[10] 二〇〇三 夏休み 2
片桐は朝から機嫌がよかった。徹夜で作業をして、朝方眠りについた尚斗を起こすときも怒鳴ることはなかったし、尚斗が遅い朝ごはんを食べているときも鼻歌まじりに洗濯物を干していた。目の前をスキップして横切る片桐を避けながらテレビを見ていると、今日も最高気温が三十五度を超えるらしい。昼間の路上には十分と立ってはいられないだろう。尚斗は今日の予定をどうするか考えていた。
「あら! もうこんな時間じゃないの、着替えないと」
そう言って片桐は自分の部屋へ向かった。尚斗は味噌汁を飲み終えると、手を合わせて食器を片付ける。蛇口から流れる水すらぬるい。さっきからセミの鳴き声に混じって、今日の服装に悩む片桐の独り言が聞こえてくる。
「ちょっと、尚斗これどう思う、派手かね?」
水を止めて振り返ると、スカイブルーのブラウスに白のゆったりとしたパンツを合わせた格好の片桐が立っていた。胸元にはネックレスまでしている。
「ばあちゃん、そんな服持ってたんだ」
夏はいつもTシャツしか着ていない片桐がおしゃれをした姿をみるのは久しぶりだった。
「変かねえ」
「そんなことないよ、すごくいいと思う。似合ってる」
尚斗は片桐に近づいて、頭から足元まで見ると、
「値札ついてるよ」
と言って戸棚からハサミを出して切ってくれた。
「あら、あぶないあぶない、ありがとね」
片桐は照れ笑いしながら、目の前に立つ尚斗が、いつの間にか見上げるくらい大きくなったことに、月日の流れを感じていた。
「あんたは、今日はどうすんの?」
「どうするって?」
「どっか出かけたりしないのかい? 定休日だってのに」
「うーん……」
片桐が思いついたように手を叩く。
「睦くんは? 睦くんと遊んだらどう?」
「遊んだらどう、って小学生の夏休みじゃないんだから」
つけっぱなしのテレビで十時の情報番組が始まった。
「あら! もう行かないと、あんたもいい休みにしなさいよ!」
「わかったよ、島内さんによろしく」
片桐はピースサインをして素早く玄関に移動したかと思うと、また戻ってきた。
「どうしたの」
尚斗の問いかけに「忘れ物!」と答えながら、戸棚の引き出しを開けたり閉めたりしている。
「あった!」
そう言って、カードのようなものを取り出す。
「なにそれ」
「花屋のポイントカードよ、じゃあ、行ってくるからね!」
「うん、いってらっしゃい」
玄関の引き戸がピシャリと閉まる音が響く。尚斗はダイニングテーブルに座ったままテレビを眺めていた。芸能人が横浜中華街でグルメリポートをしている。
「横浜か……」
テーブルに置いていた携帯を開くと、メール画面から睦のフォルダを選ぶ。前にメールしたのは夏休みに入る前だった。返信画面を開くと「今日暇? 遊ばない?」と打って送る。送った後で、「遊ばない?」なんてほんとに小学生みたいだなと思った。冷蔵庫から麦茶を取り出してグラスに注ぐと、一気に飲み干す。味噌汁が濃かったのか、なんだか喉が渇く。部屋も暑く、扇風機の位置が悪いような気がして移動したり、テレビのチャンネルを変えたりしていたが、その間も一向に返信は来ない。なんだかこうやって待っているのも落ち着かないので、一度携帯の電源を切ってみたが、その間に返信が来くるかもしれない、と思いなおしてすぐにまた電源を入れた。
ギターを持ってきて歌うことにした。たまにギターの音色に混じって着信音が聞こえる気がする。携帯を確認するが、返信は来ていない。念のためセンター問い合わせをしてもゼロ件だった。
「忙しいんだろうなあ」
携帯をパチンパチンと閉じたり開いたりしながら、和室に移動させた扇風機の前に寝転がっていると、眠たくなってきた。五時間くらいしか寝ていなかったからだ。うとうとしていると、かすかにエンジンの音が聞こえた。続いてインターホンの鳴る音がして、今度は声が聞こえてきた。
「尚斗ー、いるかー」
だるい体を起こして、目をこすりながら廊下に出ると、玄関の引き戸が少し開いていて、そこからタンクトップ姿の睦が顔を覗かせていた。
「おお、いたいた。遊びにきたぞ」
「あ……、いらっしゃい」
尚斗は内心、小学生みたいだなと思ったが、それは言わずにおいた。
とりあえず、冷蔵庫に入っていたすいかと麦茶を出して、掃き出し窓を閉めるとエアコンをつける。
「おー、サンキュ」
「すいかに塩かける派?」
「いや、いらない、しょっぱくなるから」
尚斗は手に持った食卓塩の容器を棚に戻して、睦の向かいに胡坐をかいて座る。
「ていうか、すいか食べれる?」
「え? すいか食べれないやつなんかいんの?」
すでに睦は食べている。
「いや、一応聞いとこうと思って」
「むしろ、好きだよ」
「おっけ」
テレビでは江の島の様子が映されていた。海水浴を楽しむ人たちで砂浜が埋め尽くされている。
「海か、ずっと行ってないな」
尚斗が麦茶を飲みながら言う。実はあまりすいかは好きじゃない。
「俺の友達は今日海行くって言ってた」
「そうなの?」
「あの、初売りのときにいたやつら、覚えてる?」
「うん、覚えてるけど」
尚斗に絡んできた男たちを、走って追いかけて行った姿が目に浮かぶ。
「睦は行かなかったんだ?」
「うん、尚斗からの連絡の方が先だったし」
「へー」
エアコンが起動し始めて、一気に冷たい風が吹き出してくる。
「そういえば今日、片桐さん、島内さんとデートなんだろ?」
「うん、おしゃれして出かけて行った」
「デートってどこ行くんだろうな」
すいかの種を出すと皿の端に置く。
「水族館行くって言ってたよ」
「水族館? 島内さん思ったよりいいチョイスすんな」
「うん、いいよね、水族館」
「俺らも行く?」
そう言いながら睦が尚斗を見る。尚斗は一瞬だけ目を合わせて逸らすと、
「いや、さすがにそれ気まずいでしょ、ばあちゃんのデート現場とか」
「だったら、動物園とか?」
睦はまたすいかにかぶりつく。
「動物、好きなの?」
「いや、俺はあんまり」
「なんだそれ」
「じゃあどこに行きたい?」
尚斗は畳の上に仰向けに寝転んで、横目でテレビを見つめる。
「そうだなー、なんも思いつかないなー」
まだ江の島の様子が流れていた。睦はすいかを綺麗に食べ終わると、
「手、洗いたいんだけど、あと口も」
と言った。尚斗は寝ころんだまま洗面所の場所を指す。水の流れる音と、睦がうがいをする音、蛇口の閉まる音を聞いていた。戻ってきた睦に
「俺、海に行きたい」
と言うと、
「じゃあ、海行くか」
と返ってきた。
正午過ぎの陽射しは鋭く、睦のバイクは置いたまま、二人はバスで出かけることにした。
「車あれば楽なのにな」
揺られながら睦がつぶやく。隣の尚斗はさっきからずっと携帯をいじっている。
「このバスさ、海行かなくない?」
「うそ、行くだろ」
「いや、行かないよ、これ見て」
携帯にはバスのルートが示されていて、路線を表す線が途中で分かれ、一つは海の方へ、一つは市街地に向かっていた。
「どうりで街中に来たなと思ったんだよなー」
自信満々でこのバスに乗り込んだ睦は、素知らぬ顔で言う。尚斗は携帯を閉じると、
「とりあえず降りるか」
と提案した。二人は降車ボタンを押すと次のバス停、市役所前で降りた。照りつける陽射しの下で行く当てを失った二人は、とりあえず屋内を求めて歩き始める。日陰を選んで歩いていると、睦が思い出したように口を開く。
「そうだ、あのCD屋、俺行ったことないから、あそこ行こう」
「SUNNYのこと?」
「名前知らないけど、たぶんそれ、あの女の子が働いてるって言ってたとこ」
「俺しょっちゅう行ってるんだけどな……」
そう言いつつも、尚斗はSUNNYの方へ向かって歩き出す。人気のない昼間の飲み屋街を抜けると、路地の左手に看板が見えてきた。尚斗は慣れた様子でドアに手をかけると店の中に入る。エアコンが効いているからか、中古品を扱う店の独特の匂いが薄まっているような気がした。店内には数人の客がいる。続いて入った睦は、初めて入る店に少しだけ緊張しているようだった。音楽通、が集っている店のようなイメージを持っていたからだ。
「いらっしゃいませ」
棚の整理をしていた、たまきが振り返る。
「あれ、尚斗くんか。めずらしいね、ギター持たずに来るの」
「うん、今日は友達と来た」
たまきは尚斗の後ろでCDを手に取っている睦を見て
「ああ、久しぶりー、元気にしてた?」
と旧知の友人のように話しかけた。睦は持っていたCDを棚に戻して
「おう、久しぶり」
と返事をしたあと、尚斗の肩を叩いて上を指さす。
「これ、尚斗の歌?」
「そうだよ」
「え、まじで? CDみたいなんだけど」
CDみたい、というのが曲のことなのか、それとも音質のことなのかはわからなかったが、睦は感動した様子で店内に流れる曲に耳を傾けていた。たまきはカウンターに戻ると、参考書を開いて勉強を始める。
「樋山さんは?」
尚斗がたずねると、
「夏祭りの、出演者向け打ち合わせに行ってるよ」
そう言って、壁に貼られている夏祭りのポスターに目を向けた。
「そうなんだ。睦にも会わせたかったんだけどな」
レジ横の棚にある音楽雑誌を立ち読みしている睦に、たまきが声をかける。
「睦くんは、高校生?」
「うん、そうだよ。有工。三年。」
「そうなんだ、じゃあもう進路とか決まってるの?」
「ああ、神奈川の自動車工場に内定出た」
レコードを見ていた尚斗が睦の方を向く。たまきは心底羨ましそうに、
「いいなあ、やっぱ有工だと就職も世話してくれるんだね」
と背伸びしながら言う。雑誌を棚に戻した睦が近づいてきて、
「たまきちゃんは、それ、大学?」
レジの中の机に置かれた参考書を指す。
「そう」
「志望校は決まってんの?」
「うん、東京の女子大」
「そっか、勉強大変そうだなー」
睦は英語の参考書を手に取ってパラパラとめくっている。その隣に尚斗がやってきて、過去問集を手に取りながら、睦に話しかける。
「内定、出てたんだ、おめでとう」
「おう、サンキュ」
ドアが開き、ぬるい風が湿気を運んできた。快晴の陽射しそのままに、きらきらと雨が降っている。樋山はシャワーを浴びたように濡れた髪の毛を右手でかき上げて
「ごめんペーパータオル持ってきてくれる?」
とたまきに声をかけた。たまきは立ち上がってキッチンに行くと、ペーパータオルをロールごと手に持って樋山に駆け寄った。樋山の左腕から血が流れている。
「どうしたんですか、これ」
たまきはペーパータオルをぐるぐると三重に巻き取ってちぎり、折りたたんで樋山の腕に当てた。樋山は小さくヒッと声を上げる。
「いやあ、晴れてるのに急に降ってくるもんだから、慌てて走ったらこけちゃってさ」
よく見るとビーチサンダルの鼻緒が切れていて、ハーフパンツの裾も破けている。CDを手に取った客も、心配そうに入り口の方を見ている中、尚斗と睦もペーパータオルをちぎって、樋山の濡れた髪や服を手早く拭き、尚斗が肩を貸して奥の部屋へと連れて行った。たまきはキッチンからバケツと雑巾を持ってきて、入り口の床に落ちた血を拭き上げた。
「いやー、まいったな」
笑みを浮かべているものの、樋山は動揺を隠しきれない様子だ。たまきは冷凍庫から出した氷をレジ袋に入れて水道水で満たし持ってきた。
「ありがとう」
樋山はそれを受け取って左手にあてると、ふう、と息を吐いた。
「病院行った方がいいんじゃないですか?」
たまきが不安そうに言うと、
「いやいや、こけただけだから、大丈夫だって」
と樋山は笑顔で返す。心配そうにしている尚斗の隣には、睦が立っている。
「あ、もしかして尚斗くんの? なんだっけ、名前」
「睦です」
尚斗が答える。
「そうそう、睦くんだ。俺、樋山っていいます。よろしく」
自分のことを知られていたことに、少し戸惑いを感じた睦だったが、
「どうも、いつも尚斗がお世話になってます」
と、軽い口調で返した。樋山はハハハ、と笑ったあと、傷に響いたのかヒッと声を上げる。
「やっぱり病院行った方がいいですよ、俺と睦で付き添いますから」
尚斗の提案に、たまきもうなずいている。樋山は「それは悪いよ」と断っていたが、徐々に脂汗をかき始め、結局、尚斗と睦に肩を借りてタクシーに乗り込んだ。
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