ほむらのうたげ〈3〉

 明星の宮を出るまで、私は終始無言だった。

 部屋から飛びだしてきた私の姿に、満瀬は藍方石の双眸を眇めただけだった。まるで、こうなると知っていたかのように。

「汚れを落としましょう。お召し物も替えたほうがよろしいかと」

 言われるがまま用意された湯で顔と両手を清め、真新しい背子と裳に着替える。満瀬は慣れた手つきで私の化粧を直すと、外に控えていた阿俱流を呼んだ。

「二の皇女様がお帰りです」

 私の首元に視線を留めた阿俱流は、眉をひそめた。

「……一の皇女様は?」

「後のことはわたくしに任せておきなさい。二の皇女様を頼みましたよ」

 満瀬は有無を言わさぬ口調で弟に命じた。阿俱流は眉間の皺を濃くしながらも、黙して私の手を取った。

 ふわふわと覚束ない足取りで阿俱流の後ろをついていく。来た道を戻りながら、停止していた思考が徐々に回りはじめる。

 ――明星に負わせてしまった傷は、大丈夫だろうか。

 真っ先に思い浮かんだのは、白い手の甲に浮かんだ赤色だった。

 脚が止まった。

「皇女様?」

 阿倶流が怪訝そうに振り返る。

 いつの間にか宮を出てすぐのところまで戻ってきていた。後方を仰げば、壮麗な殿舎の屋根が変わらず秋陽に照り映えていた。

「いかがされました?」

「明星が、怪我を」

 絞め上げられた首がじくじくと痛い。息苦しさと明星の両手に爪を立てた感触がよみがえり、全身に震えが走った。

 うまく呼吸ができない。私は阿倶流の手を振り払い、両膝から崩れ落ちた。

「皇女様!?」

 阿倶流が驚いたように声を上げた。慌てて伸ばされた手に背中を支えられ、なんとか倒れこまずに済んだ。

 苦しい。苦しい。いまなお少女のほっそりとした十指が首に巻きついている気がして、私は胸を掻き毟った。

 このまま死ぬのではないかと気が狂いそうな私の耳元で、阿倶流がささやいた。

「皇女様、ゆっくり息を吐いてください。息を吸うのではなく吐きだすのです。ゆっくりと……そう」

 私の背中を撫でさすりながら、阿倶流は冷静にくり返した。かれの声かけに合わせて長く息を吐いたり、敢えて止めたりしていると、ゆるやかに胸の圧迫感が薄らいでいく。

 やがて自然な呼吸が戻ってくると、「落ち着かれましたか」と尋ねられた。

 恐怖と息苦しさから溢れた涙がすっかり頬を濡らしていた。返事が形にならず、私はなんとか頷いた。

 私の肩を抱き、顔を覗きこんでいた阿倶流は目元を和らげた。

「それはよろしゅうございました。……立って、歩けそうですか?」

 にたび頷き、浅縹の腕に掴まってよろよろと立ち上がる。

 阿倶流は何かに迷うような表情を浮かべながら口を開いた。

「少し……休んでまいりましょう。近くに、皇子様が一の皇女様とお会いになられる際に使われる小さな宮がございます」

 阿倶流に導かれるまま、もつれそうな脚を必死に動かした。

 明星の宮からそれほど離れていない場所に建っていたのは、こぢんまりとした殿舎だった。日頃は閉め切られているせいなのか、やはり人気はない。

 阿倶流の助けを借りて階を上がり、簾をくぐる。仲の良い異母姉弟の逢瀬の場にふさわしく、室内は小綺麗に整えられていた。

 几帳の前に小柄な人影がちょこんと座りこんでいた。

 七つか八つという齢の女の子だ。色白の、人形のように愛らしく品のよい面立ちには不思議と見覚えがあった。

 肩の下で切り揃えた涅色の髪を色糸を使って両脇で結い、萩色の短袍と白地に秋草模様が入った裳を纏っている。身形から察するに、女性皇族の侍女見習いとして働く女孺めのわらわだろうか。

 手持ち無沙汰に短袍の袂をいじっていた女の子が顔を上げる。くりくりとした萌黄色の瞳が瞬き、阿倶流と私を認めるとまろい頬にパッとももの花が咲いた。

「姉上!」

 とっさに「え」と声が洩れた。

 勢いよく飛び上がった女の子は、小動物を思わせる動きで駆け寄ってきた。

「はじめまして、杣の宮の姉上。ずっとお会いできる日を楽しみにしていました!」

「まさか……神隼親王ですか?」

「はいっ」

 女の子――女孺に扮した異母弟は元気に頷いた。

「阿倶流殿、いったいどういうこと!?」

 動揺しながら問い詰めると、阿倶流はいささか気まずそうに目を伏せた。

「皇子様のたってのご希望でお連れしました」

「お、お連れしたって……いまは神事の真っ最中よ? どうやって気づかれずにここまで……」

「……人形ひとがたで皇子様の写し身をこしらえ、神事のあいだであればそれを皇子様だと周囲が認識するよう、まじないを施しました。念のため、皇子様には女孺の姿になっていただいてからこちらへ」

 私は呆然と尋ねた。「あなた……呪師だったの?」

「私ではありません。姉に呪術の心得があるのです」

 阿倶流の答えは端的だった。かれは私の肩を押して座らせると、立ち尽くしたままの神隼に声をかけた。

「皇子様。姉宮様は少々体調が優れないご様子。あまり大きなお声は出さず、座ってお話しになっていただけますか」

 この少年も、これほどやさしげな口調で話せるのかと思った。神隼は途方に暮れた顔で阿倶流と私を見比べたあと、素直に腰を下ろした。

「あの……夕星姉上。阿倶流と満瀬を怒らないでください。ぼくがお願いして、ふたりに協力してもらったのです」

 神隼は胸元でぎゅっと両手を握りしめ、両の眉を垂れ下げて訴えてくる。私は苦い唾を飲み下した。

 私の表情から批難を感じ取ったのか、異母弟はくちびるを噛んでうなだれた。強張った小さな肩が痛ましい。

 まるで私が悪役ではないか。さっきから沈黙している阿倶流を睨みつけると、なんとも言いがたい表情が返ってきた。

 ……私にどうしろと!?

「神隼親王。お顔を上げてください」

「はっ、はい」

 びくりと震えた神隼は、神妙に私の顔を見つめている。頼りなく揺れながら逸れることのない視線に、出会ったばかりのころの明星を思いだした。

 嗚呼――この子も躊躇なく私の目を見るのか。

「本来、私たちはこうしてお会いすべきではなかった」

「それは……」

「私は鵺の眼を持つ呪い子。それゆえ杣の宮に隠された身なのです。皇太子たる親王にお目通りするなどもってのほか。立場ある者が軽率なふるまいをすれば、罰せられるのはおそばに仕える宮人たちです」

 引き結んだ口の下に皺を寄せ、神隼は頷いた。

 明星が言っていたとおり聡明な子なのだろう。澄んだ瞳は賢しげで、どうかそのまま成長してほしいと思った。

 私は小さな手をそっと取った。戸惑いを浮かべて瞬く面を覗きこみ、ほろ苦い気持ちで笑いかける。

「でも、ひと目でも私の弟宮のお姿を見ることができて嬉しいです」

 神隼の表情がみるみる明るくなる。両手で私の手を握りしめ、「ぼくもっ」と口を開いた。

「夕星姉上にお会いできて、とても嬉しいです。明星姉上からお話を聞くたびに、どんな方なのかなってずっと考えていて――」

 片割れの名前に頬が強張る。些細な変化を見逃さなかった神隼は、「あ……」と声を震わせた。

 開きかけた花が萎むように、幼い皇子の表情が翳った。

「明星姉上は……お元気でしたか?」

 やわらかな少女の指の感触がまとわりつく首元が疼いた。私は意味もなく口を開閉させ、苦い飴のような言葉を押しだした。

「悲しんで……傷ついていたわ。でも、私は……明星を助けてあげられなかった」

 神隼の手に力が入った。異母弟は頭を振るい、泣きそうな声で言った。

「ぼくが、姉上たちをお守りしたいのに。でも、できないのです。ぼくは……ぼくは……皇の血筋と希賀氏の権勢を守るためだけの傀儡だから」

 私は絶句した。十歳にもならない童が口にするにはあまりにも惨い事実だった。

「昔から父上の関心はぼくにありません。父上にとって、ぼくはご自分のでしかないのです。母上も希賀のおじいさまも、ぼくを次の大皇にすることで頭がいっぱいだ」

「神隼……」

「でも、明星姉上はやさしかった。母上がひどいことをしても、ぼくといっしょに遊んでくれました。お歌や筝を聞かせてくれたり、和多の氏長から聞いたという外つ国のお話をしてくださったり……勉学で博士たちに褒められたと言ったら、『神隼はがんばり屋さんね』と笑って頭を撫でてくれるのです」

 萌黄色の瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちる。私が手を伸ばすよりも早く、神隼は衣の袖で目元を拭った。

 だれも知らないところでひとり、悲しみを呑みこむことに慣れた仕草だった。

「ぼくは明星姉上が大好きです。明星姉上のために何かしてさしあげたかった。……夕星姉上に会えれば、またお元気になってくださるかもしれないと思いました」

「私、は」

 あの子が牢獄と呼んだ場所に置き去りにしてきた。ともに死のうと伸ばされた手を振り払って逃げてきた。

「明星といっしょに、生きられない」

 ――あなたといっしょに生きたかった。

 ふたりで迎える朝を願い続けた。その気持ちは嘘ではない。

「私たちも同じよ、神隼。明星は大皇の空しさを埋めるための、私は悲しみを紛らわせるための傀儡に過ぎない。これからは、そばにいてあげることさえ」

「……どこでなら、姉上たちはいっしょにいられますか?」

 神隼の言葉に思考が途切れる。

 瞬き、私はまじまじと異母弟を見た。明るい虹彩をほのかに光らせ、神隼は続けた。

宮中ここではないどこかなら、姉上たちはいっしょにいても咎められないのですか」

 潮騒のようによみがえる、声が聞こえた。

 海が見たいとささやく、片割れの声が。

「和多の郷」

 自分の口からまろびでた答えに、私は肩を震わせた。

 神隼がハッと息を吸いこむ。「和多の氏長なら姉上たちを守ってくれますか?」

 眩暈がした。大皇のおぞましい企みを祖父が知れば、今度こそ反旗を翻しかねない。

 七洲の海を掌握した和多水軍の一斉蜂起――国を引き裂く内乱の幕開けだ。

「だめよ。それは……」

「でも、このまま明星姉上が……姉上たちが苦しむ姿を見たくありません!」

 神隼は激しく首を横に振った。

 縋るようにも、訴えるようにも思える強さで握りられた手に、心が揺れる。

「姉上」

 半分しか血のつながらない、はじめて会った私の弟。懸命に見上げてくる瞳に、こみ上げる衝動のまま抱きしめた。

「ゆ、夕星姉上?」

 神隼が戸惑いの滲んだ声で呼ぶ。こんなにも小さな背中で、危険を顧みず異母姉を助けようとしていたのか。

 ――どうして私たち姉弟が苦しまねばならないのだ。

 大皇の思惑どおりに運べば、明星は父親の子を孕まされ、神隼は異母妹であり姪である娘を妃に迎えるのだ。

 青年になったかれは、どんな気持ちでその娘を妻と呼ぶのか。生まれてくる子を待ち受けるものは、汚れた不幸と絶望だ。

 ふつりと何かが切れた。

 幼き日の感傷を引きちぎって、憎悪が脳裏を真っ黒に染めた。ただただ大皇を殺してやりたいと思った。

「もうこりごりだわ」

 そっと抱擁を解き、神隼の頬を両手で包みこむ。

 不思議そうな顔をする異母弟に向けた笑みは、おそらく酷薄だった。

「ありがとう、神隼。おかげで目が覚めたわ」

「え……?」

「あきらめる前に、戦うべきだったのよ」

 明星。私の片割れ、私の愛子。

 あなたと生きる、明日が欲しい。

 たとえ別れの運命さだめを覆せなくても。希望に輝く暁天へ笑ってあなたを送りだせる、幸福な未来が欲しい。

 血塗れた糸を手繰り寄せる、罪を犯したとしても。

「あなたの力を貸してくれる?」

 ささやいて問いかければ、神隼の喉がコクリと鳴った。

 互いの瞳に危うい炎を探し求める私たちの傍らで、阿倶流は無言で佇んでいた。

 来るべきものを待つように、静かな憂いを帯びた顔で。

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