あなじのつかい〈2〉
波音が聞こえる。
遠く遠く打ち寄せる潮騒は、乾いた北風によって運ばれてきた。冷たく冴えた空気に混じる草の匂い。
視界を開くと、そこは白金色の草原だった。
平原を覆う背の高い枯れ草がいっせいに風に揺れ、彼方の
水色と黄金色が溶け合って輝く
宵の明星――夕星だ。
甲高く口笛の音が響き渡る。
二度、三度と口笛が続くと、駿馬の群れがぐるりと向きを変えてこちらへ駆けてきた。迫り来る蹄の音に逃げなければと思考のどこかでおののいていると、視界の後方から小さな人影がふたつ飛びだした。
野火のような赤い髪。枯れ草を掻き分けて駿馬の群れへ走り寄っていったのは、私の肩よりも小柄な男の子たちだった。
ふたりの男の子は口々に声を張り上げながら――聞き慣れない異民族の言葉だ――鼻息の荒い馬たちをなだめていく。日頃から馬の扱いに慣れているとわかる手際のよさだ。
手分けをして馬の数を確認した男の子たちは、先ほどとは違う音程の口笛を吹いた。ひとりが馬たちを先導し、もうひとりが最後尾について追い立てる。
先導役の男の子がすぐそばを通り過ぎた。
曲線的な紋様が染め抜かれた布を頭に巻き、揃いの紋様で衿を飾った上衣を着ている。赤く日に焼けた頬に散らばったそばかすがいっそうあどけない。
すれ違う刹那、髪とは対照的な深い青色の瞳が私を視た。
藍方石を思わせる双眸がきゅっと弓形に線を引く。強烈な既視感に息を呑んだ私は、そこで夢から醒めた。
隣の控えの間からは婆のいびきが聞こえる。蔀戸を下げたままの室内は暗く、まだ起きるには早い時間帯だ。
すっかり眠気の吹き飛んでしまい、褥の中で何度も寝返りを打った。とうとう堪えきれなくなって起き上がり、身支度を調えて宮を抜けだす。
明け方の森には、あちこち霜柱が立っていた。
だれにも踏まれていない白い絨毯の上を歩き回り、沓で霜を踏みしだく戯れは、二度目の幼少期でも不思議と夢中になったものだ。冬になると軒先に垂れ下がった氷柱を叩いて澄んだ音色を楽しんだ。
かじかむ指先に息を吐きかけながら薄暗い森の中を進む。木立の切れ間に殿舎の屋根が見えてきたあたりで立ち止まり、陰からそっと森の外を窺う。
殿舎の軒先に人気はなく、釣り灯籠の火が物寂しげに燻っていた。巡回の衛士はいないようだ。
明星の姿が見当たらないことは、だだ悲しく切なかった。肩を寄せ合って語らった階のあたりをぼんやり眺めていると、廊のむこうからだれかが歩いてくる。
慌てて木の幹に隠れると同時に、釣り灯籠の下に冠を被った宮人が現れた。
身分の低さを示す浅縹の朝服。赤銅色の結髪が残り火に淡く光る。
――阿俱流だ。
驚く私を、藍方石の左目がまっすぐ捉えた。
阿俱流は迷いのない足取りで階を下ると、こちらへ歩いてくる。
「おはようございます、皇女様」
隻眼を細め、阿俱流は朗らかに挨拶した。
愁いを帯びた第一印象が強かっただけに、私は面食らって瞬いた。形容しづらい違和感に産毛がちりちりする。
「お……はようございます。あの、阿俱流殿はどうしてここに?」
新嘗祭まで日もないので作戦会議のために近く再訪すると聞いていたが、てっきり水沙比古と連れ立って来るとばかり思っていたのに。
阿俱流は思慮深げに答えた。
「一の皇女様からのお預かりものを姉に『二の皇女様にお渡ししてほしい』と頼まれました。お届けに上がった次第です」
「姉様から?」
片割れの名前に心臓が跳ねる。
阿俱流は懐から布包みを取りだした。恭しく差しだされたそれは、片手に収まるほど小さい。
もどかしく震える手で受け取ると、見た目どおり軽かった。布包みを開き、きらりと瞬いた光が瞳を射抜く。
光の正体は鋭く磨かれた銀の笄だった。私の手で握るのにちょうどよい長さで、赤い花を模した珊瑚の飾り珠があしらわれている。
「これは――」
「揃いの笄を一の皇女様がお持ちになっていらっしゃいます。再会の約束の証に、祭の当日につけてほしいとおっしゃっていました」
「姉様は、こたびの密か事をご存じなの?」
私の問いに、阿俱流は短く首肯した。
「姉を通じて手筈をお伝えしております。妹君にお会いできると知れると涙をこぼして喜ばれ、食欲も戻られたご様子でした」
「ああ……そうなの。それはよかった」
滲んだ涙を袖で拭い、私は布包みごと笄をそっと胸に抱いた。
きっと次の逢瀬が今生の別れになる。この笄は互いの手を放すための約束の証であり、いつか思い出のよすがとなるものだ。
「ありがとう、阿俱流殿。約束の証は確かに受け取ったと、どうぞ明星媛にお伝えして」
水沙比古よりもいくらか低い位置にある隻眼にほほ笑みかけると、阿俱流はきゅっと左目を眇めた。
その表情に既視感がよみがえる。炎のように揺れる赤銅色の髪が眼前にちらついた。
――あの男の子だ。
今朝の夢に現れた男の子とまったく同じ
かれが私を覗きこもうとしているのか、それとも私がかれの意識野へ潜りこもうとしているのか。双方の力が拮抗しながらぐにゃぐにゃと入り乱れていく。
「……ッ!」
「おっと」
耐えきれずによろめいた肩を大きな手が受け止めた。カメラのシャッターを切るように接続が遮断され、どっと汗が噴きだした。
「いかがされましたか、皇女様」
阿俱流は涼しい笑顔で尋ねてきた。
私は深く呼吸をくり返しながら、少年を凝視した。
「阿俱流殿……あなた、陰視だったの?」
「いいえ」
さらりと返された否定に面食らう。
阿俱流はクツリと喉を鳴らし、私の肩から手を離した。
「
「血筋?」
「私と姉の満瀬は、
耳慣れない響きの言葉。くうぃる、と口の中でくり返すと、冷たい風の匂いを嗅ぎ取った。
「北夷の民が自ら名乗る呼称です。こちらの言葉では『聖なる火の番人』という意味になります。北夷の民は火を司る
「あなたたち姉弟は、確か……その……」
水沙比古から聞いた出自の噂を思いだして言い淀んでいると、阿俱流はおかしそうに笑った。
「北夷の男に略奪された女から産まれたという話でしたら間違いですよ。私の父は風牧の将で、武功の褒美として北夷の巫女を妻に賜ったのです」
「その巫女殿が母君?」
「ええ。しかし時経たずして父は戦傷が原因で亡くなり、身重の母は北夷の郷へ帰されました。私と姉は、伯父に当たる養父の迎えが来るまで母の郷里で育ちました」
阿俱流は言葉を切ると、皮肉っぽく口端を吊り上げた。
「いずれにしろ、
青いまなざしが私の両目を覗きこむ。母親殺しの鵺の眼と父親に忌み嫌われた、呪いのような朱金色の瞳。
くちびるを噛んで俯くと、右手首の手環が視界に入った。
この手環を母に託した顔も知らない祖母は、私と同じ色の瞳を持っていたという。
手環に宿る亡き
「そうね。自分ではどうしようもない理由で疎んじられる悲しみや腹立たしさは、私にも覚えがあるわ。……でも、自分が何者であるか最後に決めるのは、自分自身の心だとも思う」
阿俱流に向けて語りながら、私は自分の気持ちを見つめ直していた。
婆が言っていたような、生まれてきた役目はまだわからない。
だが、夕星という人間は、確かにこの世界の命の連鎖のひとつなのだ。母から子へ連綿と紡がれてきた血脈の糸の末端が、いまここにいる私なのだ。
――ここは夕星の世界であり、『私』の世界でもあるのだ。
手環と同じ紋様を織りこんだ髪紐の持ち主を思い浮かべる。私がどこで生きようと、そばにいて助けてやると笑った少年の海色のまなざしを。
水沙比古の想いに報いたい、あの子に恥じない主になりたい。南の海の温かな波にも似た感情に思わず眉尻が垂れた。
「私は鵺でも鬼でもなく、人の心を持って生きていきたい。死ぬまでこの森から出られないとしても……人として、大切なひとの幸いを願い続けたい」
阿俱流の口元から笑みが消えた。
かれはツイと片眉を持ち上げ、首を傾げた。
「二の皇女様は、生涯幽閉という身の上にご納得されているのですか?」
「……神隼親王のおかげで、もういちど明星媛に会える。どこかへ降嫁される前にお別れを申し上げて、どうか幸せにとお伝えできる。それだけでじゅうぶんよ」
困惑気味に答えると、阿俱流は「なるほど」と呟いた。
「皇女様は物分かりのよいお方でいらっしゃる。身を引き裂かれるほどに定めを恨んだことなどない、素直な気質をお持ちのようだ」
どこか刺々しい台詞だった。眉をひそめる私に、阿俱流は頬を歪めた。
「あなたは、本当の意味で孤独ではないのですね。一の皇女様と違って」
「え?」
「私には、一の皇女様のご心中が痛いほどわかります。たったひとりしかいない、何もかも分かち合って生まれてきた半身だけなのに。失うなんて……奪われるなんて、許せない」
足元の影まで射止めるような、凍えきった声だった。暗く燃える藍方石の瞳に思わず後退る。
阿俱流はひとつ瞬いて笑みを刷くと、慇懃に頭を下げた。
「ご無礼をお許しください。他愛ない戯言と聞き流していただきたく思います」
「あなたは――……」
私は夢の中に現れた男の子たちを思いだした。姿かたちも声も相似形のふたりの男の子。
どちらかが阿俱流なのだとしたら、かれには姉以外の兄弟がいるはずなのだ――おそらくは私と同じ、双子の片割れが。
何かを見落としている気がした。テスト用紙の解答欄に誤って隣の問題の答えを書いてしまったような、すぐそこにある真実に手が届かない焦燥感。
継ぐべき言葉が見つからないまま立ち尽くしていると、阿俱流が朝服の裾を捌いた。
「そろそろ衛士が見回りにくる時間でしょう。また改めて宮にお伺いいたします」
「そう……ね。私も朝食までに戻らないと」
阿俱流はちらりと笄を一瞥すると、舌舐めずりする蛇のようにほほ笑んだ。
「きっと皇女様には珊瑚の赤い花がお似合いですよ。いまから拝見するのが楽しみです」
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