[7] 二〇〇三 春休み 3

 熟睡していた尚斗は、携帯のバイブレーションで目を覚ました。窓の外を見ると、目的のバス停まであと少しだった。アラームを解除して携帯を上着のポケットにしまうと、両手を伸ばして背伸びをする。バスの中で睡眠を確保するのが習慣になったため、最近はもっぱらバスで移動している。

 アーケード街最寄りのバス停で降りると、携帯を開いて地図の画像を開く。小さな画面では、通りを示す太線と市役所、アーケード街の位置関係しかわからない。睦の携帯に比べて尚斗の携帯は型が古く、画面も小さかった。それでも大体の目星をつけて裏通りを歩いていると、『SUNNY』と書かれた看板が見えて、尚斗はそこが目的地だと確信した。

 一階が服屋になっている建物の、二階のガラス戸をおそるおそる開けると、レジに座っている、三十代くらいで髭を生やした男が「いらっしゃい」と言った。尚斗は会釈して中に入る。中古品を取り扱う店の独特の匂いと、流れている激しめのロックミュージックに少し萎縮しつつ店内を歩いていると、好きなミュージシャンの輸入盤や、整然と並ぶ古いレコードに言い知れぬ高揚感を抱いた。平日の昼間だからか、店内に他に客はおらず、レジの男と尚斗だけだった。広くはない店内はリラックスした雰囲気に満ちていて、尚斗は夢中でCDを見て回る。

「ギター弾くの?」

後ろから声が聞こえて、それが店内に一人の客、かつギターケースを背負った自分に向けられたものだと気づくのに少し時間がかかったが、尚斗は振り返ってレジの男に「はい、まあ」と返事をした。

「いいね」

それだけ言って笑うと、手元の文庫本に目を戻す。三十分ほど店内を見て、いくつかのCDをレジに持っていくと、今度は尚斗が声をかけた。

「この店で、たまきって名前の人働いてますか?」

男はレジからお釣りを取り出して、

「うん、働いてるよ。友達?」

と言いつつ小銭とレシートをトレーに置いた。裏返していた文庫本を手に取って椅子に座る。

「いや、ハンカチ貸してもらったんで、返そうと思って」

「ハンカチ?」

「これなんですけど、渡しといてもらえませんか」

カウンターの上に置かれた小さな紙袋には、アイロンがけされた、青いギンガムチェックのハンカチと、ケースに入ったままのハンカチが二枚入っている。

「君、もしかして市役所前の交差点で弾き語りしてる子?」

唐突な質問に驚いたが、やや戸惑い気味に尚斗は「はい」と答える。

「あー、そうだったんだ、たまきちゃんに聞いたよ」

「そうなんですか」

「うん、すごい歌がうまくて曲もいい男の子がいるよ、って動画見せてくれた。まあ、動画はたまきちゃんと誰かが話す声しか入ってないし、映ってるのもたぶん君のスニーカーだけだったから全然良さがわかんなかったけど」

そう言うと立ち上がり、カウンターから身を乗り出して、下を見る。

「ああ、この黒のコンバース、これこれ」

尚斗は自分の足元をみて「そうだったんですね」と返す。歌を褒められていたということがうれしくもあり、少し恥ずかしくもあった。

「もう少ししたら、たまきちゃん来ると思うから待ってたら? カレー食う?」

「カレー?」

「そう、俺今から昼飯でカレー食べるけど、待ってる間カレー食う?」

「え、じゃあ、いただきます」

「おっけー、それ使って座っていいよ」

カウンターの中に立てかけられている折り畳み椅子を指しながら言った。尚斗はギターケースを肩から下ろすと、椅子を広げてそこに座る。そわそわしていると入り口のドアが開き客が入ってきた。尚斗は思わず「いらっしゃいませ」と声をかける。


 たまきが店のドアを開くと、カウンターの中に二人並んでカレーを食べる姿があった。

「え、どういうこと?」

意味が分からないといった様子で笑いながら、肩にかけたトートバッグを壁のフックにかけ、奥のキッチンで手を洗って戻ってきた。

「お邪魔してます」

口の端にカレーをつけた尚斗が言う。手元ではパックの白ご飯にカレーがかかったものが半分ほどの量になっている。

「樋山さん、なにしてんですか」

「なにしてんですか、ってカレー食べてるよ」

「そういうすっとぼけ要らないですよ」

たまきは尚斗の方に振り返ると。

「尚斗くん、だよね、睦くんに名前聞いた。私、たまき。よろしく」

手を差し出された尚斗はカレーをレジカウンターに置くと、立ち上がって握手をした。それを眺めていた樋山が

「あ、そうだ、俺自己紹介してないわ。俺、樋山って言います。よろしく」

と言ってカレーを食べる。たまきは店内に二カ所ある窓を開けてから、客に「すみません」と笑顔で謝っていた。客も慣れているのか特に気にしていない様子だ。店番を交代するたまきに追い出されるように、樋山は奥の部屋に入っていく。尚斗も移動しようと、カレーを持って立ち上がる。そのとき、たまきが広げているプリントが目に入った。

「あれ? この課題のプリントって」

「ん? 高校のだけど」

「たまきちゃんってもしかして西校の通信制?」

「え、なんでわかるの?」

「俺も西校の通信制だから」

「そうなんだ! 何年生?」

「三年」

「同じだ! スクーリングで会ったことあったのかな?」

「どうだろ? 俺最低限の回数しかいかないから、あんま学校いないんだよね」

「そっかー、実は私もあんまり学校行ってないから同じだね」

奥の部屋からカレーを持った樋山が戻ってきた。

「なになに、なに盛り上がってんの」

「尚斗くん、私と同じ高校の同級生らしいですよ」

「え! そうなの? すごくない? 運命じゃない?」

わざとらしく大げさに驚く樋山を見て、思わず尚斗は笑ってしまう。たまきも嬉しそうに二人を見ていた。


 工事現場での休憩時間、缶コーヒーを片手に睦は電話をかけていた。相手は島内だ。三回コールしたところで受話器が取られた。

「はい、島内でございます」

少しよそゆきだが、島内の声だった。

「あ、あの『Moon river』でバイトしてた睦です、お久しぶりっす」

少し間があいた後、いつもの島内の声で

「ああ、睦くんか! どうした、なにかあったか」

と返ってくる。嬉しそうな声に睦は安心した。

「バイトしてた時に、息子さんのバイクの話してたのって覚えてますか?」

おそるおそる聞くと、

「覚えてる覚えてる、そうだった、見に来るか?」

ハツラツとした声で返ってきた。

「いいんすか? じゃあ行きます!」

住所を聞いて電話を切ると、睦は缶コーヒーを一気飲みして仕事に戻った。


 受話器を置いた島内は、客間に戻って座布団に座る。

「いやいや、皐月さん、すまんね」

「いえ、お気遣いなく」

島内の向かいには、複数の飲食店を経営する皐月グループの会長が座っていた。千歳の兄だ。

「やっぱりあの土地は無理だったよ、俺も市議選に出馬するつもりはないもんで」

そう言って湯飲みのお茶をすする。

「そうですか……、やむを得ないですね。ご尽力いただいてありがとうございました」

皐月は座卓に鼻先がつきそうなくらい深く頭を下げる。島内はあわてて湯飲みを置くと、

「こちらこそ力になれなんだ、すまんかったね」

と頭を下げた。

「二号店の方は、どうするんだい」

「状況は厳しいですから、あのまま維持するのは難しいですね。妹もこの十年、精一杯やってきたとは思うのですが」

「そうかい……」

穏やかな春の陽の中で、庭の木にとまったメジロの鳴き声が響いている。

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