五 火群の宴〈上〉

ほむらのうたげ〈1〉

 久しぶりに触れた森の外の空気は、細かい棘のようにピリピリと皮膚を刺した。

 水沙比古に連れられ、人目を避けながら後宮に向かう。日の出と同時に新嘗祭がはじまったので、祭殿から離れた後宮付近は人が出払って異様なほど静かだった。

 後宮の入り口である唐門の前に、浅縹の朝服を着た阿倶流が待っていた。

 私たちに気づくと、かれは伏し目がちに一礼した。その姿に覚えのある違和感が頭をもたげる。

「お待ちしておりました」

 だが、それを口に出す暇はない。だれかの目につかないうちに移動しなければならない。

「おれはここで待っているよ」

 水沙比古が冑の下でほほ笑んだ。下級の衛士は後宮の中まで入れないからだ。

「二の媛が伝えたいことを、正直に伝えてこいよ。心残りがないようにな」

「……うん」

 途端に心細くなり、私は途方に暮れて銀碧の双眸を見上げた。

 水沙比古は励ますように私の手を軽く握り、阿倶流に視線を移した。

「おれの主を頼んだぞ」

 藍方石の隻眼が瞬く。阿倶流は短く頷いた。

「確かに承った」

 水沙比古に見送られて唐門をくぐる。記憶にある限り、はじめて後宮に足を踏み入れた。

 宮城はふたつのエリアに分けられる。大皇が朝臣とともに政務を行う外朝と、皇族の居住区である内朝だ。

 大皇の妻子が暮らす後宮は内朝の北側に位置し、宮中で最もきらびやかでありながら陰惨極まる毒花の園だ。その頂点に君臨する継母は、さしずめ女王を気取るとりかぶとだろうか。

 もしも母がお産で命を落とさなければ、明星とともに私も後宮で暮らしていたのかもしれない。複雑な気持ちで周囲を見回していると、先導する阿倶流が口を開いた。

「一の皇女様は最奥の御殿にお住まいです。私の姉とともにお待ちになっております」

「ほかの侍女たちはどうしたの?」

「姉の手筈で、皇子様のお世話へ回るように仕向けてあります。最低限の侍女が残っていますが、一の皇女様は神事が滞りなく行われるようお祈りするため、早朝からお部屋に籠られていることになっております」

 つまり、明星は万全の人払いをした状態で待機しているわけだ。阿倶流と満瀬の手際のよさには感嘆させられる。

「明星媛は、ずいぶん満瀬殿を信頼しているのね」

 苦しいばかりの後宮での生活で、ひとりでも心を許せる相手が片割れにいることが嬉しかった。

 私の台詞に、阿倶流は横顔をわずかに強張らせた。

「……姉は私と違って、明朗で他者の懐に入ることに長けておりますゆえ。皇女様方と同年という点も親しみを覚えていただけた理由のようです」

「満瀬殿はわたしたちと同年なの?」

「姉も私も、今年で十六になります。私たち姉弟は双子なのです」

 私は阿倶流の顔を凝視した。

 少年は前を向いたまま、独白のように語る。

「幼いころから互いを半身と思ってきました。生まれ育った北夷の郷でも、九つで引き取られた風牧の氏族でも、この京でも……私たちは女神に祝福された特別な魂を分かち合って生まれてきたのだから、半身を欠かすことがなければ何が起きても――」

 不意に口をつぐみ、阿倶流は肩越しに振り向いた。

「申し訳ございません。余計なことまで申し上げました。どうかお気になさらぬよう」

「……あなたにとって、満瀬殿は失いがたい半身なのね」

 阿倶流は眉間を歪め、伏し目がちに笑った。

「わが身と引き替えでも欠かせぬもの、と。何より近しく……ですが、ときどきこの世の端と端にいるのではないかと感じるのです」

 阿倶流の独白を聞きながら、私は内心で動揺していた。

 いままで視たヴィジョンを振り返ってみる限り、かれには双子のがいるはずだ。それとも、幼少期を過ごした北夷の郷では訳あって満瀬も男児として育てられたのだろうか。

 乳幼児の死亡率が高い七洲では、魔除けの意味をこめて一定の年齢まで子どもの性別を偽って育てるという風習があるそうだ。疫病が猛威を振るった時代には、幼い皇太子に皇女の衣装を着せて疫神から守ろうとしたこともあったと婆が話していた。

 ――違う。は男の子だった。

 直感は警告のように鋭く訴えてくる。思わず立ち止まると、阿倶流が振り向いた。

「皇女様?」

「……満瀬殿も、あなたのような赤い髪をしているの?」

「然様ですが……それが何か?」

 怪訝そうな阿倶流の表情に、なんと尋ねればよいかわからない疑念が喉を塞ぐ。口ごもっていると、阿倶流がハッと息を呑んだ。

「こちらへ」

「えっ」

 片手を引かれて殿舎の陰に連れこまれる。覆い被さってきた阿倶流に目を白黒させていると、「お静かに」と小声で耳打ちされた。

 視界を塞ぐ阿倶流の肩越しに、縁の板を鳴らす足音と話し声が近づいてくる。とっさに袖で口元を覆った。

 きゃらきゃらと響く声から察する限り、若い宮女たちが通りかかったらしい。雀のようなおしゃべりと歩みを止める様子もなく、宮女たちはさっさと立ち去ってしまった。

「……行ったようですね」

 阿倶流は隙のないまなざしで周囲を見回し、素早く身を離した。

 心臓が固く縮こまったままで、うまく呼吸ができない。ぱくぱくと口を動かしていると、掴まれたままの手を引っ張られた。

「ほかの者に見つからないうちに急ぎましょう。一の皇女様の宮まであと少しです」

 頷く間もなく歩きだす。もつれそうな足で必死に浅縹の背中を追いかける。

 阿倶流の手は水沙比古の手と同じぐらい大きく、種類の違う武骨さを纏っていた。体温が低いのか、どこかひやりとする。

 焦燥と緊張で白昼夢の中をさまよっている気分だ。いくつかの建物を通り過ぎ、ひと際大きな殿舎が見えると阿倶流が指差した。

「あれです」

 大皇の愛娘が住まう宮は、主人の身分にふさわしく立派で手入れが行き届いていた。

 黒々とした屋根瓦にまぶしいほど白い壁、色鮮やかな丹塗りの柱。夜になれば、軒先の釣り灯籠からあかりが絶えることはないのだろう。

 ここで片割れは大勢の侍女に傅かれ、暗い森の闇に怯えることも知らず暮らしてきたのだ。突きつけられた境遇の差に羨望とも嫉妬ともつかない感情が沸き上がるが、一瞬で冷めて虚しさが広がった。

 ――私が欲しかったものは、明星にとって幸福だったのかわからない。

 阿倶流に導かれて階を上がると、縁の奥からひとりの少女が現れた。

 しゅるしゅると裳裾が床板を擦る音。腰を屈め、片脚が引きずるようにゆっくりと歩いてくる。

 ……女性にしては背が高い。阿倶流と変わらない身長の持ち主ではなかろうか。

 白い袍に褪めた朱色の背子、藤色の模様が入った領巾と浅葱色の裳。上級宮女としては落ち着いた色合いだが、刺繍入りの帯が上品で美しい。磨いた赤銅のごとく艷めく髪を双髷に結い上げ、金の簪を挿している。

 氷雪から切りだしたような白皙のかお。化粧をしているが、目鼻立ちは阿倶流そっくりだ。

 両眼揃った藍方石が柔和な線を描き、しずしずと伏せられる。

「お待ち申し上げておりました」

 ざらりと掠れた声がささやく。一礼する少女を前に立ち尽くしていると、阿倶流が「姉の満瀬です」と紹介した。

「子どものころに患った病の後遺症で喉が潰れ、片脚が満足に動かせぬ身なのです。見苦しいと思いますが、どうかご容赦を」

「まあ、そんな……見苦しいだなんて」

 慌てて首を横に振ると、満瀬は面を上げてほほ笑んだ。

 阿倶流と相似形の顔立ちは、どちらかというと鋭角的で女性らしからぬのに、紅を刷いたくちびるをゆったりと持ち上げる様は息を呑むほど婀娜っぽい。深紅に煙る睫毛の陰に隠れた青い瞳は、底知れぬ吸引力を秘めている。

 一瞬、視界がぐにゃりと歪んだような感覚に襲われ、私は彼女の双眸から視線を逸らした。

 満瀬の目をまっすぐ見ては

 とっさの判断だった。あからさまに顔を背けたりせず、不自然でないよう鮮やかな口元に視点を置く。

「一の皇女様からお聞きしていたとおり、二の皇女様はおやさしい方でいらっしゃる」

 満瀬は歌を口ずさむようにささやくと、領巾を揺らして来たほうを示した。

「どうぞこちらへ。一の皇女様がお待ちになっておいでです」

「私は御座所までお供できませぬゆえ、ここに控えております」

 阿倶流は素早く満瀬に目配せをすると、床に片膝をついて頭を垂らした。

 弟の一瞥を受け取った満瀬は、「これより先はわたくしがご案内いたします」と誘った。

 私は面食らった。当然のように阿倶流もいっしょだと思っていたからだ。

 しかし、皇太子の舎人とはいえ一介の宮人に過ぎない阿倶流が皇女の御座所を訪うことなど許されるはずもない。満瀬とふたりきりになる状況は容易に予想できたのに、ひどく狼狽してしまった。

 満瀬は私にかまわず裳裾を引いて歩きだした。元来、許された時間は少ない。

 私は双子の姉弟のあいだでうろうろと視線を迷わせ、観念して満瀬の背中を追いかけた。

 殿舎をぐるりと囲う縁を回りこむと、明星の宮は複数の棟で構成されているのだとわかった。建物のあいだには透廊が渡され、明るい庭がよく見えた。

 冬も近いのに甘やかな花の香がどこからか漂う。ひよひよとさえずる小鳥の声、穏やかな晩秋の木洩れ日。

 人の手が行き渡った、陰りなどどこにもない清らかな箱庭。私の知らない、片割れが生きてきた世界の景色ながめ

「この宮は、大皇がさきのお妃様をお迎えする際に造られたと聞いております」

 不意に満瀬が振り返った。

「え……?」

「お妃様のため、選りすぐりのたくみを七洲じゅうから呼び寄せて造らせたそうです。冬枯れの季節にも花が絶えぬよう、庭には大陸渡りの珍かな草木を植えられているとか」

 なるほど、と私は素直に納得した。

 大皇の寵姫の住まいともなれば、後宮で最も贅を凝らした宮であるに違いない。母亡きあとも、彼女の忘れ形見である明星の揺籃とされても不思議ではない。

「母上――白珠媛に対する大皇の寵愛の深さは、私もよく聞き及んでいるわ。きっと大皇は、白珠媛の思い出が残る宮で、明星媛を慈しまれることを心の慰めとしたかったのでしょうね」

 だが、その選択は大皇の傷心を本当に癒したのだろうか。愛妃への追慕は長じていく明星への執着にすり替わり、あの子の心にこそ影を落としている。

「一の皇女様は、この宮を牢獄だとおっしゃいました」

 満瀬の声は冷え冷えと響いた。

 思わず身を竦めると、赤い花のようなくちびるがうっすら笑う。

「真綿のような鉄で作られた鳥籠。籠の中で生まれ育った小鳥は飛び方など知りませぬ。だから自分はどこにも行けない。そも、自分は片方の翼しか持たずに生まれ落ちた。もう一方の片翼もまた、暗い森の奥深くに籠められてしまっているからなのだと」

 ――わたくしたちは、どこにも行けない。

 明星のささやきが聞こえた気がした。透廊に佇み、閉ざされた庭を見つめる片割れの姿を幻視した。

と、皇女様はほほ笑まれました。片翼がいてくれる、それだけでよいのだと」

「……明星媛は、いずれ然るべき氏族へ嫁がれるわ」

 幻を打ち消すように私は頭を振った。

「いまは大皇が許さなくても、和多の祖父や、ほかの豪族たちが黙っているはずがない。昔は異腹の兄弟姉妹であれば皇女が皇子の妃となることも珍しくなかったけれど、近親間の婚姻は血の濁りを呼ぶという巫女の占があってからは忌避されている。明星媛と身分が釣り合う未婚の男性皇族は神隼親王だけ……つまり、明星媛は皇の外へ出ていかなければならないのよ」

「大皇は果断の君であらせられる」

 低く喉を鳴らし、満瀬は爪先の向きを直した。

「そのご気性がいかに苛烈であるか、二の皇女様もご存じでしょう。武を好み、七洲くにを麻のごとく乱しかねないと知りながら和多の氏族から白珠媛を奪い去った。まさに赫日のみこたるお方」

「満瀬殿。何が言いたいの?」

 訝しんで尋ねても、満瀬は答えないまま進んでいく。

 やがてたどり着いた殿舎の縁に立ち、視線だけ投げて寄越した。

「さあ。あなたの片翼がお待ちです」

 笑みのまま閉ざされた紅唇を睨み、私は満瀬の横を通り過ぎた。いまはとにかく明星が最優先だ。

 殿舎の蔀戸は下半分が取り払われ、簾が垂れ下がっている。私はそろそろと簾に近づき、小声で片割れを呼んだ。

「姉様……明星?」

 勢いよく簾が跳ね上がった。

 袖を掴まれて室内に引きずりこまれる。床に倒れこんだ私を跨がるように、だれかが覆い被さってきた。

 墨色の髪が帳となってさらさらと流れ落ちた。真白い単衣を羽織っただけの明星が私を凝視している。

 あまりにしどけない出で立ちに唖然とした。簾越しの薄明かりに、ほっそりとした少女のシルエットが単衣を透かして浮かび上がる。

「あ、明星?」

 戸惑う私をひたと見つめ、明星は吐息をこぼした。珊瑚色のくちびるが震え、どこか艶かしく綻ぶ。

「このときを待ち焦がれていたわ、夕星。わたくしの愛子」

 白魚のごとき十指が私の頬を撫で、頤を伝い、やさしく首に巻きついた。

 恍惚と上気した頬。朝露に濡れたまつむしそうの花にも似た双眸は、怖気立つほどの狂気に輝いていた。

「どうかわたくしといっしょに、ここで死んでちょうだい」

 私の首を絞め上げる片割れの両手が、ぎちりと軋んだ。

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