睦も振り向いて入り口側を見る。
「ほんとだ」
手を挙げると、千歳はこちらに気づいたようで速足で近寄ってきた。
「様子はどうなの?」
心配そうに言う千歳を見上げて、尚斗が首を傾げる。
「ん? 知り合いなんですか?」
今度は千歳が首を傾げながら言う。
「え? どういうこと?」
睦が割って入る。
「樋山さん、知ってるんですか?」
「ヒヤマさん? 何の話?」
三人で互いの顔を見合わせていると、診察室から樋山が出てきた。
「いや、ごめんごめん、腕、骨折してた」
しんどそうな笑顔で松葉杖をつきながら、ギプスをしていない方の手を振る。尚斗と睦、そして千歳が振り向く。
「樋山さん、店長と知り合いなんですか?」
睦が聞くと、樋山は「へ?」と言いつつ、千歳の顔を見る。千歳は困惑しながらも、笑顔で軽く会釈した。
「いや、えーと、どこかでお会いしましたっけ?」
「いえ、お会いしていないと思いますけれど……」
二人を眺める尚斗と睦も、状況が理解できなかったが、睦はとりあえず立ち上がって、樋山に席を譲る。足には包帯が巻かれていた。千歳の携帯が鳴る。
「はい、ええ、もう病院には着いたんですけど……、あら、そうなのね、わかりました」
携帯をバッグにしまうと、千歳は三人を見て
「ええと、片桐さんの病室三階らしいから、私行こうと思うんだけれど」
「ばあちゃん、どうかしたんですか?」
尚斗の顔色が変わる。千歳はゆっくりとした口調で
「ぎっくり腰ですって」
と返した。それを聞くと、尚斗は少し安堵した様子で「またか」と言った。
「また?」
睦がたずねると、千歳が答える。
「ちょうど、睦くんがアルバイト始めるちょっと前くらいにも、ぎっくり腰になっちゃったのよ、片桐さん」
三人の会話を黙って聞いていた樋山が
「あの、病室行った方がいいんじゃないですか……?」
そう言ってエレベーターを指す。「でも」と躊躇する尚斗に
「俺なら大丈夫だよ、あと支払いしたら帰るだけだから」
手をひらひらさせて言う。睦が、
「じゃあ、俺が樋山さんについてるから、店長と尚斗は先に病室行ってください」
と促すと、千歳と尚斗は病室へ向かった。
三階に上がると、そわそわした様子の島内が廊下を歩き回っていた。千歳と尚斗に気づくと、手を挙げてそのまま手招きする。四人部屋の奥、窓際に片桐が横になっていた。
「店長、すみませんねえ」
意気消沈した片桐が頭を下げる。千歳が首を横に振る。
「そんな、いいのよ。それよりせっかくのデートだったのに災難だったわね」
「いや、申し訳ない、俺がイルカショーで前の方に座ったばっかりに」
「イルカショー?」
尚斗が聞き返す。島内の代わりに片桐が、覇気のない声で答える。
「イルカがこう、ピョンピョン跳ねて、それで水がバババっとかかってきてさ、ブラウスに水がかかっちゃう、と思って体を捻ったら、これよ」
島内が申し訳なさそうに小さくなっている。
「水族館から救急車乗るなんて、あたしくらいなもんだろうね」
と言いながら、気を使って笑った。千歳も「ふふふ、ほんとねえ」と言って笑う。尚斗は笑ってはいないものの、
「島内さんのせいじゃないですよ」
と言って、島内を慰めた。
「だけど、今回は入院してきっちりと治した方がいいんじゃないかしら」
腕を組み、顎に片手をあてながら千歳が言う。同意する尚斗に、片桐が
「でも、あんた忙しいだろ?」
と言うと「問題ないよ」と返事した。
「片桐さん、大丈夫すか」
睦がそろそろと病室に入ってくる。片桐は
「あら、睦くんも来てくれたのかい、ありがとうねえ」
と優しく笑顔をつくった。
「入院するんすか?」
睦が、片桐と千歳を交互に見ながらたずねる。千歳は
「その方がいいと思うのよ、きっと前回無理しちゃったから、癖になってるんじゃないかしら」
と答えた。
「じゃあ、俺が片桐さんの代わりやるんで、ゆっくり休んだ方がいいすよ」
と軽い調子で睦が言う。
「代わりって、睦、料理できんの?」
尚斗が驚いた顔でたずねると、睦は自慢げに
「できるよ、片桐さんに教えてもらってるから。尚斗みたいにはできないけど、でも俺ら二人で力合わせればいけるだろ?」
と尚斗の肩を叩く。千歳はそれを見て微笑みながら、
「もし坊ちゃんたちが忙しいときは、本店から人借りることも考えるから、片桐さんゆっくり休んで」
と労った。
「すいませんねえ、もうすぐ盆で書き入れ時だってのに」
片桐は申し訳なさそうに頭を下げた。
夏の陽はまだ高いが、時計を見ればすでに夕方になっている。睦と尚斗を後部座席に乗せて、千歳は車を走らせていた。睦は窓を開けて風を浴びながら外を眺めている。尚斗は携帯をいじっていた。
「そういえば、あの樋山さん? 怪我ひどそうだったけれど、事故か何かだったの?」
バックミラー越しに二人に話しかける。
「いや、外で急に大雨降ってきて、慌てて走ったら、ビーサンの紐が切れてこけたらしいす」
睦が答える。「あら、そうだったの」と返事をする千歳に、
「市の夏祭りの打ち合わせの帰りって言ってました」
と、携帯から顔を上げた尚斗が答えた。それを聞いて思い出したように睦が尚斗の方を向く。
「そういえば、樋山さんとタクシー待ってたとき、自分は出れそうにないから、尚斗に代わりに出てもらえないかなって言ってたよ」
「代わりに出るって?」
千歳がたずねる。
「毎年ステージでライブやるじゃないですか、一組だけ有名なミュージシャン呼んで、あとは地元の人とかのやつ。あれっす」
睦の説明を聞いて、千歳は毎年夏ごろテレビで流れている、夏祭りのローカルCMを思い出した。
「すごいじゃない、出てみたら? 尚斗くんの歌評判なんでしょ? 路上ライブでもたくさんお客さん居るって睦くんに聞いたわよ」
「そう、しかも樋山さんの店、あ、CD屋なんすけど、そこで尚斗の曲が流れてて、本物のCDみたいなんすよ、俺も絶対出た方がいいと思う」
「いや、どうだろ……」
自信なさげな尚斗だったが、おかまいなしに睦と千歳は盛り上がっている。
「その日、お店休みにして見に行こうかしら? 私まだ尚斗くんの歌聴いたことないし」
「いいすね、皆で応援行きましょうよ」
「楽しみねえ!」
尚斗は二人のはしゃぐ姿を見ながら、手元の携帯で打っていたメールの内容を削除して「わかりました、頑張ります」と打ち直すと、樋山に返信した。
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