[4] 二〇〇二 冬休み 4

 今年も荒天の元旦だった。テレビでは富士山のご来光の録画が流れているが、窓の外はみぞれ混じりの雨が降り続いている。この町には寺が三つ、神社にいたっては一つしかない。そのいずれも尚斗の家からは遠く、しかもこの天気の中、行く気にもならないので、こたつで祖母が作った煮しめを食べている。

「天気悪いねえ、あんたホントに初売り行くのかい」

湯飲み二つに、急須でお茶を注ぎながら片桐がたずねる。食卓には煮しめの他に刺身が並んでいて、おせち料理は尚斗が好んで食べる黒豆と数の子だけが用意されていた。御神酒のために買っておいた小瓶の日本酒を片桐一人でちびちび飲んでいたら、思ったよりも酔いがまわる。

「夕方には、雨上がるみたいだから大丈夫だよ」

尚斗は二つ折りの携帯電話を開き、天気予報を確認して答えた。降水確率は午後五時ごろ十パーセントになる予想だ。指をスライドさせてメールボタンを押す。高校の同級生からのメールに混じって、睦からのメールが開封済みになっている。この雨の中、除夜の鐘を突きに行ったようで、写メが添付されていた。

「バイクは危ないから、バスで行きなさいよ」

尚斗は何か考え事をしているのか、反応がない。

「ちょっと、聞いてんの!」

こたつの端を何度か叩くと、尚斗が我に返ったように返事をする。

「あ、うんわかった。ていうかあれバイクじゃなくてスクーターだよ」

「同じでしょうが」

そう言うと片桐は湯飲みを両手で持ってゆっくりと茶をすする。尚斗は「同じじゃないけど」と心の中でつぶやいたが、口には出さなかった。

「そうだ、あれ買ってきてよ、梅が枝餅。屋台出てるでしょ」

尚斗はそれがどんなものだったかをすぐに思い出せなかった。

「なんだっけそれ」

「ほら、焼き目がついていてあんこが入っている平たい餅よ」

片桐が両手の親指と人差し指を合わせてサイズ感を伝える。

「あー……あれか、出てたら買ってくる、でもどうせ冷めるよ?」

「トースターで焼けばいいじゃない」

農家の親戚からもらったもちが冷凍庫にたくさん入っているのを知っていた尚斗は「焼いてあんこつけて食べればいいのに」と思ったが、これも口には出さなかった。視線を手元のメール編集画面に戻す。睦からのメールは日付が変わってすぐに来ていたが、どう返信するかを迷っているうちに十時間が経とうとしている。

 

 雨は少し小降りになってきただろうか。千歳の後ろ、障子と縁側の向こうにある池に落ちる雫の音が弱まっている気がする。二間続きの和室では二十人ほどが宴会の真っ最中だった。この家の主である千歳の兄とその子供、孫、そして千歳の伯母といとこ一家。正午過ぎに始まった宴は午後三時を過ぎても終わる気配がない。兄と一回り違う千歳には四人の甥がおり、すでに皆家庭を持っている。独り身の千歳にとってこの空間は居心地がいいものではなく、毎年気が進まないながらも仕方なく参加している。酒を飲まない千歳は酔っぱらいに付き合うのも面倒で、食事の配膳や片付けなどをしていたが、恐縮する甥の嫁たちから、半ば強制的に座敷に戻されてしまった。どうやら伯母が甥の嫁たちに何かを言ったようだった。

「千歳ちゃんは、ほーんと全然変わらずべっぴんさんねえ。髪も艶々で」

座卓の向こうからその伯母が話しかけてくる。千歳の父の姉である伯母は、嫁いでからもこの家を我が家のように使っていて、在りし日の千歳の母は嫌がっていた。

「そんなことないわよ。それに髪は白髪染めしてるのよ」

千歳が答えると、伯母は何か言ったようだったが子供たちの叫び声がうるさくてよく聞こえない。おそらく「苦労してるからよ」とか「まだ若いんだから」そういうことを言ったようだったが、聞き流すことにした。夏也が居なくなってから何度も伯母には見合いを勧められたので、大体の話の流れがわかっている。特に相手が酔っていればなおさらだ。すると今度は一番年長の甥が隣の座布団に胡坐をかいて話しかけてきた。

「千歳姉ちゃん、親父から聞いたとは思うけど、そういうことだから、うちの店来てもらってもいいし、他の店でもいい、考えといてくれ」

「……そうね、ありがとう」

この甥は本店を継いでいるからか、二十代後半にしてはしっかりしている。千歳からすると弟のような存在だったが、業態転換やフランチャイズなどで着実に成果を上げており、自分にはない経営のセンスを千歳は羨ましくも思っていた。子供のころ、両親と年の離れた兄は千歳のことを溺愛しており、蝶よ花よと何不自由なく育てられた。地元ではそれなりに名の知れた飲食店を複数経営していたこともあって、千歳は中高一貫の私立女子校に通わされ、父親と東京の大学で出会って嫁いできた母は、山手言葉で子育てをした。その親から千歳が譲り受けたのが、Moon riverだった。もとは「皐月二号店」として、本店と同じく和食を出す店だったが、千歳が、というよりは夏也が好きだったアメリカンカントリーの内装に変更して、洋食を出す店にしたのだった。

「兄さんは?」

「親父? 島内さんちに挨拶に行くって、さっき料理詰めて出て行ったけど」

「じゃあ、私はお暇するから、よろしく伝えといて」

「え、ああ、わかった。気を付けてな」

伯母に一言挨拶してから玄関へ向かうと、たたきにずらりと並ぶ靴が目に入った。玄関の外は静閑な空気で覆われていて、敷石を歩くと、寒空の下にブーツの音が響く。門には御影石に『皐月』と刻まれた表札が出ている。駐車場に停めてあった車に乗ると、思わず「ふう」とため息が漏れた。


 いつもはそんなに混んでいないバスも、今夜は臨時ダイヤとなり、満員だった。商店街の最寄りで降りた睦は、友人たちと深夜の買い物を楽しんでいた。睦たちの地元の町に隣接する市には、広く長いアーケード街がある。今夜は祭りのように人が溢れていて、両側に立ち並ぶ店は福袋や特売に集まる客で活気に満ちている。これだけ人がいると、トラブルもつきもので制服姿の警官が巡回していた。睦は普段の行いからして、警察にはいい感情を持っていないため、制服を見るたびに身構える癖がついている。睦自身というよりは、一緒に居る友人たちの方がお世話になることが多く、睦は巻き添えを食うことが多い。アーケード街を二往復したところで、腹が減ったと言い出した友人の希望で、ファミレスに入ることにした。 

二階に上がって角のテーブル席を陣取る。ガラス張りのため、にぎわう街の様子がよく見えた。ドリンクバーで注いできたメロンソーダを飲みながら外を眺めていると、アーケードから少し外れた交差点で、誰かがギターの弾き語りをしている。目を凝らすと、見覚えのある紺のモッズコートに、細長い脚、首にかかるくらいの栗色の毛が見える。睦はそれが尚斗だと思った。携帯を取り出して、写メを撮ろうとするが、ズーム機能が付いていないので、画面越しだと黒い点にしか写らない。友人が注文したポテトを咥えながら試行錯誤するが、うまくいかなかった。

「睦、なに撮ってんの」

「俺のバイト仲間だと思うんだよ、あそこで歌ってんの」

睦が窓の外を指差す。

「え、どれどれ」

友人三人が体を乗り出して窓に張り付いている。皆体格がいいためか、とても目立つ。後ろの席の客も何事かと窓の外をちらちらと見ている。

「おい、ちょっと恥ずかしいからやめろよ」

注意しても聞かないので、睦は空になったグラスを持ってドリンクバーへ向かった。メロンソーダのボタンを押しながら、ふと気づく。尚斗からメールの返信が来ていない。

携帯を開けてメール問い合わせをする。くるくると封筒の絵が回った後、ブブブと振動した。

『あけましておめでとう。初売りって行く? 俺市役所の前の交差点で弾き語りしてるからよかったら聞きに来てよ』

「やっぱりな!」

つい声が出てしまい、隣でコーヒーを注ぐ客を驚かせてしまった。メロンソーダを手に席に戻ると、友人たちが外を見ながら手招きしている。

「なんだよ、どうした」

「なんか結構人気あるっぽい」

窓の外を見ると、さっきよりも十人くらい聴衆が増えている。座り込んで聴く少女や、腕を組んで聞く中年男性、二十代くらいの女性グループが尚斗を取り囲んで耳を澄ましているようだった。

「なあ、これ食ったらちょっと聞きに行かねえ?」

睦の提案を面白いと思ったのか、友人たちは残っていた料理をあっという間に平らげた。

 店を出て交差点へ着くころにはまた数人聴衆が増えていた。睦たちはやや後ろの方に控えめに立って、歌を聴く。尚斗はまっすぐ前を見ているようにも見えて、聴衆一人ひとりを見ているようにも見える。街灯の下では白い息が鮮明に映えて、儚い歌詞の尚斗の歌が形を与えられたようだった。ギターのストロークに合わせて、睦の体も自然と揺れている。数人、また数人と少しずつ聴衆が増え始め、三十人ほどが歩道をふさぎそうになったころ、見るからにガラの悪そうなグループが近づいてきた。睦たちと同じくらいの年齢で、金髪の男と黒髪の男、ギャルが二人。しつこくヤジを飛ばしている。尚斗は無視していたが、金髪の方が前に出てギターを触ったとき、反射的に手で払ってしまった。それに逆上したのか、金髪が尚斗に殴りかかり、黒髪も前に出てギターケースを蹴飛ばす。殴られた尚斗はギターをかばうようにして倒れてしまった。悲鳴を上げながら散らばる聴衆の間をすり抜けた睦が、金髪の頬を思いっきり殴る。続いてきた友人たちも黒髪を殴り、金髪を蹴り飛ばした。周囲は騒然となり、誰かが「警察!」と叫ぶ声が聞こえる。怯えたギャル二人に袖を引っ張られながら、金髪と黒髪が市役所の方に去っていくのを見て、睦は尚斗の方を振り向いた。ギターを抱えてうつ伏せになっていた尚斗がおそるおそる顔を上げると、睦が膝をついて尚斗をのぞき込んでいた。

「あ……れ? 睦?」

「うわ、血出てる」

尚斗は唇と額から出血していた。体は震え、目にはうっすら涙が浮かんでいる。近くにいた少女がハンカチを差し出してくれた。それを睦が尚斗の額に当てる。尚斗はまだ両手でギターを抱え込んだままだ。倒れたときに地面にぶつかったのか、側板に傷がついている。野次馬か聴衆かわからない人だかりも徐々に散開して、街灯の下には睦と尚斗、そしてハンカチを貸してくれた少女だけが残っていた。道路沿いのガードパイプに腰かけて心配そうに二人を見ている。

「病院、行った方がいいんじゃない?」

少女が話しかけると、尚斗はゆっくりと体を起こしながら

「大丈夫、こんな時間だし」

と返事をして少女のハンカチを額から離す。思ったより傷は浅いようだ。睦が背中を支えながら

「明日、念のため病院行った方がいいだろ」

と言うと「そうだね、そうする」と視線を落として笑った。汚れたコートの裾が目に入る。睦が何かに気づいて、尚斗もその方向に視線を向けると、睦の友人たちが市役所の方から戻ってきた。一人が

「二度とちょっかい出せないように懲らしめといた」

と尚斗の肩を叩きながら言う。

「あ、ありがとう」

どんな風に懲らしめたのか気になったが、一応お礼を言った。「おう」と返事が返ってくる。立ち上がると背中に痛みが走った。ケースにギターをしまって肩にかける。

「じゃあ、俺帰るね」

そう言ってから、握っていたハンカチに気づき、少女の姿を探したがいつの間にかいなくなっていた。尚斗がバス停の方へ歩き始めると、睦は友人たちに

「俺一応付き添うわ、またな」

と手を挙げる。友人たちも了承してアーケード街の方へ歩いて行った。尚斗は悪いと思う気持ちもありつつ、睦の親切さがうれしかった。深夜特別ダイヤの時間帯、バス停には誰もおらず、到着したバスにも数人しか乗っていない。尚斗は体をかばうようにして、窓際に座る。隣に置かれたギターケースを睦は持ち上げると、荷物棚に置いて尚斗の隣に座った。バスがゆっくりと走り出す。少し走ると、お祭り騒ぎの喧噪が夢であったかのように、深夜のしっとりとした暗闇に街灯が浮かびあがる。尚斗は窓にもたれかかって、バスの揺れに身を任せていた。

「尚斗の歌、よかったよ」

声の方へ顔を向けると、腕を組んだ睦がまっすぐ前を見ている。大股で座っているので尚斗の膝に足が触れて狭かったが、尚斗は気にならなかった。

「そう? ありがとう。聴きに来てくれると思ってなかったからびっくりした」

睦はメールのことを思い出して尚斗の方を向く。

「そういえば返信してなくてごめん、俺んち電波悪くてメール問い合わせないと引っかかるんだよ」

取ってつけた言い訳のように聞こえたが、実際に睦は自宅に居た日中、数分ごとにメール問い合わせをしていた。家に集まっていた親戚から「携帯ばっかりいじって、さては彼女だろ」とからかわれるまで。

「全然。俺も忙しくて返信遅かったし」

尚斗は右手に持っているハンカチに目をやる。まあまあ血糊がついていて、ポケットに入れるのを躊躇していた。

「これ、洗って返さないと……、いや、新しいの買った方がいいか」

尚斗が言うと、睦が思案しながら

「でも、どこの誰かわからないだろ」

と返す。尚斗はため息をつくと

「そうなんだよな……」

と言って窓の外に目をやった。少し考えていた睦が、

「そうだ、また歌ってたら聴きに来てくれるかも」

と提案すると、隣の尚斗はいつのまにか寝息を立てていた。窓の外ではうっすらと夜が明ける気配があった。

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