いさなのこどく〈2〉

 前世の記憶という秘密を水沙比古に打ち明けてから、状況が劇的に変わった……ということはなかった。

 何しろ、水沙比古自身が以前と変わらぬ態度で接してくるのだ。打ち明けた翌日、どんな顔で迎えればいいのか悶々と悩んでいた私に、かれが発した第一声は「今日は握り飯をいくつ食べていい?」だった。

 私の頭がおかしいと思わないのかと尋ねると、水沙比古は仔犬のように両目をくるめかせて不思議がった。

「二の媛は陰視なのだろう? なら、徒人にはないものを持って生まれてもおかしくない」

 和多の郷にも陰視がいたが、かれらは忌避されるどころか尊ばれる存在だったらしい。

「陰視は風や潮の流れを読むことがうまい。だから舟乗りになると重宝される。おなごであれば、嫁入りまで海神の社に巫女として奉仕する。海神の巫女になった娘と縁づくと海難に遭わないと信じられているから、嫁に欲しがる舟乗りは多い」

 土地が違えば境遇も違う。和多の郷に生まれた陰視を羨ましく思った。

 もしもと考えたところで詮ないことだ。出会ったときからまっすぐ私の目を見る水沙比古がそばにいてくれる僥倖を噛みしめ、私は祭の足音を遠くに聞いていた。

「一の媛に会えるかもしれない」

 いつものように宮を訪れた水沙比古は、いつもより緊張した顔で告げた。

 粗末な古宮には隙間風が吹き抜けるようになり、寒がりな婆のために真赫が調達してきてくれた火鉢が欠かせない季節になった。

 熾したばかりの火をつついていた私は、うっかり火箸を取り落としそうになった。

 慌てて周囲を見回す。

 ほかの宮人は来ておらず、糸繰りの仕事を終えた婆は疲れたと言って控えの間で午睡を取っているはずだ。

 私は火箸を灰に突き刺し、甲を脱いであぐらをかいた水沙比古のそばへ膝行った。

「姉様に会えるかもしれないとは、どういうこと?」

 声を潜めて尋ねると、水沙比古は眉間に皺を作って唸った。

「今日、阿倶流あくるという舎人とねりに話しかけられた」

 水沙比古によれば、阿倶流は皇太子――異母弟の神隼に仕えているらしい。

「神隼の……?」

「二の媛と会えなくなってから、一の媛は食事が喉を通らないほど消沈しているそうだ。心配した皇太子は、密かに手引きして二の媛を一の媛に会わせようと考えていると言っていた」

 ぎゅっと胸を引き絞られる。水沙比古は私の表情に眉をひそめた。

「一の媛の侍女に満瀬みつせという娘がいる。阿倶流の姉で、一の媛に会うために協力してくれるそうだ」

 まさに渡りに舟と言わんばかりのお膳立てだ。だが、私は警戒せずにはいられなかった。

「それは……神隼の名前を使って継母上ははうえが私を誘いだそうという罠ではない?」

 水沙比古は束ね髪に指を突っこんで掻きむしり、ううんと唸った。

「阿倶流の素性について探ってみた。北征将軍ほくせいしょうぐんの推薦で皇太子の側仕えに上がったらしい」

「北征将軍? 風牧かざまきの氏長の?」

 風牧氏は、ここ三十年あまりで台頭してきた新興の豪族だ。

 もともと七洲の東にある平野部を勢力圏とする地方豪族で、良馬を生産する馬司うまのつかさの一族と知られる。

 先代の氏長のころから騎馬兵団を組織し、七洲の北方に暮らす異民族――北夷ほくいの征伐で武功を挙げた。

 確か、私が生まれる前後に大規模な征伐が行われたはずだ。北夷の民は壊滅的な被害を受け、わずかな生き残りは北限の海峡を越えた氷波弖ひはて列島まで追いやられたと聞いた。

 華々しく凱旋した当代の氏長は北征将軍の称号を賜り、一気に大皇の側近としてのし上がった。

 もちろん、古くから皇に仕えてきた中央の豪族たちが快く思うはずもない。

 継母は中央の豪族のひとつである希賀きが氏の出身だ。風牧氏とは対立関係にあり、目障りな継子を計略にはめるためだけに手を結ぶとは考えにくい。

「北征将軍は大皇の寵臣だわ。継母上は関与していないとしても、その舎人から大皇の耳に入ったりしないかしら?」

「危険がないとは言い切れぬ。だが……一の媛に近づくまたとない好機だ」

 水沙比古はまっすぐ私を見つめた。

「二の媛はどうしたい? おれは、二の媛の判断に従う」

 私の従者だと言った少年のまなざしは、胸の奥から容赦なく感情を引きずりだした。

「会いたいわ、姉様に」

 水沙比古はほほ笑んだ。「うん」

 私は迷いながら言葉を継いだ。

「でも、見ず知らずの人に運を委ねるのは……不安だわ」

 袍の袖口をいじりながら訴えると、水沙比古はにたび頷いた。

「二の媛の気持ちはわかる。なあ、阿倶流に会ってみないか?」

「えっ!?」

 予想外の提案に仰天した。

 水沙比古は肩を竦め、「その気があるなら連れてくる」と言った。

「で、でも、皇太子の舎人が私のところに来たなんて知られたら……」

「大丈夫だ。あいつはおれと似たようなものだから」

 七洲人らしからぬ色素の薄い髪を引っ張り、水沙比古は目を細めた。

「阿倶流は異人まれびとだ。北夷の血が混じっている」

「え……でも、風牧の氏族の出なのでしょう?」

「いや。宮人のあいだの噂では、北夷の略奪に遭った女が産み捨てた鬼子らしい。境遇を憐れんだ北征将軍が姉の満瀬ともども養い子として引き取ったそうだ」

 鬼子という単語にどきりとした。

 水沙比古によれば、阿倶流は鮮やかな赤毛と白珊瑚のような膚を持つ隻眼の少年なのだという。

 異民族の特徴が濃く出た容姿のせいで、周囲からは腫れ物に触れるかのごとく扱われているそうだ。後見人である風牧の氏長をおそれて水沙比古や真赭たちのようにあからさまな差別はされないものの、宮中では異分子だった。

「杣の宮は爪弾き者の吹き溜まりと言われている。阿倶流がここへ来ても不審に思われることはない」

「周囲の認識を逆手に取るというわけね」

 それでも危うい綱渡りには違いない。

 ふと、灰に埋もれた熾火が目に留まった。ゆるやかな明滅のリズムに合わせ、カラリカラリと糸車の音が聞こえてくる。

 燃え立つような赤銅色が脳裏に閃いた。

 広野を吹き抜ける北風あなじの乾いた匂い。草の海を駆ける駿馬の群れ。

 赤い染め糸の束が炎のごとくうねっている。いいや、これは人毛だ。

 長髪を風に靡かせた人物がゆっくりと振り返る――

 の顔が向き直る寸前、炭が爆ぜる音にイメージが弾け飛んだ。

「どうかしたか?」

 水沙比古が怪訝そうに顔を覗きこんできた。

 私は息を吐き出した。

「糸が手繰り寄せられている……」

「いと?」

「人と人を結ぶ縁の糸……と言えばいいのかしら。それが強く引っ張られている。阿倶流という舎人と会うべきなのだと感じたの」

 糸を引く手は潮流に似ているかもしれない。

 目に見えずとも確かに存在する、大いなる力のうねり。

 ――私という舟の航路は、水沙比古なくして定まらない。

「あなたは鶚のようなひとね」

「みさご?」

覚賀鳥かくがのとりよ。昔話を知っている? 七洲の平定の途中で行方知れずになった皇子を探して、かれの妃が国じゅうを旅するのよ」

 ある浦を訪れたとき、「がくがく」という不思議な海鳥の鳴き声が聞こえた。

 もしや海鳥に姿を変えた皇子が自分を呼んでいるのではないかと思った妃は、沖まで舟を出して探し回った。しかし海鳥は見つからず、妃は悲嘆に暮れた。

「そこへ一艘の小舟が通りかかるの。小舟にはみすぼらしい身形の漁師が乗っていて、何を悲しんでおられるのかと尋ねるの」

 妃は涙ながらに、不思議な声をした海鳥を捕まえてくれないか、もしかしたら姿を変えた夫かもしれないのだと訴えた。

 すると、漁師は魚籠びくの中から大きな蛤を取り出し、妃に差し出した。

「覚賀鳥はなかなか姿を見せないから捕まえることは難しい。けれど、あなたの夫はこの蛤のように対の貝殻を忘れたことはありません……そう言ってほほ笑む漁師は、実は行方知れずの皇子だったという内容よ」

 貝が口を閉じるように両のをぴったりと合わせてみせる。

 貝覆いの遊びに使われる蛤は、あわびと同様に男女の和合を象徴する。

「私は背の君を探す妃ではないけれど、覚賀鳥に導かれた彼女はこんな気持ちだったのかと思うわ。水沙比古は、どんな荒波にも果敢に飛びこんでいく私のしるべの鳥よ」

 水沙比古はむず痒そうに口を引き結んだ。

「おれは……二の媛の従者だから。主人を助けるのは当然だ」

「とても感謝しているわ。ねえ水沙比古、何かお礼にできることはないかしら」

「別に、礼なんて」

 しきりに後ろ首を掻いていた水沙比古は、思いついたように「あ」と呟いた。

「髪紐」

「髪紐?」

「うん。ちぎれそうなんだ、ぼろぼろで。二の媛は糸繰りが得意なのだろう? それなら、紡いだ糸で髪紐を編んでくれないか」

 水沙比古は後ろを向いて束ね髪の根元を見せた。

 使いこまれた様子の髪紐は、いつぷつりと切れてしまってもおかしくない。

「わかったわ。切れないように丈夫な糸で作るから」

 かれにはどんな色の染め糸が似合うだろうか。髪色が薄いから、明るくて鮮やかな色がいいかもしれない。

 水沙比古は銀碧の瞳を細め、嬉しそうにはにかんだ。

「楽しみだ。とても」

 少年の笑顔は、火鉢の熱よりも温かく私の胸に沁みこんだ。

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