[5] 二〇〇三 春休み 1

 春の陽気の中、田舎の国道沿いの休耕田がレンゲのピンクで染まっている。昼時の店内ではロジャー・ニコルズの曲が流れていて、カウンターを磨く千歳の横では、片桐がしかめ面で外を眺めている。

「島内さん来ましたよ!」

「あら、ほんとね」

軽トラから飛び降りると、小走りで店の入り口までやって来た。

「いやあ、外に出ると花粉がすごくて困る」

島内はマスクを外して作業着の胸ポケットに入れると、カウンターの端に陣取る。

「黄砂もひどいもの、花粉症の人は大変よね。何にします?」

お冷とおしぼりを置きながら千歳が返す。

「そうなんだよ、薬飲めば眠くなって運転もできないもんだからさ、まいるよ。あ、Aランチくれる?」

片桐は無言で調理場に入ると、淡々と仕度を始める。

「それにしても店、静かだなあ」

おしぼりで顔を拭きながら島内が言う。他に客はいないが、音楽は流れている。

「平日の昼間はいつもこんなものよ」

さっき沸かしたお湯をわかめスープの素に注いで、サラダと一緒に出す。

「飯はうまいし美人が二人揃ってんのに、なんで流行んないのかね」

スプーンを使わずにスープを飲むとわかっているので、島内にはスプーンを用意しない。フォークでわかめをすくっている。

「皆、ファミレスに行きたいのよ。なんだってあるでしょう? 和洋中。……中はないかしらね」

「いや、最近は中華料理のファミレスもできてたぞ、こないだ孫に言われて連れて行った」

「あら、そうなの」

「本店だって、和食も洋食も出してるだろ」

島内が窓の外、一本道の先に目をやって言う。

「そうね、出してるみたい。アザレアにはドリンクバーもあるわね」

「ドリンクバーねえ、でも俺はここのコーヒーが好きだけどなあ」

コーヒー豆を量っている千歳を見て言う。千歳は島内の方を見て

「そう? ありがとう」

とほほ笑んだ。

「俺だって、できれば残してほしいんだが……」

片桐が調理場から両手に皿をもって出てくる。

「はい! Aランチ、ポークソテーとカニクリームコロッケですよ!」

「おう、サンキュ、片桐さん」

「ほい、ごゆっくりどうぞ!」

片桐はそのまま調理場を抜けて裏口に出た。ドアの閉まる音を確認して、島内が千歳に話しかける。

「……片桐さん、怒ってる?」

スープカップとサラダの皿を洗いながら、千歳が答える。

「怒ってるわよ。島内さんがデートをドタキャンするからでしょう」

「いや、あれは町議会の集まりがあったのを……」

「忘れてたんでしょう?」

「この歳になると物忘れもするもんだよ」

肩を落とす島内を見て、千歳は少し同情した。十年前に妻を亡くしてからは元来の明るさも隠れてしまっていたが、ここ数年徐々に立ち直ってきて、今では片桐をデートに誘うくらい快活になったのだ。黙々とポークソテーを食べる島内に、千歳は声をかける。

「今まで何回も断られてたのに、一度OKもらっただけでも進歩じゃない。少し様子を見てから何か埋め合わせをしたらいいんじゃない?」

「そうだな、そうするよ」

少し元気が出た様子の島内の前に、そっとコーヒーを置いた。


裏口の軒下でタバコを吸いながら、片桐は考え事をしていた。尚斗のことだ。ここ数日、またギターを持って出かけていくようになって、睦に聞いた話だと路上で弾き語りをしているらしい。正月から血を流して帰ってきたときはひっくり返りそうになった。弾き語りというのはチンピラに絡まれたりするものなのか。心配ではあるものの、本人のやりたいことをやらせてあげたいとは思う。

「島内さん、帰ったわよ」

千歳が裏口のドアから出てくる。軒下の日陰から出て、そのまま生垣の前まで歩くと、背伸びをしながら

「春は気持ちいいわねえ、花粉症の人は気の毒だけど」

と言って振り返る。暖かい風が頬を撫でて、あぜ道の木々を揺らした。片桐は千歳の居ない方へ煙を吐き出すとタバコを消して、陽のあたる生垣に腰かける。

「天気はいいけど、この道はぜーんぜん車が通らないですねえ」

「ほんとに、のどかなものね。人間が居なくなった世界ってきっとこんな感じね」

鳥のさえずりに木の葉の擦れる音が響いて、風が吹けばその音まで聞こえる。

「店長は、この街から出ていこうと思ったことあるんですか」

千歳が手で陽射しを避けながら、

「どうしたの? 突然」

と聞き返す。片桐は

「尚斗がね、どうも最近、家を出たがってるような気がするんです」

と訝し気な表情で言う。千歳は察した様子で、

「私は、あるわよ、アメリカに行きたかったんだもの」

そう言って生垣に腰かけると、遠い空を見上げる。

「ああ、そうでしたねえ」

懐かしむような顔で、片桐が千歳を眺めた。

「アメリカに行ってたら、今ごろどうしてたのやら」

「洋食屋やってるんじゃないですか。夏也さんと」

千歳は少しの間沈黙して、穏やかな表情で数回うなずいた。


 ギターケースを地面に広げて、ストラップを肩にかける。春休みに入って、尚斗は久しぶりに人前で演奏を始めた。少し離れたガードパイプには、春休み中の睦が腕組みをして座っている。昼間だから大丈夫だと言う尚斗に、念のため、と言ってついてきたのだ。今日で三日連続になる。尚斗は夜、調理場に立たなくてはならないので基本昼間に歌うしかなく、平日の昼間では、足早に通り過ぎる人ばかりで、じっくりと聴いてくれる人は少なかった。ただ、今日は少し様子が違う。昨日居た女子高生が、友達を数人連れて来ていたからだ。それが呼び水になったのか、十人くらいが尚斗を取り囲んで耳を傾けている。睦がそれを眺めていると、近くで「あ」と言う声が聞こえた。振り返ってみると、スーパーのレジ袋を持った少女が立っていた。

「あの人、初売りの時も歌ってた人ですよね」

睦はそうたずねられて、

「うん、そうだよ」

と答えた。

「また歌ってるんだ、よかった」

そう言って少女は歌声の方へ数歩進み、後ろを振り向く。

「あれ、君もあの時いた人じゃない?」

睦の方へ戻ってきた。

「うん、そうだけど」

「やっぱり。雰囲気違うから気づかなかった」

睦は茶色に染めていた髪をバッサリ切って、黒の短髪にした。今日は整髪料もつけておらず、フードを被っている。

「友達、相変わらず歌上手だね」

重いのか、レジ袋を持ち代えて指をこすり合わせている。

「やっぱそう思うよな、俺も尚斗の歌はすごくいいと思うんだよ」

「尚斗くんって言うんだ」

少女はガードパイプの、睦から少し離れた、尚斗の歌声がよく聞こえる場所に寄りかかって、肩にかけたトートバッグから携帯を取り出すと、尚斗の方に向けた。

「私はたまき、君は?」

左腕を尚斗に向けたまま、睦の顔を見る。

「え、俺? 睦だけど」

「睦くんか、よろしくね」

たまきが少し身を乗り出し、右手を差し出してきたので、睦は着ていたパーカーで手を二、三度拭って、腕を伸ばした。

「ああ、よろしく」

ニコリと笑うたまきに対して、睦の握手はぎこちない。すると親指の付け根まで伸びてきたたまきの手にぐっと握り返された。反応に困っていると、

「握手って、ぐっと力を込めるのがマナーなんだって。うちの店にくるアメリカ人が言ってた」

そう言いながら、睦の手を数回強く握って離したたまきは、尚斗の方を向いて歌を聴き始めた。携帯は向けたままだ。

「店、やってんの?」

たまきは睦の方を振り返って

「バイト先の話。中古CD屋。レコードもたくさん置いてて外国人もよく来るの」

と、ボソボソ返事をした。

「へえ、中古CD屋か」

小声なので睦には中古CD屋であることしか聞き取れない。

「そう。今度遊びに来てよ」

そう言うと片手で器用に財布を取り出し、店が発行しているスタンプカードを差し出した。

「裏に地図載ってるから、写メ撮ったらいいよ」

一方的に携帯で写真を撮るよう促された睦は、少し戸惑いながらも、言われるがままに地図を写して保存した。たまきは再度、片手で器用にスタンプカードをしまうと、立ち上がって尚斗の方に近づいていく。スーパーの袋は足元に置いたままだった。玉ねぎやじゃがいもが見えている。

 尚斗が歌い終わると、パチパチと拍手が起こる。聴衆が十人ほどしかいないことを考えれば、ほぼ全員から賞賛されているといえる拍手の数だった。女子高生数人が携帯で写真を撮っている。尚斗は少し照れたような笑顔でお礼を言うと、次の曲を演奏し始めた。

「じゃあ、私行くね」

パチン、と音をたてて携帯を閉じると、重そうにスーパーの袋を持ち上げて、たまきはアーケードの方へ歩いて行った。あっさりと去っていったので、睦は「おう」と返事するだけしかできなかった。

 帰りのバスに乗ると、ひとつだけ空いていた席を尚斗に譲って、睦は目の前の吊革につかまる。静まり返った車内で会話をするのも気が引けて黙っていたら、尚斗は寝息を立て始めた。しばらく寝顔を眺めていた睦だったが、窓の外を並走していたバイクが目に入り、島内との約束を思い出した。連絡を取ろうと思ったが、電話番号も知らないので、とりあえず尚斗と一緒に『Moon river』に行くことにした。眠っている尚斗の腕の力が緩んだのか、抱えていたギターケースがずり落ちて睦の足に当たり「ボワーン」とこもった音が車内に響く。睦は尚斗の隣に座っていたおばあさんに頭を下げつつ、ケースを持ち上げ自分の肩にかけた。

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