[8] 一九八九 夏休み

 だだっ広い荒野の中を貫く一本道。その途中にダイナーがぽつんと佇んでいる。その写真が入った額縁を壁に取り付けて、満足気に眺めている男が居た。

「千歳ー、ちょっと来て」

ドアを何回か開閉して、ベルの鳴り方を確認していた千歳もまた、満足気だった。ドアをそっと閉めると「はーい」と返事をして、店の奥に向かう。

「どう? これうちの店みたいでかっこよくない?」

千歳は思わず吹き出す。

「やだ夏也くん、こんな写真どこで見つけてきたの?」

「こないだ行ったバザーで見つけた。運命だよ」

現実は荒野の一本道ではなく田んぼに囲まれた田舎の一本道だったし、建物も内装の一部を変更できたものの、重厚な木材のカウンターはそのままで、瓦葺き屋根の外観に至っては、とてもダイナーには見えない。けれど千歳は、まじめな顔で写真を眺める夏也の横顔を少し見つめて

「きっとそうね」

と言った。

「こんな風に旅人が立ち寄れるような店になるといいなあ」

「それだけじゃ困るわ、地元の人にも来てもらわないと」

そう言うと、千歳は物で溢れているカウンターを片付け始める。夏也は店の入り口にに置いてあった段ボールを抱えて、カウンターの端へ向かう。中身はレコードだ。

「まかしといてよ、俺の料理で地元の人の胃袋もつかむから」

「期待してるわよ、シェフ」


 夏本番になると、新装開店して間もない店内は多くの客でにぎわった。海水浴へ行く途中なのか、浮き輪とシュノーケルをつけたまま入店してくる子供たちがいて、千歳の申し出で食事の間その浮き輪を預かると、洋食屋のカウンターはまるで海の家のようだった。それを見た夏也が、ビーチボーイズのレコードをかけたりする。帰省客も多く、

「この町にこんないい店ができるなんて」

「今度友達も連れてきますね」

そんな声掛けをしてもらうこともあり、接客を切りもりする千歳は鼻が高かった。


二人は、高校時代に出会った。夏也が通う高校の近くにあった皐月三号店で、一緒にバイトしていたのがきっかけだ。夏也は千歳のたおやかな雰囲気に惹かれて、千歳は自分をどこかへ連れ出してくれそうな、夏也の無邪気な豪胆さに惹かれた。女子校を卒業した千歳はそのままエスカレーター式に短大へ進学し、一方で夏也は工業高校を卒業したにもかかわらず、工場への就職を辞退して都会の洋食屋で働き、数年間の遠距離恋愛を経て、二人は結婚した。

「おう、にぎわっとるね」

「おう、島内さん、いらっしゃい。そこの席でいい?」

夏也に案内された島内は、カウンターの端に座る。他のすべての席が埋まらない限り、この席はいつも空いている。

「Aランチくれるかい」

「はい、Aランチね。かしこまりました」

お冷とおしぼりを持ってきた千歳は、踵を返して調理場に戻るとセットのサラダとスープを持ってきた。

「このスープがうまいんだよなぁ」

日替わりのスープも夏也が作っている。今日はガンボスープで、チキンやセロリがごろごろ入っており、オクラのとろみでスープがよく絡んでいる。島内はあっという間にスープを平らげて、サラダにフォークを刺す。千歳がハンバーグとライスと運んできた。

「それにしても、夏也にこんな料理の才能があるとは思わんかったよ。うちの息子とツーリングして遊び歩いてると思ってたら、いつの間にか料理人になって」

千歳は島内のグラスに水を注ぎながら、

「島内さんのおかげよ。この店開けたのも、うちの両親説得して洋食屋にできたのも」

と頭を下げた。

「あいつと千歳ちゃんが一生懸命だから、応援してやりたくなるんだよ」

島内は調理場に立つ夏也を見ながら言う。奥のテーブルから客の呼ぶ声が聞こえると、島内は千歳に行くよう促す。千歳は島内に軽く一礼して店の奥へ向かった。


 その日の営業を終えて外に出ると、雲一つない空が月の光で満ちていた。

「今日は月がとても綺麗ね」

と空を見上げながら、千歳はいつものように夏也のバイクの後ろに乗る。夏也はハンドルを握ったまま振り返り、

「明日休みだし、夜更かししてどこか行こうか」

と提案した。

「いいわね」

思わぬ提案に心が躍る。

「行きたいとこある?」

昼間、楽しそうに海水浴へ向かう人たちを、少しうらやましく思っていた千歳は、

「海! 今年まだ行ってないでしょう」

と即答した。

「じゃあ、そうしようか」

千歳は夏也にしっかりとつかまって、流れていく景色を見つめる。長い一本道が終わり山の中に入ると辺りは真っ暗だったが、道路の両脇からせり出した木々の切れ間に、星が流れて見えた。三十分ほどで、また景色が開けてくる。眼下に海が見えてくると、バイクを包む風も徐々に潮の匂いが強くなって、ほどなく大きな橋の見える砂浜に到着した。夏休みだからか、点々とカップルが居て、少し離れたところではグループが花火をしている。千歳と夏也は、砂浜に降りる途中にあるベンチに腰掛けて、その様子を見ていた。

「あの橋さ、ゴールデンゲートブリッジに似てると思わない?」

夏也の視線の先には、向かいの島とこちらを結ぶ橋が架かっている。

「ゴールデン、なに?」

「ゴールデンゲートブリッジ、アメリカのサンフランシスコにある橋だよ」

「ああ、橋の名前なのね。サンフランシスコっていう街の名前は知ってるけど」

波打ち際で、カップルがはしゃいでいるのが見える。夏也は千歳の肩を抱き寄せると、

「いつかさあ、二人でアメリカ行こうよ」

と内緒話のようにささやいた。

「いいわね、いつにする?」

「んー、店が軌道に乗って、ちょっと余裕が出てきて、……十年後くらい?」

「結構先ね。でもそのくらいが現実的かも。じゃあそれを目標に頑張りましょ」

「うん、そうしよう」

向こうの方で打ち上げ花火が上がる。千歳は夏也に寄りかかりながら、凪いだ水面に映る月を見ていた。ゆらゆらと形を変えつつも、そこから動かない。

「なんだか、大きな川みたいじゃない? あっちとこっちに岸があって」

島を指す千歳の手は月明りで照らされていて、絹のようにしなやかなのに、陶器のように儚く見えた。夏也はその手をそっと握る。

「ほんとだ、そう言われたら川に見えてくるな。……そうだ、店の名前、それにしよう」

千歳は前を向いたまま質問する。

「店の名前って、皐月二号店のこと?」

「そう、なんだか洋食屋っぽくないなと思ってて。今の千歳の言葉でひらめいた」

日に焼けた顔に屈託のない笑みを浮かべて話す。

「Moon riverでどうだろう? 皐月の月も残してさ」

夏也は目を輝かせながら千歳を見る。その眼差しに気づいて、千歳も夏也を見つめ返した。

「いいわね、明日お休みだし、両親のところに顔出して相談してみましょうか」

「そうしよう」

夏也は軽くキスをして、優しく笑った。千歳はこぼれるような笑みをたたえた後、目をつぶって、おもむろにヘプバーンのMoon riverを歌い始めた。その歌詞を聴きながら、夏也は自分達にぴったりの店の名前だと思った。

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