ほむらのうたげ〈3〉
背後で神隼がすすり泣いている。
私はいまにも崩れ落ちそうな両脚でぐっと踏ん張った。床に膝をつけば、幼い異母弟の目に惨たらしい父親の死体を再び晒すことになる。
軋むほど噛みしめた奥歯が痛い。凄まじい虚脱感のあとに湧いてきたのは怒りだった。
明星を睨みつけると、叩きつけた感情が火花になって散った。短い悲鳴を上げる。
「夕星……!?」
「明星――あなたは――あなたというひとは、なんて愚かなことを!」
明星が両目を瞠る。血まみれの面が心外だと言わんばかりに歪んだ。
「愚かですって?」
「ええ、そうよ。なぜ大皇を殺したの。よりにもよって、あなたの手で!」
大皇の所業を豪族たちに向けて糾弾し、皇位から引きずり下ろした上で裁きを与えるのとは訳が違う。未だ至尊の玉座に就く男を、皇太子でもないただの皇女が弑したのだ。
「許されるはずがないわ、こんなこと。皇籍を剥奪され、即刻死罪となる。それどころか、姻戚である和多の氏族も連座して根絶やしにされかねないのよ!?」
「ああ……そうね。あなたの大事な従者にも類が及ぶかもしれないわね」
明星は気怠げに髪を掻き上げると、冷ややかにほほ笑んだ。
「でも、わたくしには関わりのないことよ。和多の氏族が、お祖父様がどうなろうと……いいえ。むしろ滅んでくれたほうがせいせいするわ」
「なっ……」
「だって、お祖父様はわたくしに手を差しのべてはくださらなかった。守ろうともしてくださらなかった!」
紫色の双眸が一瞬で燃え上がった。
虚を衝かれた隙に距離を詰められ、ぬらぬらと血に濡れた手で胸倉を掴まれる。
「いつも、いつもいつもいつも! わたくしの欲しいものはぜんぶあなたに与えられる! 自由も、味方も、特別な力も!」
「特別……?」
「奼祁流が教えてくれたわ。わたくしたちのお祖母様――白珠媛を産んだ伊玖那見の神女。あなたの『鵺の眼』は、お祖父様が愛し、お母様が待ち望んだ神女の瞳だと」
明星の視線が右手首に注がれる。私はとっさに翡翠の手環を袖で隠した。
おおよそ思いもつかない仕草で、明星は嘲笑するように声を立てた。
「ねえ夕星。お祖父様はね、あなたを手元に引き取りたいと、ずっとお父様に訴えていたのよ」
「なんですって?」
「宮中で呪い子と忌まれるのであれば、皇女の地位を返上させ、皇といっさい関わりのない氏族の娘として育てるとおっしゃって。お父様は、お祖父様への嫌がらせで嘆願を握り潰していたけれどね」
私は呆然と呟いた。「そんなの……知らないわ」
「それはそうよ。だって教えなかったもの」
くすくすと笑いながら、明星は私の頬を撫でた。
べったりと血がこびりつく感触に怖気が走る。
「知らなければ、わたくしと同じ絶望の底にずっといてくれるでしょう?」
まるで甘い蜜のような憎悪が耳の穴から流しこまれる。明星の指先が頤から首筋へとたどっていく。
男であれば喉仏がある部分に親指の腹がかかった。ぐぐっと圧迫され、たまらず払いのける。
明星はあっさりと手を離した。
「どうして、明星。私は……今度こそあなたを助けたかったのに」
「そう。でも、もういいの」
白けた表情で呟き、笄を投げ捨てた。欠けた珊瑚の花が私の足元に転がる。
「お父様ともあなたとも今日でお別れ。せいせいするわ」
「お別れ?」
「大皇殺しの皇女は
私は絶句した。
明星は可憐な仕草で首を傾げてみせると、ほっそりとした指を口元に添えた。
「杣の宮の皇女が邪眼を使って大皇を惑わし、わたくしに罪を着せるためにこの宮におびきだして殺した――という筋書きよ。わたくしもあなたの邪眼に魅入られ、操られてしまったの」
芝居のあらすじでも読み上げるような口ぶりだった。信じられなくて……信じたくなくて、尋ねる声は震えてしまった。
「最初から、私を陥れるつもりだったの?」
片割れはやわらかな笑みを浮かべた。私の結い髪から笄を抜き取ると、「交換しましょう」と目を細める。
「夕星だってお父様を殺すつもりだったのでしょう? その汚れてしまった笄をあげるわ。欠けたところのない、清らかな珊瑚の花はわたくしのもの」
満足そうに赤い花の飾りに口づけ、明星はくすくすと喉を鳴らした。
「明星姉上!」
神隼が涙まじりに批難の声を上げる。
「どうしてですか、姉上。どうしてこんなひどいことを!?」
「嫌いだからよ。夕星も、あなたも」
明星はぴしゃりと言い捨てた。神隼の青白い顔がくしゃくしゃと潰れていく。
「安心していいわよ、神隼。お父様亡きいま、あなたは大事な皇太子。殺さないで上手に使ってあげるわ」
「明星!」
思わず怒鳴ると、神隼を軽々と抱えた奼祁流が明星の隣まで移動した。
「騒ぐなよ。弟宮のかわいいお顔まで傷物にしたくないだろう?」
奼祁流はこれみよがしに神隼の顎を片手で鷲掴み、長い指で頬を撫でている。
「卑怯者っ! すぐに神隼から離れなさい!」
「事が済んだら解放してやるさ。あなたが従順でいてくれれば、な」
紅いくちびるが嗤いながら命じる。「さあ、媛の前で跪け。大皇殺しの下手人として」
私は爪が皮膚を食い破るほど拳を握り、片割れの前で膝をついた。
すると、奼祁流が甲高く口笛を鳴らした。
ハッと息を呑む。駿馬の群れとともに夢に現れた双子の男の子が吹いていた口笛の音だ。
簾のむこうで空気が動いた。縁に控える人物が口を開く。
「お呼びか、兄者」
淡々と響く阿倶流の声に、神隼が肩を震わせた。
「二の皇女を拘束しろ」
奼祁流が命じると、阿倶流が簾をくぐって入ってきた。
部屋の惨状に眉をひそめつつ、私の両手を背中に回して素早く縛り上げる。
「阿倶流殿! あなたまで……神隼も騙すなんて!」
「……世間知らずで寂しい子どもを誑かすのは簡単だったよ。少しやさしくしてやれば、ころりと異人の俺を信じこんでくれた」
神隼の泣き声がひと際大きくなる。
不愉快そうに顔をしかめた奼祁流は、舌打ちすると異民族の言語で短く呟いた。
途端に神隼が意識を失って脱力した。悲鳴を上げると、「うるさいから術で眠らせただけだ」とあしらわれる。
「言っただろう、この子は大事な手駒だと」
「……あなたたちの目的は何?」
せめてもと睨みつけながら尋ねると、奼祁流は肩を竦めた。
「あなたの耳は飾りかい? 俺は皇の国を焼く北夷の梟師だと名乗ったじゃあないか。阿倶流は俺の半身、もうひとりの
「復讐ですって?」
「そう。俺たち火守の民の土地を奪い、同胞を殺し、血を汚した――皇と、それに従うやつらへの復讐さ」
自ら皇にまつろわぬ夷狄の首領だと告げた少年は、蛇のような笑顔で舌舐めずりしてみせた。
「俺と弟は、風牧の将に略奪された火守の巫女姫から生まれたんだ。母は自分を汚した男を呪い殺し、皇の国を滅ぼし一族を再興させる子を炉の女神に願った」
「でも、あなたたちは風牧の氏族で養育されたと……」
「火守の再興を妨げるために一族から引き離され、風牧の者として生きるように強要された。だが、それを逆手に取って氏長の懐に潜りこんでやったのさ」
奼祁流は大袈裟に肩を揺らした。
「風牧の伯父上は好色でな、かわいらしいおなごの形をしてすり寄ればあっさり術にかかってくれたよ。いまではすっかり俺の傀儡だ。北征将軍の権威があれば、宮中に上がるなんて造作もない」
背筋が凍る。
少年の台詞は、風牧の氏族――その軍事力の掌中にあると言っているに等しい。北征将軍を操って風牧の騎馬兵団に京を蹂躙させることもできるのだと。
「京を焼き払うつもりなの!?」
「最初はそのつもりだったんだが、どうせなら内側から皇を瓦解させてやろうと思いついてなァ」
藍方石の瞳が明星を一瞥する。少年の視線を受け止めた片割れは、にっこりとほほ笑んだ。
「奼祁流はね、わたくしを苦しみから解放してくれるの。何もかもいやになって、すべてを壊したくてたまらなかったわたくしに、絶好の機会を与えてくれたのよ」
「明星――」
「利用されているなんて憐れまないでちょうだいね? わたくしもふたりを利用しているのよ。利害の一致によってお互いに利用し合っているの、わたくしたちは」
もはや眼前にいるのは、私が知る明星ではなかった。
私を憎み、世界を呪い、己の手で故国を燃やさんと欲する凶星の娘。
「夕星、あなたを形代にしてわたくしは過去の自分と決別するわ。傷みも思い出もあなたの血で洗い流して、ひとりぼっちの明星として生まれ直すの」
「ずいぶんと自分勝手ね」
「夕星だって同じでしょう? わたくしもあなたも、互いの姿見であることを拒んだのだから」
明星は眉尻を下げ、皮肉るような、どこか切ないような苦笑を滲ませた。
とっさに手を伸ばそうとして、身動きが取れず血溜まりに転がった。むせ返るほどの臭気にえずきながら、私は彼女を見上げるしかなかった。
――私たちは歪んだ鏡だった。
互いの姿に理想の自分を投影して一方的に羨み、嫉妬心を隠しながら憐れみ合う共依存。どちらかが先に鏡を叩き割ることでしか、この関係を断ち切れない。
鏡を砕いたのは私だったのか。それとも明星だった?
涙が溢れ、頬にこびりついた血とまじり合いながら落ちていく。
嗚咽だけは漏らしたくなくてくちびるを噛みしめた刹那、音もなく大気が震えた。
キィンッ! と強烈な耳鳴りが脳天を走り抜ける。思わず呻くと、奼祁流が顔を歪めながら片膝をついていた。
「兄者!?」
阿倶流が神隼ごと半身の体を支えた。明星は驚いた様子で立ち竦んでいる。
「くそ……いったい何が……」
どうやら異変を感じ取ったのは、陰視である私と奼祁流だけらしい。
耳鳴りの余韻が引くと、新たな異変に気づいた。――空気が冷たい。
心臓が跳ね上がった。全身の毛がぶわりと逆立つ。
簾から射しこむ陽が急速に翳る。まるで黄昏時のように気温が低くなり、影が濃くなる。
これは、杣の宮の森の気配だ。
大気が激しくざわついている。宮城のあちこちで陰りに潜むものたちが騒ぎ立て、蝙蝠の群れのごとく舞い上がるヴィジョンが脳裏に浮かぶ。
宮中だけではない。高い塀のむこう、四方から黒い雲が押し寄せてくる。
あれは――あれは――陰りに潜むものたちの大群だ!
黒い雲は瞬く間に宮城を覆い尽くし、異変に気づいた人びとが悲鳴を上げた。静まり返っていた後宮でも女性の叫び声や慌ただしい足音が聞こえてくる。
「な、何が起こったの?」
狼狽する明星に、奼祁流が喘ぐように答えた。
「守りのまじないが……宮城の結界が壊された。外から魑魅魍魎が雪崩れこんできている」
「なんですって!?」
「ちくしょう、やられた。どこかの莫迦が内側から破壊しやがった。皇を守る結界だぞ!? いったいだれが――」
奼祁流は動きを止め、私を見た。私たちは同じ人物を思い浮かべていた。
宮城の結界を破壊することができる呪師など、宮中にひとりしかいない。
「まさか……婆が?」
呆然と呟く私の耳を、けたたましい鳥の鳴き声がつんざいた。
簾を吹き飛ばして真っ黒な鳥が侵入してきた。子どもほどの大きさもある鴉、いや猛禽にも見える。
鳥の異形はギャアギャアと吠え立てながら火守の双子に襲いかかった。少年たちの怒号と少女の悲鳴が交錯する中、私は破れた簾の下から滑りこんできた人影に目を奪われた。
重い甲冑を脱ぎ捨てて、身軽な麻の短袖と袴を纏った水沙比古だ。腰帯に長剣を無造作に差している。
水沙比古は猫科の獣を思わせるしなやかさで床の上を
褐色の腕が私の体を掬い上げると、かれは強く床を蹴って外へ飛びだした。
「み――」
「口を開くな。舌を噛むぞ!」
私を抱えた水沙比古は猛スピードで明星の宮を脱し、陰りに潜むものが飛び交い宮女たちが逃げ惑う後宮を駆け抜ける。驚嘆すべき脚力だが、回る視界に悲鳴も上げられず口を引き結んでいるしかできない。
少年の肩越しに宮城の空を見た。
青空を塗り潰す百鬼の黒、黒、黒。やがて至るところで火の手が上がり、炎の赤が滲みだす。
……それはまるで、陰りに潜むものたちの宴を照らすかがり火のようだった。
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