ほむらのうたげ〈2〉

 ――いったい何が起きているの!?

 気道を圧迫される苦しさに体が強張る。

 なんとか明星の両手を引き剥がそうともがくと、爪の先に皮膚が食いこんだ。肉を破る鈍い感触のあと、桃花色のくちびるから悲鳴が洩れる。

 ぱたたッ、と頬に熱い雫が降りかかった。

 裳がまくれるのもかまわず脚をばたつかせると、体勢を崩した明星の手が首から離れた。

 そのまま明星を突き飛ばし、床を這って後ろへ逃げる。

 両手の甲に掻き傷を負った明星は顔を歪め、すすり泣くように唸っている。髪を乱し、着崩れた単衣から白い肩をあらわにした姿は、幽鬼じみて空恐ろしかった。

「ひどい……ひどいわ、夕星……」

 泣き濡れた紫色の瞳が恨めしげに睨んでくる。どこまでも純粋に私を責める、幼子のような目で。

 私は唾を飲み下した。

「明星、あなた……自分が何をしようとしたのかわかっているの?」

 尋ねる声は震えてしまった。片割れは柳眉を曇らせ、痛ましい緋を滲ませる手を伸ばした。

「あなたこそ、どうしてわたくしを拒むの。わたくしは、夕星といっしょに果ててしまいたいのに」

 眩暈がした。

 この子は――本気で私を殺そうとしたのだ。

「なぜ」

 片割れの血にまみれた指先を握りこみ、驚愕と怒りを吐き捨てる。体の底から震えが沸き起こり、視界が涙で歪んだ。

「こんな莫迦なことを」

「莫迦なこと?」

 明星は引きつったような笑みを浮かべた。

「そう……夕星にとっては莫迦なことなのね。夕星だけがわたくしのすべてなのに、夕星は違うのね」

 青ざめた面にじわじわと怒りが広がっていく。明星からはじめて向けられた敵意に、私は息を呑んだ。

奼祁流たけるが教えてくれたとおりだわ。あなたはわたくしを見捨てた。わたくし以外の人間に心を寄せて、ひとりで幸せになろうとしている!」

 悲鳴じみた糾弾は甲高く耳を打ち据えた。

 私は呆然と明星の台詞を反芻した――私が明星を見捨てた?

「まっ……待って。待ってちょうだい、明星。言っている意味がわからないわ。私があなたを見捨てただなんて、そんな――」

「和多の郷から氏族の若者が杣の宮へ遣わされたと聞いたわ。お祖父様が、あなたを守る従者にするために」

 思わず言葉に詰まる。明星はきつく眉を吊り上げ、「名は水沙比古」と吐き捨てた。

「ずいぶん仲睦まじいそうね。まるで妹兄いもせのようだと」

「それは……水沙比古はお祖父様の養い子で、私を助けるよう言いつけられているからよ。従者ならば主を助けるものだと、心を尽くしてくれるいい子だわ。下心なく自分によくしてくれるひとがいれば、好ましく思うのは当然でしょう?」

 私は頭を振った。

「あなたの言い分は支離滅裂よ。水沙比古がいるからといって、なぜ私が明星を見捨てたことになるの? 一日だってあなたを忘れた日はなかった」

「うそよ」

 切り捨てる声は硬く凍りついていた。

 明星はゆらりと立ち上がり、単衣の裾を引きずって近づいてきた。

 簾を透かして射しこむ秋陽がはだけた裸体をぼんやりと浮かび上がらせる。まろやかな胸乳のふくらみ、雪原を思わせる薄い腹、太もものあいだの淡い陰り。

 あと一歩で手が届く距離で立ち止まった明星は、冷え冷えと見下ろしてくる。

 そこで、ふと気がついた。

 少女の柔肌に赤い痕が花びらのように散らばっている。首筋から両脚の内側まで、至るところに。

 背筋がぞわりと粟立った。一瞬、明星から鉄錆の臭いが漂う。

「明星……?」

「うそつきだわ、夕星は。わたくしの気持ちなんて知りもしないで、お父様の目の届かない場所で大切にされて、のうのうと安穏を貪っているくせに」

 これが本当に片割れの言葉だろうか。

 私を愛子と呼んでくれた声は、いまや前世の『私』へ無慈悲に降り注いだガラス片の雨のよう。切り刻まれる心が苦鳴を上げる。

「杣の宮での暮らしを聞くたび、夕星が羨ましくて仕方なかった。あなたは顧みてくださらないお父様を恨んでいたけれど、わたくしには、やさしい大人に囲まれてお父様やお継母様かあさまに怯える必要もない生活は夢のように見えた」

「羨ましい……?」

 明星は口元を歪めた。

「そうよ。いっそ憎いほど、夕星が羨ましかった。大好きなのに、胸が引きちぎられるように嫉妬していた」

 まつむしそう色の両目が涙に沈み、少女の頬を流れ落ちていく。

 秋陽にきらめく金色の雫が明星の足元で砕け散った。

「夕星を嫌いだと思うたび、どうしてわたくしたちは別々の心と体を持って生まれてきてしまったのだろうかと悲しくなったわ。あなたがいなければ、わたくしは空を飛ぶ夢すら見れないのに」

 ほろほろと涙を流しながら、明星は失敗したような笑みを浮かべた。

「お父様に愛されないと苦しむ夕星は、心底かわいそうでいとおしかった。白珠媛の写し身でしかないわたくしでも――明星わたくしだからこそ必要としてくれるあなたを、愛することが唯一の救いだったの」

 私たちは似た者同士だった。

 互いの疵を舐め合って、寂しさや悲しみを分かち合おうとした。ふたりだけの殻に閉じこもり、来るはずのない朝を待ち続けた。

 ……つないだ手を離すことが裏切りならば、確かに私は明星を裏切ったのだ。

 泣きたいのに涙が出てこない。両目はカラカラに乾涸びて、瞬きのたびに痛んだ。

「夕星、わたくしの片翼。わたくしにはあなたしかいない。あなたが離れていくなんて耐えられない。だから、どうかいっしょに死んでほしい」

「……私を置いていくのは、明星のほうでしょう」

 声が震えるのは動揺か、それとも苛立ちか。私はよろめきながら立ち上がり、同じ目線で片割れを睨めつけた。

「明星こそ、私の何がわかるというの。生まれただけで母親殺しの罪を被せられ、化け物がうろつく森の古宮に死ぬまで閉じこめられて。見たくもないものを見てしまう目を持っている、それだけで化け物だと忌み嫌われる私の何が!」

 明星の表情が変わった。

 戸惑い、驚愕、納得、反発――手に取るように感情の揺れ動きがわかった。

「皇女として何ひとつ申し分のないあなたなら、嫁ぎ先にだって困らないはずだわ。なんならお祖父様の手を借りて、和多と親しい豪族に降嫁することだってできる。一生大皇の許につながれた私と違って、堂々と外に出ていけるじゃない!」

 そうだ。私だって、明星が羨ましかった。妬ましかった。大嫌いだった。

 この子を不憫だと憐れんで、この子の疵を労りながら自分の鬱屈を和らげようとしていた。本当に救いたかったのは、自分だった。

 どこまでも私たちは平行線で、同じものになどなれなかった。

「夕星は、本当にお父様がわたくしを手放すと思っているの?」

 おそろしく平坦な口調で明星が呟いた。

 不意に陰影が濃くなったような、明星が遠ざかったような感覚に襲われる。足元がすっと冷たくなった。

「わたくしこそ、お父様に囚われた虜」

「……正嫡の皇女を然るべき相手へ降嫁させずにいるなんて、お祖父様が黙っていないわ。何より、白珠媛の遺児を目障りに思っている継母上や希賀氏が許さないはずよ」

 乾いた笑声が響いた。

「お父様にはだれも逆らえないわ」

 白魚のような指が胸元から腹部へと素肌を伝い落ちていく。点々と浮かぶ赤い痕跡をたどるように。

「ただひとり、荒ぶる赫日の王を慰撫できたのは白珠媛だけ。お父様は軛が外れた牡牛こというしのようなもの」

 明星はぎりりと下腹部に爪を立てた。臍のくぼみの下――やがて子を孕む場所。

 再び鉄錆の臭いが鼻先を掠めた。真っ赤なストロボを焚かれたように視界が眩み、私は呻いた。

 先ほどからまとわりつく、この不安感は……何?

「ねえ、夕星。お父様は仰せになったわ。いずれわたくしに、ご自身の御子を産ませたいと」

「……なんですって?」

 私は耳を疑った。

 明星は、あるかなきかの微笑を湛えている。

「この祭が終わったら、お継母様を廃してわたくしを妃に迎えるつもりだそうよ。わたくしに産ませた御子に皇位を譲りたいけれど、近すぎる血が皇統に障りをもたらすことを危惧されているようね。その代わり、わたくしが女児を産んだら神隼の妃にしようと笑っていらっしゃったわ」

 脳裏に大皇の顔が思い浮かんだ。玉座の上から石のごとき冷めた眸で私を見下ろす、実の父親の顔が。

 喉を突き上げる吐き気に耐え切れず、私は嘔吐した。

 胃液と少量の吐瀉物が紅い裳に染みを作る。火傷したように喉が痛い。

「狂っているわ……」

「そんなこと、最初からわかっていたでしょう?」

 おかしそうに肩を揺らし、明星は乱れ髪を搔き上げた。

 唐突に理解した。片割れは、私を地獄への道連れに望んでいるのだ。

 苦しみも嘆きも絶望も等しく分かち合い、風切り羽を奪われた双翼で奈落の底まで墜ちていこうと。

 満瀬から聞いた、明星の言葉がよみがえる。――片翼がいてくれる、それだけでいい。

 私には、明星は救えない。明星もまた同じ。ならば末期をともにして、母が待つ死の国へ行くしかない。

 私の明星。だれより愛しい、私の片割れ。

 私は――この子のために死ぬべきなのか。

「いやよ」

 ガラス片の雨の中から、耳目を塞いで怯えていた森の夜の片隅から、叫びを上げる。

「私は死にたくない。私の命は私のものよ」

 泣きたくて、泣けなくて、涙の代わりに頬についた片割れの血を拭い取る。

 握りしめた拳が軋んだ。

「いっしょには死ねない。私は……生きるわ。生きたい。どんなに苦しくて、みじめで、明日が見えなくても。だれのためでもなく私のために、斃れる日まで」

 陽の翳りに佇む明星は「そう」と呟いた。

 笑みすら消えた面は、玉座の上の大皇に似ていた。

「やっぱり、夕星はわたくしを見捨てるのね」

「姉様」

「出ていって」

 明星は近くの鏡台に置かれていた小物を鷲掴み、力任せに投げつけた。

 足元で金属音が跳ねる。赤い珊瑚の花を咲かせた笄がカランと転がった。

「いますぐわたくしの前から消えて。出ていきなさいッ!」

 床にぶつかった際に瑕がついたのか、飾りの花弁の部分が欠けていた。私の髪に挿しているものと同じだったはずの花は、不揃いになってしまった。

 もう二度と戻らない。――戻れない。

 かける言葉など見つからず、私はくちびるを噛んで爪先を外に向けた。

 簾をくぐる刹那、うなだれた明星の背中が震えていた。

 すり切れそうな嗚咽が追いかけてくる。私はわが身を抱きしめ、歩廊を駆けだした。

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