なみのうえのみやこ〈3〉

 真赫と白穂が見繕ってきた旅籠は大路を逸れて奥まった区画に建っていた。

 二階建ての高楼たかどので、濃藍の瑠璃瓦と丹色の柱のコントラストが美しい。周辺は大路の喧騒が遠く閑静な雰囲気で、確かに上客向けの商いをしていると知れた。

 屋内は板張りの床に沓のまま上がる大陸風の様式だ。壁が少なく、風が吹き抜けて意外にも涼しい。

 案内されたのは二階の客室だった。広々とした空間を衝立で仕切り、臥所と居間、更に控えの間まで贅沢に用意されている。

 内装はもちろん、異国情緒に富んだ調度品が並んでいた。天蓋とたれぎぬが付いた匣のような寝台、金銀蒔絵で彩られた化粧台、黒光りする木製のつくえと椅子のひと揃い。

 まるで貴人が暮らす御殿のよう。聞けば、王宮に出入りする身分の異人が長期滞在の宿として使っているそうだ。

 私と水沙比古はそれぞれに臥所と居間があてがわれ、真赫は私の客室の控えの間で、黒金と白穂は水沙比古の客室の控えの間で護衛に当たる。舟の上では狭い小屋の片隅で過ごしていたというのに雲泥の差だ。

 黄昏時が近づくと、はしためが手燭を携えて灯りを点けて回る。暮れなずむそらは薄明るい薔薇色に染まっていた。

 居間の窓辺に凭れかかってぽつりぽつりと浮かびはじめた星を数えていると、ぶすくれた顔をした水沙比古がやってきた。

「二の媛、あいつらをどうにかしてくれ」

「あいつら?」

「黒金と白穂だ」

 どうやら、従僕よろしく王子の世話を焼こうとするふたりから逃げてきたらしい。

 旅の汚れを落とした水沙比古は伊玖那見の民族衣装に着替えていた。

 羽織に似た上衣は丈長でゆったりとしていて、紫紺の染めも織りも庶民のものより上等だ。幅広の帯を締め、上衣の裾からは白い筒袴が見え隠れしている。

 かくいう私も真赫に手伝ってもらって湯浴みを済ませていた。

 伊玖那見の高貴な女人はとにかく華美な装いを好むらしく、私が袖を通した上衣は目が覚めるような支子色と紅色で意匠化された草花が全面に描かれている。脚にまとわりつく紗の裳は薄く、なんとも心許ない。

 髪は上半分で双髷を作り、下半分はそのまま流している。きっちり髪を結い上げるのは既婚者の証らしい。

 水沙比古は私と斜めに膝を突き合わせる位置にどっかりと腰を下ろした。「王子王子とたまったものではない。用を足すにもついてくるんだぞ」

 私は思わず声を立てて笑った。

「この国ではそういう身分なのよ、あなたは。慣れるしかないわね」

「……性に合わぬ」

 水沙比古はむっつりとぼやいた。

 いつもは無造作に括っているだけの髪は、きちんと櫛を通して高い位置で結わえている。私が贈った髪紐だけがそのままだ。

「私も最初は戸惑ったわ。幽閉の身とはいえ一国の主の娘に生まれ変わったのよ? 前世は平々凡々な女子高生だったのに」

「じょしこうせい?」

「あー、えっと、『私』の故郷では子どもは学校というところへ行くの。七洲では官吏になるための大学寮があるけれど、その庶民向け……といえばいいのかしら? 年齢に応じた学校に通って、読み書きや計算や……ほかにもいろんな知識や教養を身につけるのよ」

 水沙比古は目を丸くした。

「庶民の子どもが手習いをするのか? 仕事をしなくて稼ぎが足りるのか」

「昔は子どもも働き手だったけれど、『私』が生まれ育った時代には子どもを労働させることは禁じられていたの。子どもは大切な存在で、社会全体で守り育てていくものだという考えが浸透していたのよ」

 少なくとも、当時の『私』は周囲の大人に守られて甘えることを当然だと思っていた。同じ日本にも不幸な子どもがいる事実をニュースで知っても、「かわいそうに」と呟いてすぐに忘れた。

 苦々しい郷愁を噛み潰し、私は片頬を歪めた。

「私は高校という学校に通う学生がくしょうだったの。女子高生というのは、女の学生という意味よ」

「ふうん。……『こうこう』とやらで二の媛は何を学んでいたんだ?」

「そうね……高校はね、いまの私ぐらいの年ごろの子が通うのよ。高校を卒業したら専門的な勉強をする学校へ行ったり、社会人として働いたり……大人として社会に出るための準備をする学校、かしら」

「郷の若衆宿のようなものか」

 七洲の多くの郷では、成年を迎えた男女はそれぞれ若衆宿や娘宿の寄り合いに加わる。そこで仕事を覚え、郷の祭礼やしきたり、いっぱしの男や女のふるまいなど、郷で生きていくための知恵と規範を学ぶのだという。

 水沙比古はげんなりした表情を浮かべた。

「あそこは苦手だ。同じ年ごろのやつは威勢よくつっかかってくるくせに弱い者ばかりで、ぶちのめすと上の連中にどやされる」

「……友達はいなかったの?」

「親父どのの総領孫にはよく連れ回された。総領息子は嫌味な御仁だが、その息子は親父どの以上に変わり者……というか、阿呆だな」

「あ、阿呆?」

 水沙比古は膝の上に頬杖をつき、「うん」とやわらかく相好を崩した。

「底抜けに明るい阿呆だ。だが、嫌いではない。百千魚ももちおという」

「私にとっては母方の従兄弟殿ね。いつかお会いしてみたいわ」

 いちどは目指した母の郷里に思いを馳せると、七洲に置いてきた何もかもが脳裏を駆けめぐった。

 あれから京はどうなった? 神隼は? 和多の氏族は――

 気づけば右手首に嵌めた手環を撫でさすっている。最近、すっかり癖になってしまった。

 指を滑らせると玉の硬さとは違う感触に当たった。つるりとした漆地に点々と咲く螺鈿の花。

 海燕と名乗った商人から渡された手環だ。素直に受け取るには躊躇を感じたが、片割れのまなざしを彷彿とさせる螺鈿の輝きを見ているうちに手放しがたく感じてしまった。

「二の媛」

 水沙比古の声に意識を掬い上げられた。

 はたりと瞬くと、眉根を寄せてこちらを注視している。

「また暗い顔をしているぞ」

「……お祖父様や和多の氏族は大丈夫かと、心配になってしまって」

「親父どののことだから抜かりはないよ。和多の衆だって逞しい連中ばかりだ」

「ええ……そうね」

 励まそうとする水沙比古に頷くが、笑顔は途中で萎んでしまった。

 水沙比古は困った様子で押し黙った。立ち上がって私の前に移動し、衣装にかまわず片膝をつく。

 両手ごと大きなてのひらに包みこまれる。高い体温に自然と安堵感を覚えた。

「まるで異国の公女ひめぎみだな」

「え?」

「宮女の姿も様になっていたが、その格好も似合っている」

 朗らかな表情と声音につられて苦笑がこぼれた。

「ありがとう。あなたもとても似合っているわよ」

「そうか? 着心地は悪くないが、布地が多くて動きづらい。城下で見たような軽装のほうがいいな」

「確かに、市井のひとたちの装いは身軽でいかにも涼しげだったわね。この織物は芭蕉布というそうだけれど……どんな素材から糸を紡ぐのかしら」

 糸繰りだけでなく、織物や染物の工房があれば見学できないだろうか。糸女いとめの端くれとして伊玖那見の染織文化は興味深い。

 しげしげと自分の衣と水沙比古の衣を見比べていると、水沙比古は目を細めた。

「いまの顔だ」

「え?」

「泣いたり塞ぎこんだりするより、好きなものや昔のことを楽しそうに話す二の媛を見ていたい」

 率直な言葉が胸を打った。言われたそばから涙腺がゆるみそうになり、睫毛を伏せる。

「本当は――本当はね。ずっと迷っているの。伊玖那見へ逃げることを選んだのは正しかったのか」

「後悔しているのか?」

 頭を振った。「後悔ではなく、覚悟が足りないの。これから先にあるものを受け容れる覚悟が、まだ」

「うん」

 水沙比古は深く頷き、私の手を包む両手に額を寄せた。

「二の媛の気持ちは、おれもわかる。おれたちは嵐の海をさまよって、ようやく陸地に流れ着いたばかりなんだ。だからいまは、命あるまま海を渡れたことを喜べばいい」

 少年の声はどこまでも真摯で、清い水のごとく染み入った。生きていてくれて嬉しいと、ただそれだけを言祝ぐやさしさに視界が潤む。

「私も、水沙比古が健やかでいてくれて何より嬉しいわ」

 心からほほ笑むと、顔を上げた水沙比古はうろりと視線を泳がせた。

 吊り灯籠のあかりに照らされた眦が朱に染まっている。

「二の媛は……」

「なあに?」

「心臓に悪いことをする。たまに。いや、ちょくちょく」

「えっ!?」

 どういう意味かと尋ねる直前、真赫が顔を出して夕食の支度が調ったことを告げた。

 当然のように水沙比古は私の手を引く。

 真赫の前ではなんとなく質問を口にしづらくて、私は黙ってかれの手を握り返した。

 花の香がくゆる南国の夕べはあまり穏やかで、この静けさが嵐の前なのか後なのか私には見通せなかった。

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