くらやみのふなで〈3〉
湊に着いたときには日没をとうに過ぎていた。
盆地である京から沿岸部へ抜けるためには山道を通らなければならない。舗装などされているはずもない険しい道程を馬で駆け詰めに駆け、休む間もなく舟に乗りこんだ。
七洲のどの湊にも、必ず和多水軍の舟が停泊している。これから西回りで伊玖那見へ渡るという舟を運よく見つけ、水沙比古が
いかにも屈強な海の男という壮年の舟長は、水沙比古の後ろで縮こまる私を見つけると恭しく頭を垂れた。
「氏長から和多のすべての舟乗りにお達しがありました。氏長の養い子である水沙比古殿とお連れの方を必ず伊玖那見にお送りするように、と」
「親父どのが?」
「和多の白珠、儂らの媛様を大皇に奪われた屈辱を忘れた日はありません。媛様の御子をお守りできるなんて、和多の舟乗りの誉れです」
浅黒い顔を綻ばせる舟長のまなざしは、かつて白珠媛に命を救われたと語っていた婆を彷彿とさせた。
先を急ぐ私たちのため、舟長は出航の予定を繰り上げてくれた。闇に紛れ、一隻の舟が夜更けの湊から沖へ漕ぎ出でる。
この世界の船舶は、木材で造られた細長い舟に手漕ぎの櫓と筵や竹を編んだものでできた帆がついている。舟には乗員が休むための小屋が設けられており、私と水沙比古はその中へ案内された。
「さぞお疲れでしょう。明日には最初の寄港地に着くそうですから、それまでお休みになられてください」
労りがこもった真赫の声に、津波のように疲労感が押し寄せてきた。へなへなと座りこむと、水沙比古が慌てて背中を支えてくれる。
「大丈夫か、二の媛」
案じる問いかけに返事をするのも億劫で、私は無言で首を横に振った。
全身のあちこちが痛み、発熱しているときに似た怠さがまとわりついている。とにかく横になりたかった。
水沙比古は慎重な手つきで私を抱き上げると、小屋の隅にしつらえた寝床まで運んでくれた。衾代わりの筵にくるまると、私の意識は泥のような眠りに沈んだ。
――夢を見た。
天から降り注ぐ乾留液のごとき闇がどろりと広がって、どこまでも
見渡す限りの黒い闇。幽かな月あかりを頼りに進むにはあまりに危うく、櫓もない小舟に乗った私はひとり波間を漂っていた。
湊のあかりは遠く消え、月も星も暗雲に塗り潰されてしまった。婆も水沙比古もいない、無力な私だけが運命という潮流のまま漂泊している。
どこへ行けばいいのだろう。
黄昏の天からこぼれ落ちてしまった
振り返ると、闇の波間に炎が見えた。業火の底で燃えているのは――京だ。
――だめよ!
叫びは闇を震わせた。
海が激しく波立ち、風が雲を押し流す。細く射しこんだ月あかりが白い小径のように伸びていく。
海鳥の鳴き声が雲間から響いた。
光の小径を鳥影が飛んでいく。羽ばたきが向かう先には、黒い荒海の上に佇むひとがいた。
夜目にも鮮やかな異邦の衣が潮風にそよいでいる。まるで明るい陽射しの下で咲き誇るべき南国の花が夜の海に迷いこんだようにちぐはぐだ。
長髪は登頂部あたりのいちぶぶんで丸い髷を作り、あとは背に流している。髷に挿した金鈿から垂れた雫型の鎖が涼やかな音を立てる。
ゆったりとした上衣と太い腰帯、軽やかな紗の裳。華やかな染色が施された装束もまた、金や宝玉を連ねた首飾りや手環で飾られていた。
髪型や装いは異邦の女人だ。だが上背のある精悍な体つきは、私の見慣れたシルエットだった。
――水沙比古?
戸惑いながら呼びかけると、かれは気怠げな仕草で振り向いた。
痺れるような衝撃とともに、翠緑に金砂が散る双眸が私を射抜いた。
強く風が吹きつけ、白茶けた長髪が靡く。
金鈿の垂れ飾りが、素足の足首に巻かれた細い金の環がシャラシャラと鳴った。
警戒する猫のように瞬いたかれは、ゆっくりとほほ笑んだ。
潮流がうねり、因果の糸が抗いがたい力で手繰り寄せられる。かれの手がこちらへ伸びて――
大きな揺れと舟の軋みに夢が弾け飛んだ。
一気に覚醒した意識が現状に追いつかない。筵の中で硬直していると、潮の香りに油の匂いがまじる。
「二の媛? 目が覚めたのか?」
手燭のささやかな灯りを掲げて顔を覗きこんできたのは水沙比古だった。
小屋の中は真っ暗で、打ちつける波音が低く響いていた。私と水沙比古以外は甲板に出ているのか、だれの姿も見当たらない。
「いま……」
「うん?」
「いまは、夜半?」
「もうすぐ夜明けだ。気を遣って、真赫たちは小屋の外に待機している」
横たわる私の傍らに腰を下ろした水沙比古は、「腹は空かないか?」と尋ねてきた。
「……水が欲しい」
私の訴えに、水沙比古は片隅に置かれた水瓶から土器に水を掬って持ってきてくれた。
「ほら」
水沙比古が土器を傾ける。頭をもたげてふちに口をつけ、少量の水をすすって渇きを潤した。
「ありがとう」
「もういいのか?」
心配そうな少年に頷き返し、重い頭を筵の上に戻した。
「体調はどうだ。痛いところはないか、どこか」
「全身が筋肉痛よ……特に太もも。内側が擦り剥けているのかも」
水沙比古は間が悪い顔をした。
「ああ、うん。湊まで駆け通しだったからな。あとで真赫に軟膏か何か頼んでおくよ」
ぽふりと大きな手が頭に乗り、輪郭に沿って撫でられる。
私は火あかりがちらちらと揺れる銀碧の双眸を見上げた。
「水沙比古は……だいじょうぶ?」
頭を撫でる手が止まった。
水沙比古の表情が硬くなり、眉根が歪む。
「おれにもきょうだいがいるそうだ」
「え?」
「真赫たちを遣わした伊玖那見の稚神女だよ。おれと同母の妹らしい」
大神女は老齢のためにここ数年表に出てくることが少なく、世継ぎである稚神女が政務を代行しているという。水沙比古の母君はすでに他界しているそうだ。
「自分に同じ親から生まれた妹がいるなんて考えたこともなかった。おれは、親父どのの倅で、和多の舟乗りで……それでじゅうぶんなのに」
水沙比古の吐息が火あかりを震わせた。
「真赫が言うには、おれ――卑流児王子は稚神女と仲睦まじい兄妹だったそうだ。七つのとき、藩王家に凶事が起こって穢れを祓うために王子は供犠として海に流された。七洲で生きていることがわかってから、ずっと王子の帰還を心待ちにしていると」
「水沙比古は……妹に会いたい?」
私の質問に、水沙比古は黙りこんだ。
波音が暗がりを揺り籠のように揺らす。水沙比古は前髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。
「怖い」
吐露する声はいつになく幼く、頼りなく聞こえた。
「おれが憶えていない昔のおれを知っているやつに会ったら、いまのおれではいられなくなりそうだ。おれは、和多の水沙比古のままでいたらだめなのか?」
銀碧の瞳が私を映す。途方に暮れて助けを求めるまなざしに自然と手が伸びていた。
水沙比古の手を取り、力の入らない両手で包みこむ。骨張った手首には舟乗りの護符が変わらず巻かれていた。
「私は、水沙比古が水沙比古のままでいることがいけないとは思わないわ」
「……親父どのは、卑流児王子としておれを伊玖那見の連中に託したのに?」
「お祖父様や真赫たちの思惑は関係ない。大事なのは、あなたの気持ちよ」
水沙比古は生きたいという私の思いを否定しなかった。私もまた、かれの心を尊重したい。
「婆も言っていたわ、何者であるのか最後に決めるのは己だと。あなたが水沙比古でありたいと望むのなら、それが答えではないかしら」
「おれは……親父どのの倅で、和多の舟乗りで……二の媛の従者でいいのか?」
「あなたが、そう思ってくれるのなら」
水沙比古の手が小さく震え、ギュッと握り返してきた。
「二の媛を離さないと約束したな」
「うん」
「おれも離さないでいてくれないか。手をつないでいてほしい、二の媛に」
絶え間ない波音を聞いているうちに、まるでふたりぼっちで夜の海を漂流しているような錯覚に陥った。
心細さは変わらない。けれど、夢の中よりも穏やかな気持ちで現状を受け止められた。
「約束するわ」
水沙比古は安堵したように頬をゆるめた。
そのまま私と向かい合う形でごろりと横になる。片腕を枕にして、もう片方の手で筵をしっかりと掛け直してくれた。
「さすがに疲れた。おれもここで寝ていいか?」
「いいけれど……あまり寝心地はよくないわよ」
水沙比古は声を立てて笑った。
「舟乗りだぞ、おれは。陸よりも海で揺られながら見た夢の数のほうが多い」
筵の上からやさしく背中を叩かれる。水沙比古は私よりもひとつ年下だと発覚したが、まるで年長の兄が妹を寝かしつけようとする仕草だ。
卑流児と呼ばれた男の子も、かつて妹の隣で眠った夜があるのだろうか。
私はいちども明星に「おやすみ」と告げたことがない。眠れないあの子に寄り添うことも、おそろしい悪夢を分かち合うこともできないまま離ればなれになってしまった。
滲みかけた涙を瞼の下に隠して、私は水沙比古の懐に潜りこんだ。
「おやすみ、二の媛」
「……おやすみなさい」
闇に波音が木霊する。
夜明けを待ちわびるからこそ暁降ちがいっとう冥い。ともに朝を迎えたかった片割れを失って、私は思い知らされた。
こうして、私と水沙比古の彷徨がはじまった。
第二部 南海彷徨編に続く
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