六 火群の宴〈下〉

ほむらのうたげ〈1〉

 私の話を聞き終えた水沙比古は、これ以上ないという渋面だった。

「……二の媛は本気で言っているのか?」

「本気よ」

 きっぱりと即答すれば、イライラした様子で束ねた髪に指を突っこんでいる。白と薄緑で紋様を描いた髪紐をいじりながら低く唸った。

「一の媛を拐かして和多の郷へ逃げこもうとは、大胆なことを考える」

「あら。いざとなったらお祖父様を頼れと、あなたがけしかけたのよ?」

「それはそうだが……」

 水沙比古は視線をうろつかせたあと、ため息を洩らした。

「二の媛を郷に連れていくつもりはあったが、一の媛を勘定に入れていなかった」

 私は苦い笑みを返した。

「私こそ、明星を宮中から攫おうだなんて考えてもいなかったわ。正直、私自身が杣の宮から出ていくことをあきらめていたもの」

 水沙比古の眉がぴくりと震える。途端に刺々しくなった銀碧の双眸に首を縮こめた。

「怒らないでちょうだい」

「怒ってなどいない」

 不機嫌になった水沙比古は怖い。

 私たちがいるのは後宮の外縁部に位置する殿舎の一室だった。物置として利用されているのか、古びた調度などが並んで埃を被っている。人目を避けて密談をするにはもってこいの場所だ。

 神隼との面会後、私は急いで後宮の外で待機していた水沙比古と合流した。これから行おうとしている企みには、和多氏の協力が欠かせないからだ。

 新嘗祭が終わるまでに明星を連れて宮城の外へ脱出する――私と神隼が出した結論である。

「二の媛が和多の郷へ行くことは賛成だ。一の媛のことも、親父どのなら喜んで受け容れるだろう。だが……皇太子もとなると、話は違ってくる」

 水沙比古が頭を振ると、括った髪が疲れきった老犬の尾のように揺れた。

「大皇だけではない。皇太子の後ろ盾である希賀氏も敵に回すことになる。親父どのは大皇のことは心底いけ好かないと嫌っているが、ほかの氏族と事を構えようとは考えていない」

「私と明星だけで逃げるなんてもってのほかよ。逃亡の幇助が露見すれば、神隼の命が危ういわ」

 詰め寄って訴えると、水沙比古は片眉を持ち上げた。

「皇太子で、唯一の皇子だぞ?」

「皇太子で、唯一の皇子であろうとも、よ」

 満瀬や明星は、大皇を赫日の王と呼んだ。何もかも焼き尽くす、燃え盛る日輪のごとき男だと。

 神隼は大皇の影だ。苛烈な光の下では、あえかな影など存在することを許されない。

「大皇にとって、神隼は単なる控えでしかないの。自分の意に反する行動を取れば容赦なく粛清するわ。継母上や希賀氏もろともね」

「……皇太子を殺したところで、妃を新たに迎えて別の子を儲ければよいということか」

「ええ。皇子を遺せなかった白珠媛が亡くなって、代わりに継母上が妃となったときのように」

 口腔に溜まった唾を嚥下すると苦味が広がった。

 大皇の心の中に住んでいるのは白珠媛ただひとり。いまとなっては、母に向けられた感情が愛と呼べるのかどうかすらわからない。

 明星に苦しみを、神隼に悲しみを、私に憎しみしか教えなかったあの男が、私たちの父親であった瞬間などありはしなかったのだから。

「だから神隼も連れていく」

「希賀氏はどうするんだ」

「神隼の名で、希賀氏を含めた諸侯に対して大皇の所行を告発するわ。私欲のためならば皇統を汚し、七洲に災いを呼びこむことも厭わない、廃すべき暗君だと」

 水沙比古は両目を瞠った。

「希賀氏や豪族たちを丸めこんで、正面から大皇を引きずり落とすのか?」

「そうよ。には乱心したという体で皇位を退いていただくわ。即位した神隼の後見は、豪族間の均衡を配慮して複数の氏族から選んだほうがいいわね」

「どうやって豪族たちを……なるほど。親父どのの威光を借りるつもりだな」

 私は頷いた。皇と対等な勢力を誇る和多氏が味方についてくれれば、諸侯は屈服せざるを得ない。

 大皇の専横が続けば、堪気に触れて理不尽に殺される者が必ず現れる。犠牲はひとりやふたりではとどまらず、いくつもの郷が焼き払われ、氏族ごと滅ぼされるだろう。

 ……北夷の民のように。

 かつて母を妃に迎える際、大皇の周辺で起こったいくつかの血腥い出来事はだれもが憶えているはずだ。目覚めさせてはならない、狂わせてはならない赫日の王の片鱗を、人びとはおそれおののきながら見なかったふりをしている。

 母の死と引き替えに私が生まれた日、軛はとっくに外れてしまっていたのに。

「二の媛の考えはわかった」

 水沙比古は腕を組み、眉根を寄せて私を見据えた。

「だが、無事に逃げおおせたとしても間違いなく血が流れるぞ。大皇の掌中から一の媛も皇太子も奪い取っていくんだ。争乱にならないはずがない」

 厳しい口調に胸が軋んだ。

 水沙比古と出会ったときに浮かんだヴィジョンがよみがえる。

 血にぬめる褐色の手。私の手を掴み、もう片方の手には炎の揺らめきを照り返す刃を握っている。

「約束した。二の媛が嫌がるなら、だれかを傷つけたり、殺したりするような真似はしないと。だが、二の媛が望むなら――そうしなければあんたを守れないのだとしたら、ためらわない」

 おれは、と、水沙比古は断言した。

「二の媛はそれでいいのか」

「……私は夕星よ。破滅を告げる凶星なの。生まれたときから、

 なんて痛烈な皮肉だろう。思わず自嘲が滲んだ。

 夕星わたしは大皇を滅びへと導く嚆矢となるべく黄昏のそらからこぼれ落ちたのかもしれない。もしもこの両目で呪い殺せるのなら、いますぐあの男の前に立ち塞がってやるのに。

 この先悔いが残るとすれば、水沙比古に手を汚させる選択を取らせたことに対してだ。

「ごめんなさい。巻き添えにしてしまって」

 水沙比古は不服そうに顔をしかめると、大きな手をこちらに伸ばしてきた。

 褐色の指先が頬を掠めて喉元に触れる。縊り殺されかけた痕跡をなぞられ、ばつが悪くなって俯いた。

「おれは一の媛なんてどうでもいい。正直、張り飛ばしてやりたいぐらいだ」

「……あなたに張り飛ばされたら、明星が死んでしまうわ」

「殺したりしない。傷つけもしない。二の媛が守りたいと望むから、おれもそのようにするだけだ」

 ただそれだけの相手だと、水沙比古はきっぱりと言い放った。

「おれにとって大事なのは二の媛だ。何があってもあんたを優先する。それだけは譲らない」

 たまらなくなって少年の手を取った。

 ごつごつとした手を両のてのひらで包みこむと、水沙比古はこそばゆそうに睫毛を震わせた。

 躊躇するような間を置いて、もう一方の手が私の両手の上に重なる。

「二の媛は、もう少し自分を大事にしたほうがいい」

「私は自分のことばかりよ。いっしょに死んでくれと縋りつく明星の手を振り払ったわ」

「当たり前だ」

 水沙比古の声は怒りに掠れていた。「生きたいと思うのは、当たり前だ」

 生きて、かれの前にいることが嬉しくて、悲しかった。

 確かに私と片割れはふたりでひとつだったはずなのに、それでは満足できなくなってしまった。

 ――明星は、きっと私を許さない。

「私、海が見たいわ」

 失敗したような笑顔で打ち明けると、水沙比古はきょとんと瞬いた。

「前世で、家族と海に行ったの。『私』の世界では海水浴といって、夏になると海で泳いだり浜辺で花火をしたり……ああ、こちらに花火はないわよね。なんて説明したらいいのかしら」

「都の貴人が磯や浜で遊興するようなものか?」

「そうね、それに近いかも。子どものころは泊まりがけで海辺の町に連れていってもらったわ。夏の陽射しに照らされた銀色の海をいまも憶えている」

 銀碧の双眸を覗きこむと、戸板の隙間から射しこむ光に透過して仄白く輝いていた。遠く懐かしい、あの世界の海を閉じこめて。

「水沙比古から和多の郷の話を聞くたび、見てみたいと思いが募ったわ。夕星わたしが生まれた世界の、七洲の海を」

 焦がれ続けた海を明星と見ることは、おそらく叶わない。

 自由になった片割れの手は私とつながってはいないだろうから。

 水沙比古の手に力がこもった。

「見られるさ。おれが見せるよ、二の媛に。これがあんたの故郷くにの海だと」

 真白い歯を覗かせて水沙比古が破顔する。打ち寄せる潮風の香りに包みこまれ、眼窩の奥が熱くなった。

「水沙比古」

 声が情けなく震えそうだ。水沙比古の手を握り返すと、長い指がかすかに跳ねた。

「お願い――私を離さないで」

 水沙比古が吐息を洩らした。

 握りしめた手ごと引き寄せられ、鼻先が甲の肩部に当たった。頬をくすぐる癖毛から汗と日向の匂いがする。

 舟乗りらしい堅い手がゆっくりと背中を撫でさする。

 喉の奥から嗚咽をえずくと、水沙比古が覆い被さってきた。まるで自分の体で隠そうとするかのように。

「うん。ここにいるよ」

 穏やかな波音を思わせる声に甘えて瞼を閉じる。

 片割れではないひとの腕の中、たったひとりでこの世に生まれ落ちたような孤独を噛みしめた。

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