七 冥闇の舟出
くらやみのふなで〈1〉
宮城は地獄絵図と化していた。
陰りに潜むものの集合体が上空で渦巻き、
地表に落ちた闇は、鳥にも獣にも魚にも蟲にも見える異形となって牙を剥き、逃げ遅れた宮人の断末魔と血肉をすする音を響かせた。
連なる屋根瓦の上、いくつもの黒煙と赤銅色の炎が揺らめいている。煤と火の粉を巻き上げ、風が木材の焼ける臭いを運んできた。
杣の宮にたどり着くまで、私は水沙比古の腕の中で震えていることしかできなかった。
「媛様、よくご無事で!」
水沙比古に抱えられたまま宮の中へ飛びこむと、いつもと様子が違う真赫が待ちかまえていた。
見慣れた下級宮女の装束ではなく、水沙比古と同じ麻織りの短袖と袴を纏い、更に鞣し革の胸甲を装着している。赤銅色の髪を後れ毛残さず結い上げ、腰には水沙比古のものより短い剣を帯びた姿は、さながら名うての
「ま、真赫? その格好は……」
「詳しい話はあとにしてください。とにかく時間が惜しいんです!」
真赫に急き立てられて汚れを落とし、麻織りの短袖と袴に着替える。生乾きの髪はうなじで束ね、輪を作って括った。
外の騒ぎとは裏腹に、森は不気味なほど静かだった。葉擦れひとつ聞こえない。
――陰りに潜むものの気配が消えている。
「おお、媛様。ようお戻りになられましたな」
異変に戸惑っていると、黒金と白穂を伴って婆が現れた。
男たちもまた、麻の衣と鞣し革の胸甲を身に着けていた。黒金は長槍を携え、白穂は矢筒を背負い弓を手にしている。
私は婆の出で立ちに言葉を失った。
染めていない真っ白な袍と裳。霜が降りた髪は丁寧に梳られ、眦にはまじないの紅を差している。
――七洲において、白は喪の色だ。
「婆……」
立ち尽くす私の前までやってくると、婆はしわくちゃの顔を更に皺だらけにして笑った。
年老いて節々が固くなった両手が私のそれを握る。慈しみに溢れた仕草だけで、私は婆が暇乞いを告げようとしていることに気づいた。
「つらい、悲しいことがありましたかえ」
「……あったわ。信じられないくらい、いつか醒める夢ならよかったと思うほど」
婆は首を横に振った。
「現はけして醒めぬ夢。心を強くお持ちなされ。虞れることなく眼を開けば、進むべき道が必ずや見えてくるはずです」
私は崩れるように膝をつくと、育て親の両手に縋りついた。
「婆、婆。どうして結界を? 陰りに潜むものが大群になって押し寄せて……宮中は血と火の海だわ」
「こうするほかなかったのでごぜぇます。媛様と水沙比古殿を無事に逃がすには」
婆の視線が私の背後に立つ水沙比古へ向けられた。
振り返ると、かれは強張った表情で婆を凝視している。
「逃がすって……和多の郷へ?」
「いいえ。伊玖那見にでごぜぇます」
婆の言葉に、真赫、黒金、白穂の三人がきびきびとした動作で片膝をついた。
「この者たちがおふたりを伊玖那見までお守りします。京からいちばん近い湊から南へ向かいなされ」
「ま、待って。どうして伊玖那見が出てくるの? それに、真赫たちはいったい――」
私の質問に答えたのは真赫だった。
「われらは伊玖那見にて、藩王家にお仕えする者にございます。摂政にして世子たる
「卑流児……王子?」
真赫が重々しく頷いた。
「水沙比古様の本来の御名です。大神女のご息女であらせれた
「おれは何も憶えていない」
水沙比古は早口にまくし立てた。
「そんな名前は知らない。伊玖那見で暮らした記憶なんて、これっぽっちもありはしない」
「承知しております。……八年前、卑流児王子は穢れを祓う儀式で供犠として海へと流されました」
ぎくりと心臓がいやな音を立てた。
水沙比古が口を引き結ぶ。真赫は少年の顔を見つめ、「当初、王子は供犠のお役目を果たされ、常夜大君の御許へ召されたと思われていました」と続けた。
「しかし、常夜大君からの神託により、記憶を失いながらも隣国の七洲で生きておられること、いずれ貴きお方を伴われて国へ戻られることが判明いたしました」
「貴きお方だと?」
「夕星媛にございます。媛の母君、白珠媛は伊玖那見の神女のお血筋。そして白珠媛の母君は、大神女の姉君であらせられた
私と水沙比古は顔を見合わせた。
真赫の説明を信じるなら、私たちは互いの祖母が姉妹同士の再従姉弟ということになる。
水沙比古はぐしゃぐしゃと髪を掻き乱した。
「おれは和多の水沙比古だ。どこの生まれだろうと関係ない」
「あなたは間違いなく伊玖那見の卑流児王子なのです。和多の氏長はそれを承知の上であなたを保護され、われわれにお力添えくださいました」
「……親父どのは、おれの正体を知っていたのか?」
こぼれ落ちそうなほど両目を見開き、水沙比古は声を震わせた
「お召し物から伊玖那見の王族だとわかったそうです。しかし、香彌王女のように事情があって国を追われたのだとしたら、伊玖那見に帰れば助かった命も危うくなるかもしれない。そう判断され、養い子として保護したと」
「なら、なぜいまごろになって来た!?」
「藩王家の信書をお送りしたからです。常夜大君の神託により、卑流児王子と夕星媛を伊玖那見にお迎えしたいと。伊玖那見にいらっしゃる限り、藩王家の庇護をお約束すると申し上げました」
祖父は藩王家の申し出を受け容れた。私を宮城から逃がし、水沙比古とともに大皇の手が及ばない伊玖那見へ亡命させる計画を企てたのだ。
藩王家から遣わされた真赫たち三人は、祖父の協力を得て宮中に潜りこんだ。いつか伊玖那見へ旅立つ日まで、大皇に気づかれぬよう私の身辺を守るために。
「婆も最初から知っていたの?」
思わず責める口調になると、婆は紅に彩られた双眸を細めた。
「媛様を取り上げたとき、この御子は天命を負ってお生まれになったのだと直感しました。果たすべきお役目があり、それを助ける護り手がいつか現れる。媛様を護り手に託す日まで健やかにお育て申し上げる――それが己の使命であると。媛様のご出自を知ったのは、真赫たちに会うてからにごぜぇます」
「私の運命は、伊玖那見にあるの?」
「老いた眼にそこまでは視えませなんだ。いっとう明るく輝く宵星の周りは暗らかなように。けれども、このまま宮中で消える光ではございませぬ」
婆は翡翠の手環をそっと撫でた。
「伊玖那見へ行かれませ、媛様。露払いはこの婆めがお引き受けいたしまする」
「婆は……婆はどうするの。いっしょに来てはくれないの?」
答えなどわかりきっていた。それでも問わずにはいられなかった。
婆は柔くほほ笑み、首を横に振った。
「宮城の守りをほどいた咎は贖わねばなりませぬ」
ひくりと喉が震えた。私は婆の膝に突っ伏した。
「いやよ、いや……お願い、死なないで……」
婆は死ぬつもりなのだ、罪人として。彼女は私を逃がすために、皇に仕える呪師でありながら皇を守る結界を破壊した。
絶望に胸が潰れそうだった。苦しくて喘ぎながらすすり泣くと、背中に温かいてのひらが添えられた。
確かめずともわかる、水沙比古の手の大きさだった。
「水沙比古殿」
「そう呼んでくれるのか。婆さまは」
「己が何者であるのかを定義するのは、結局のところ己自身でごぜぇます」
婆はやさしく諭すように告げた。
「ですが、そのためには己が何者であるのか知らねばなりませぬ。ご自身の目で確かめ、心の声に耳を澄ましてみなされ」
「何者かもわからないおれに、二の媛を託せるのか」
「何者でなくとも、あなた様はちゃあんと約束を守る気持ちのよい御子じゃ。大事なものを見誤ることはありますまい」
水沙比古の手が私の肩を抱いた。ぐっと指の関節に力が入る。
「……うん。うん、わかっている。それだけは迷わない」
「媛様をよろしく頼みます」
傍らに水沙比古が膝をついた。二の媛、と肩を揺すられる。
「行こう、伊玖那見に」
「いやよ」
「二の媛」
「いやったらいや! そんなに行きたいなら水沙比古だけ行けばいい!」
「あんたが動かないなら、おれもここで死ぬぞ!」
怒声が空気を震わせる。頬を平手打ちされたような衝撃だった。
「おれは二の媛の従者だ。主が残るなら、おれも宮中に残る。そして死ぬ」
「……どうして」
「このまま宮中に留まれば、二の媛は大皇殺しの重罪人だ。最悪、この騒ぎの責任も押しつけられて処刑される」
私はのろのろと顔を上げた。水沙比古はぐうっと眉根を寄せた。
「ごめん。おれが悪い。阿倶流たちの正体を見抜けなかった」
「違う……あなたはただ、私の願いを叶えようとしてくれただけよ」
少年の指先が涙で濡れた頬を拭う。
銀碧の瞳が凪いだ海のように私を映していた。
「行こう、二の媛。このまま終わってはいけない。次の手を考えよう、生き延びて」
私は洟をすすり上げて頷いた。
婆の手にいちどだけ強く力がこもった。そしてするりと離れていく。
「どうぞ、息災で」
もはや引き留められないことを思い知り、私は別れの言葉を見失った。
婆と過ごしてきた月日の断片が翻り、吹き散らされる。
四歳の夕星として異世界に放りだされた私を導き、見守り続けてくれたひとだった。夜の海を彷徨する鯨に絶えず降り注ぐ月あかりのように。
私は愚かで浅はかな子どもだ。
血のつながりなどなくても、命を懸けて愛してくれるひとはずっとそばにいたのに。
「――」
何も言えない私に、婆はくしゃりと笑み崩れた。
「媛様、王子。急ぎましょう」
真赫に促され、水沙比古が私の腕を掴んで立ち上がった。
三人の伊玖那見人が一礼すると、婆は厳かな巫女の顔つきで告げた。
「あなた方の道行きに、闇の帳のご慈悲があらんことを」
婆を残して宮を出る。「婆、婆」と泣き叫んで進めずにいると、有無を言わさず肩に担ぎ上げられた。
「水沙比古……っ」
背中を叩くと、水沙比古は呻くように声を押しだした。
「後ろを見るな」
「どうして――」
「別れがつらくなるだけだ」
私はハッと息を呑んだ。
首筋の産毛がチリチリと逆立つ。森の霊気がざわめき、宮に向かって収斂する。
――ぷつん、と。
糸が、切れた。
森の闇が強烈な光に薙ぎ払われた。
光源は宮の内部から噴き上がった火柱だった。
赤銅色の炎が屋根を食い破り、簾や蔀戸を吹き飛ばして燃え盛る。小さな古宮は轟音を立てて崩れはじめた。
炎は樹々に燃え移り、みるみる森じゅうに広がっていく。私の鳥籠、不自由の象徴であった闇が――失われる。
暗く忌まわしく、温かく慕わしい私の杣の宮。跡形もなく焼き尽くされて、この世から消えてしまう。
言葉は形になる前に端から潰れていった。
喉をこじ開けて、獣の仔のような慟哭が迸った。
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