くらやみのふなで〈2〉

 そらが紅く燃えている。

 もはや宮城の大半が炎に呑まれ、凄まじい火勢に垂れこめた暗雲が赫々と照り輝いていた。落日の火に焼かれて世界が燃え落ちようとするような光景だった。

 おうおうと木霊するのは風の唸り声、それとも陰りに潜むものたちの咆哮?

 熱に灼けた目と喉が痛い。

 水沙比古の肩にしがみつきながら、私は婆から教えられた魔除けの呪詞を唱え続けていた。

 婆が死んだことで完全に制御を失った陰りに潜むものは、私たちをも獲物と認識した。糸を撚り合わせて頑丈な縄を編むイメージで呪詞を重ねていくと簡易的な結界となり、襲いかかる異形を弾き飛ばす。

 私を担いだ水沙比古を三人の伊玖那見人が取り囲み、炎の中をひた走る。先頭を黒金、水沙比古の左右を真赫と白穂が固めている。

 内朝を抜けて外朝に出ると、いよいよ混乱は凄まじかった。

 火事の最中、大皇と皇太子の不在が発覚したらしく、探し回る宮人の叫び声が聞こえてくる。

 ……神隼。異母弟は無事だろうか?

 明星と奼祁流は言っていた。あの子を大事な手駒だと。

 いますぐ命を奪われることはないだろう。しかし、その先の保証はない。

 次代の大皇である神隼は皇そのものだ。異母弟が死ねば皇統は断たれ、この国の玉座は空になる。

 皇位継承からほど遠い傍系皇族、あるいは有力な豪族の中には皇に取って代わろうと野心を抱いている者もいるはずだ。

 王権が揺らげば内乱が起こる。戦火が国土を焼き、力なき蒼生ひとびとが家も田畑も命も奪われる。

 この煉獄が七洲くにじゅうに拡がってしまう。

「だめよ」

 カラカラに掠れきった声は風にさらわれた。

 そんな未来は、絶対にだめだ。

 巨大な鼓を打つような音を響かせ、炎に包まれた殿舎が崩落する。

「止まれ!」

 荒々しい制止に水沙比古が立ち止まった。反動で体がガクンと揺れる。

「おまえたち、どこの所属の者だ? いますぐ持ち場へ戻って、消火と負傷者の救助に当たれ」

 振り返ると、武官とおぼしき男たちが五人ばかり行く手を遮って立ち塞がっていた。

 伊玖那見人たちは無言で得物をかまえた。腰に回った水沙比古の腕に力がこもる。

 武官のひとりが眉をひそめた。「……なぜ答えない?」

 矢羽根が空を切り裂く音がした。

 尋ねた武官の肩に一本の矢が突き刺さっていた。武官は両目を見開くと、よろよろと後退った。

 白穂が矢を放ったのだ。

「貴様ら……!」

 武官たちが気色ばんで剣を抜く。

 白穂が流れるような動作で再び弓を引き、二本目の矢を別の武官の右腕に命中させた。

 鏃に右腕を貫かれた武官は、呻き声を洩らして剣を取り落とした。

「曲者、曲者だぁ!」

「出合え出合え! 残らず捕縛しろ!」

 たちまち戦闘が始まった。

 伊玖那見人たちは目を瞠るほど強かった。膂力を誇る黒金が長槍を振るい、数人をまとめて薙ぎ払う。真赫は剣舞のような速さで武官たちを翻弄し、ひとりずつ地面に沈めていく。

 武官たちが残らず倒れるまで時間はかからなかった。

 私は固唾を呑んで水沙比古に縋りついていたが、武官たちが命まで取られていないことに気づいて脱力した。

「急いでここを離れましょう。応援が駆けつけたら厄介です」

 剣を手にしたままの真赫が険しい口調で告げた。

 悪い予感とは当たってしまうもので、立て続けに武官や衛士の集団と遭遇した。

「逃がすな!」

「そいつらが火をつけたんだ、捕まえろ!」

 いつの間にか私たちが放火の下手人という認識になってしまっている。弁解している余裕などあるはずもなく、力ずくで逃げ道を切り開く。

「このッ!」

 黒金と真赫の隙を衝いた武官がこちらに向かって手を伸ばした。私を担いでいる水沙比古なら動きが鈍いと判断したのだ。

 真赫が焦った顔で武官を追いかける。

 武官の手が私の髪を掴もうとした刹那、水沙比古は私を懐へ抱き寄せて強烈な蹴りを相手の鳩尾に食らわせた。

「ぐぁッ」

 武官が仰け反って体勢を崩した。水沙比古の片手が長剣を引き抜き、紫電を閃かせる。

 迷いのない太刀筋で、少年の振るった刃が武官の腕を斬り飛ばした。

 武官は悲鳴を上げ、肘から先を失った腕を押さえて転げ回る。

 私は呆然と水沙比古の横顔を凝視した。血飛沫が褐色の頬を濡らしても眉ひとつ動かさない護り手を。

 火の色を帯びた銀碧の双眸は凍えそうだった。

「おのれェ!」

 仲間を傷つけられて激昂した別の武官が怒鳴りながら斬りかかってくる。水沙比古はするりと刃を躱し、全身を発条ばねのようにしならせて死角から反撃を放った。

 脇腹から胸まで斜めに斬りつけられた武官が倒れ伏す。水沙比古の足元に血溜まりが広がり、袴の裾まで湿らせる。

 ――二の媛が望むなら。

 ――そうしなければあんたを守れないのだとしたら、ためらわない。おれは。

 水沙比古の台詞がよみがえる。言葉どおり、かれの刃に躊躇は一切なかった。

 私を守るためだ。

 水沙比古は私の剣だ。かれが振るう力はわたしのもの。かれが流した血は罪過となって私の両手を染める。

 私は、水沙比古の主人なのだから。

 怖くても目を逸らしてはいけない。何ひとつ取りこぼさず、この無力な両眼に焼きつけなければならない。

 いまは逃げることしかできない、それでも夕星わたしは皇の娘だ。

「媛様、王子! こちらです!」

 黒金が声を張り上げる。戦闘を重ねながら移動を続けた私たちは厩舎にたどり着いた。

 陰りに潜むものによる被害は少ないようだが、つながれたままの馬たちはすっかり怯えて興奮しきっていた。

 いまにも馬房から飛びだしそうな馬をなんとか落ち着かせ、まともに走れそうなものを四頭見繕う。真赫は一頭の青毛の手綱を水沙比古に渡した。

「王子、乗馬のご経験は?」

「頼むから水沙比古と呼んでくれ。……荷車を引く駄馬の世話ならしたことはあるぞ」

「それでは、手綱は媛様がお願いします」

「えっ!?」

 仰天する私に、真赫は至って真面目な表情で続けた。

「巫者や呪師は鳥獣を従える技を持つといいます。媛様ほどの異能をお持ちであれば、馬を手懐けることなど容易なはずです」

「そ、そんな」

 私は単なる陰視に過ぎない――と反論しようとして、ぶるる、と青毛の鼻息に遮られた。

 軍馬らしく立派な体躯をした青毛は、気忙しく足踏みしながら私の顔を覗きこんできた。豊かな睫毛にふちどられた黒い眼に吸い寄せられる。

 一瞬、私を取り巻くすべてが遠ざかり、青毛のまなざしが眼窩に嵌めこまれたような錯覚を抱いた。青毛の視点が私の視点に、私の視点が青毛の視点に、入れ替わって同化する。

 私の双眸からこぼれ落ちる帝王玉インペリアル・トパーズのような揺らめきに、恐怖と混乱がとろりと融解する。私は青毛の鼻面にてのひらを寄せると、この大きな生き物を掌握したことに気づいた。

「いいこ、いいこね。私たちを、ここから連れだしてくれる?」

 青毛はにたび鼻を鳴らし、甘えるように私の手にすり寄った。

 真赫がほうと吐息を洩らし、「お見事です」と呟いた。

「二の媛、両目が」

 水沙比古が困惑しながら指摘する。私にはとっさに目を伏せた。

 だけだったはずの目がことで特異な力を発揮するようになったらしい。明星に投げつけられた邪眼という単語が脳裏をよぎった。

「水沙比古、馬に乗るのを手伝ってくれる? あなたは後ろに座って体を支えてちょうだい」

 聞こえなかったふりをして頼むと、水沙比古は眉をひそめつつ追及しないでくれた。

「……ああ。わかった」

 水沙比古の肩を借りて青毛の背に跨がった。

 乗馬の経験なんて、前世の幼少期にふれあい牧場でポニーに乗った程度だ。目線の高さと軍馬の巨躯に恐怖を覚えたが、背中を包みこむ温かさに励まされる。

「本当に大丈夫か?」

 手綱を持つ手に水沙比古のてのひらが添えられた。

 私は息を吸いこんで頷いた。

「なんとかやってみるわ」

「落ちないように支えているから、思いっきり走らせていいぞ」

 水沙比古の片腕が腹に巻きつき、かれの体にぴったり引き寄せらる。舟乗りの優れた体幹と平衡感覚は、はじめての乗馬でもびくともしない。

「全速力で宮城を抜けます。媛様、しっかりついてきてください!」

 真赫の言葉に手綱を握りしめた。力いっぱい引いて腹を蹴ると、青毛が高く嘶いた。

 四頭の馬は炎の只中へ走りだした。

 体が上下に揺れ、風景が飛ぶように流れていく。お尻が浮き上がるたび地面へ放りだされそうだ。

 私は泣きそうになりながら、必死に青毛にしがみついた。

 不安定な体を水沙比古がしっかりと抱えこみ、青毛の動きに合わせて姿勢を調整してくれる。私は先ほどのかれの台詞を反芻し、ひたすら青毛を駆った。

 ――ずっと夢見てきた。

 自由になって光を浴びることを。日陰者の夕星ではなく、明星の隣に並んで日向を歩く権利を。

 いつの間にか涙が溢れだした。

 私の明星。私の片割れ、私の片翼。

 あなたを止めることがあなたを殺すことと同義だというのなら、ほかのだれでもなく私があなたを殺す。愛しているから、ほかのだれにもあなたを殺させない。

 私たちのために、もはや朝陽は昇らないのだから。

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