あなじのつかい〈3〉

 朝ぼらけの宮城に太鼓の音が響き渡る。

 夢の名残が醒めやらぬ空気を震わせる重低音に、陰りに潜むものたちがざわついている。祭の日には人間ではないものの気配も浮き足立って落ち着かない。

 太鼓の音を数えながら、私は鏡台と睨み合っていた。

 古ぼけた鏡にはしかめっ面の少女が映りこんでいる。普段は適当にまとめているだけの髪をきっちりと双髷に結い、慣れない化粧をしているせいか自分の顔ではないかのよう。

 白い袍の上に晴れやかな花浅葱の背子を重ね、更にひらひらとした玉虫色の領巾を肩にかけている。鮮紅色の裳を着ければ、皇族のそば近くに仕える上級宮女の出来上がりだ。

 下級宮女の扮装では明星が待つ殿舎まで近づきにくいから……という理由で阿俱流が用意してくれた装束である。上級宮女は男性皇族に見初められることもある身分なので、華美な装いが好まれるのだ。

 双髷の根元には珊瑚の飾り珠がついた笄を挿している。阿俱流が言ったとおり墨色の髪に赤い花が映えているような気もするが、似合っている自信はない。

 眦に紅を差した朱金色の双眸は、戸惑いを浮かべて私を見つめ返していた。袖や領巾で隠せば目立たないはずだと阿倶流は言っていたが、本当にうまくいくのだろうか。

 ため息を噛み潰していると、外から蔀戸を控えめに叩く音がした。

「二の媛、起きているか?」

 水沙比古の声に、ようよう観念して立ち上がる。

「ええ。いま開けるわ」

 蔀戸を開けると、冑を脇に抱えた水沙比古が立っていた。

 銀碧の瞳がきょとんと瞬く。不思議なものを見るまなざしに居心地の悪さを覚え、とっさに顔を背けた。

「おはよう。寒いから、中へ入って」

「あ……ああ」

 水沙比古は蔀戸をくぐると、そそくさと火鉢のそばに腰を下ろした。

 いつになく挙動不審な様子に私までいたたまれなくなってしまう。お互いに黙りこんでいると、育ち盛りの少年の腹の虫が切なげに鳴いた。

「あ」水沙比古が間の抜けた声を洩らし、仔犬のような目でこちらを窺う。

「……昨日、真赫が持ってきてくれたしとぎがまだ残っているの」

「食べる!」

 元気のよい返事に思わず笑ってしまった。

 粢は米粉と水を混ぜて捏ねたものを丸めた、団子や餅に似た菓子くだものだ。日常的な軽食ではなく、祭の日に神前に捧げられたあとで特別にふるまわれる。

 子どものころは、祭のあとに真赫が持ってきてくれた粢を炉端で焼いて食べることが楽しみだった。

 固くなった粢を草の葉で包み、火鉢の灰の中へ埋める。しばらく待つと灰の熱で蒸し焼きになる。

 焦げた草の葉を剥くと、ふわりと甘い湯気が広がった。

「熱いから火傷しないようにね」

「うん」

 水沙比古はふうふうと息を吹きかけてから粢にかぶりついた。見てくれは立派な若者なのに、こういうところが男の子のままなのだ。

 私も自分のぶんの粢にかじりつく。米粉の素朴な甘みが妙に懐かしい。

 年を取って固いものが食べづらくなった婆は、細かく切った粢を甘葛煎を薄めた汁で煮てもらい、やわらかい芋粥のようにして食していた。

 前世でも、デイサービスで働いていた母が老齢の利用者には焼き餅入りのお雑煮ではなく小粒の白玉が入ったお汁粉をふるまうのだと話していた記憶がある。どの世界でもお年寄りの食事で気をつけるポイントは同じらしい。

 丈夫な歯と旺盛な食欲を持つ水沙比古は、粢を三個ぺろりと平らげた。

「うまかった!」

「それはよかった」

 白湯の入った椀を渡すと、水沙比古は腹を撫でさすった。

「粢なんて久しぶりだ。和多の郷にいたころは、万祝のあとに親父どのがこっそり食べさせてくれた」

「私も同じよ。甘い菓子なんてめったに食べられないから、とても嬉しかった覚えがあるわ」

 七洲で甘味料はとても貴重だ。舶来品である砂糖はほぼ出回っておらず、宮中の台盤所で用いられているのも甘葛煎や水飴ばかり。

 それすらも稀少で、甘味料を使った菓子を気軽に食べられるのは皇族や高位の豪族に限られる。

「水沙比古は削り氷を食べたことがある?」

「けずりひ?」

「薄く削った氷に甘葛の煮汁をたっぷりかけて、夏の盛りに食べるの。とても冷たくて甘くて、それはそれは美味だそうよ」

 以前、明星が教えてくれた菓子だ。おそらくかき氷のようなものだろう。

 冬のあいだに天領の池で作った氷を切りだし、夏まで氷室で保存しておく。毎年蒸し暑い季節になると台盤所に運びこまれ、大皇の計らいで後宮の妃嬪や親王、内親王に削り氷がふるまわれるのだそうだ。

「明星はね、暑い夏の日に食べる削り氷が菓子の中でいっとう好きだと話していたわ。異母弟の神隼もお気に入りなのですって。私は食べたことがないと言ったら、とても気まずそうな顔をしていたわ」

 水沙比古は眉根を寄せた。

「羨ましかったのか。一の媛が」

 私は手元の椀に白湯を注ぐと、少し冷ましてからそっとすすった。

 火鉢の灰の中で熾火がちろちろと燃えている。赤い揺らめきを眺めていると、胸の奥がさざめいた。

 澱のように凝っていた感情がよみがえる。白湯を飲み下しても消えない苦味に頬が歪んだ。

「みじめだった……かもしれない」

 空になった椀を持つ両手に力が入る。

「悲しくて、恨めしくて、あの子が憎らしく思えた。立場の違いは明星のせいではなのに」

 片割れの苦しみを、だれよりも知っているはずなのに。行き場のない、許しがたい怒りを明星に抱いてしまった。

「明星が大好きよ。何より大切で、だれより幸せになってほしい。でも本当は、私にはないものを当たり前のように持っているあの子が……少しだけ嫌いだった」

「一の媛に会うのをやめるか?」

 水沙比古が声を落として尋ねる。

 私は首を横に振った。

「明星に会いたいのは本当よ。最後にきちんとお別れを言いたいの」

「……これが最後でよいのか」

「危険は何度も冒せないわ。それに私たち姉妹の年齢を考えれば、明星の降嫁は遠くないはずよ。あの子はようやく大皇から自由になれるの。その邪魔をしたくない」

 カランと椀が転がった。

 身を乗りだした水沙比古が左手を掴んでいた。ぎゅ、と力をこめられ、かすかな痛みに眉をひそめる。

「水沙比古?」

「二の媛は……」

 もどかしそうに口を動かし、水沙比古は言葉を押しだした。

「このまま杣の宮に囚われたままでよいのか。外の世界へ――大皇に怯えずともよい場所へ逃げたくはないのか?」

 私は息を呑んだ。斬りこむような阿俱流のまなざしが銀碧の双眸に重なる。

「逃げるって……いったいどこへ?」

「和多の郷ならどうだ。二の媛が望めば、親父どのは喜んで迎えを寄越す」

「そんなの、無理よ」

 泣きそうになりながら頭を振ると、水沙比古は「なぜ」と低く唸った。

「大皇に疎まれているのなら、こちらから出ていけばいい」

「そういう問題ではないの。大皇は、私に死ぬまでこの宮に留まるよう命じたのよ。外へ出たいと言えば殺される。私だけでは済まないわ。婆も真赫たちも、あなたまで巻き添えにしてしまう」

「……こんなに暗くて寂しい森の奥で、糸繰り女の真似事をしながら生きていくのか? 和多の氏長の孫娘、内親王である貴い媛が」

 悔しそうに奥歯を軋ませる水沙比古に、私は眉尻を下げて笑いかけた。

「大皇の治世が続く限り、幽閉が解けることはないでしょう。でも、そうね……何年か何十年か経って神隼が皇位を継いで世情が変われば、もしかしたらお許しが出るかもしれない」

 右手を少年の手に重ねると、強張った肩がわずかに弛緩した。

「明星から聞いた異母弟は、聡明でやさしい子だというから。私の身の上を憐れんでくれるかもしれないわ。もしも外へ行けるようになったら……私を和多の郷へ連れていってくれる?」

 水沙比古は瞳を揺らし、ぐっと口元を引き結んだ。

 会ったこともない異母弟の恩情など、あてになるかどうか定かではない。所詮はこの場しのぎの慰めでしかないと、かれもわかっているはずだ。

 ――それでも。

 叶わないと知っていても願わずにはいられない想いがある。片割れのぬくもりとともに。

 左手首を掴む右手がほどかれ、代わりに右手を両手で包まれた。

「約束する」

 少年の手の温度と、刻みこむような声の強さに、私は呼吸を忘れた。

「和多の郷でも、海の果てでも。二の媛が望む場所まで連れていくよ。おれが、必ず」

 いつか見た海の色を宿した、その眸が。

 ひたむきな表情から視線が逸らせない。時が止まったかのように見つめ合っていると、控えの間から婆の唸り声が聞こえてきた。

 揃ってハッとする。外からすっかり明るくなっていた。

 太鼓の音がいよいよ大きく鳴り響く。祭のはじまりを告げる合図だ。

「そろそろ行こう。人目につかないうちに阿俱流と落ち合わないと」

 水沙比古は冑を被りながら呟いた。

 慌てて火の始末をしていると、褐色の指先が口元に触れた。

「二の媛。出る前に鏡を見たほうがいい」

「え?」

「紅。取れているぞ」

 粢を食べたときに落ちてしまったのだ。不意打ちに固まる私へ、水沙比古は両目を細めた。

「おれが差してやろうか?」

「ばっ……こんなときにからかわないでちょうだいっ」

 羞恥をごまかすために小声で怒鳴ると、少年は喉を鳴らして片手を振った。

「残念。せっかく従者の役得にありつけると思ったのに」

「役得、って」

 滲むような朝の光にふちどられた横顔がほほ笑む。

「似合っている。普段から二の媛は美人だが、めかしこむといっそうきれいだな」

 ぽかんとする私を置き去りに、水沙比古は「外で待っているよ」と出ていってしまった。

 のろのろと鏡の中を覗きこむ。映りこむ少女の頬は、明らかに化粧ではない紅色にほんのりと染まっていた。

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