三 鯨の孤独

いさなのこどく〈1〉

 祭の日が近づいてきても、閉ざされた宮で暮らす私の周囲になんら変化はない。

 下級の宮人は、あちこちの準備に連日駆りだされて慌ただしいようだ。真赫のおしゃべりの八割は仕事に関する愚痴になるし、手先の器用な白穂は殿舎の修繕やら祭で使う道具類の製作やらに酷使されて見るたびに顔色が悪くなっていく。かれのために婆が特製の薬を煎じてやるのも例年のことだった。

 水沙比古は黒金やほかの衛士とともに、各地から運ばれてくる献上品を倉院へ納める力仕事に従事している。

 舟と陸のあいだを重荷を担いで何十回と往復することに慣れている少年は、現場でたいへん重宝されているようだ。宮へ顔を出すたびに腹を空かせているので、真赫に頼んで多めに炊いてもらった米で握り飯を用意しておくようになった。

 今日も元気に腹の虫を鳴かせながらやってきた水沙比古は、三個並んだ握り飯にパッと表情を輝かせた。

「食べていいか!?」

「どうぞ、召し上がれ」

 律儀に私の許可を得てから勢いよくかぶりつく。

 世界が変わっても体育会系男子の食べっぷりは見応えがある。前世の弟も運動部員だったから、わが家の炊飯器は毎朝八合フル炊きだった。

 日焼けした頬をいっぱいに膨らませた水沙比古は、余計に小さな男の子に見えた。もぐもぐと忙しない口元に米粒がひとつふたつくっついている。

 思わず笑みがこぼれた。

「お弁当がついているわよ」

 米粒を取ってあげると、銀碧の瞳が瞬いた。まだ浅い喉仏がごくんと浮き沈みする。

「おべんとう?」

 不思議そうな表情に、しまったと思った。

「えっと、口元についた食べ滓のことよ。本当は、外出先に持っていく食事のことなんだけれど」

「妙な言い方をする。二の媛は」

「そ、そうかしら?」

 水沙比古は指についた米粒を舐め取りながら、両目をくるめかせた。

「たまに思う。ここではない国から来たのではないか。二の媛も」

 息を呑んだ。

 懐かしい世界の海の色をしたまなざしは、胸の奥に秘め隠した感傷を見透かしているようだった。

「……どうして、そう思うの?」

 戸惑いを取り繕うことも思い浮かばず、私は率直に尋ねていた。

 水沙比古は次の握り飯にかぶりつきながら首を傾げた。

いさなを知っているか?」

「いさな……くじらのことだったかしら。潮を噴く、山のように大きな魚でしょう?」

 明星から聞いた祖父の話によれば、この世界の海にも鯨が存在し、七洲では昔から捕鯨が行われているらしい。和多の郷では、鯨の肉は祝いの席でふるまわれる特別なご馳走なのだという。

 水沙比古はこくりと首肯した。

「そうだ。鯨は、群れで海を渡ってくる」

 少年の口元に笑みが広がる。

「海面が盛り上がったかと思うと、黒い山が現れる。ひとつじゃない。どんどん黒い山が立ち上がって、舟より大きな尾びれを翻して海に飛びこむんだ」

 巨大な海洋生物の群舞を思い浮かべているのか、興奮と感嘆がこもった語り口に鯨の尾びれが立てる波の音が聞こえてくる気がした。

 水沙比古から強烈な潮の香りが吹きつけた。一瞬のまぼろしは、前世の『私』が知るものによく似ていた。

「だが、たまに群れからはぐれてしまうものがいる」

 口調を変えた水沙比古の声に、潮風のイメージはふっと消えた。

 最後の握り飯を咀嚼しながら、水沙比古は「昔、群れからはぐれた鯨の仔を見た」と言った。

「たった一頭、ずっと和多の沖に留まっていた。舟が通りかかると、親やほかの鯨ではないかと思って近づいてくるんだ。ぶつかって舟が沈んだら大変だ。漕ぎ手が艪で頭を叩くと、慌てて逃げていった」

 迷子の鯨は、何度も舟に近づいては追い払われるということをくり返していたらしい。探している群れは、とうに遠い外洋へ泳ぎ去ってしまっていたのに。

 満足に魚を獲ることもできない幼子が生き延びれるはずもなく、ある朝、とうとう和多の浜辺に動かなくなった鯨の仔が打ち上げられた。

「鯨の仔は傷だらけで、虫の息だった。こんな風に、おれも流れてきたのかと思った。鯨の仔は助かるのかと親父どのに訊いたら、『鯨は陸では生きられない』と首を横に振った」

 握り飯を平らげた水沙比古は、白湯を一気に飲み干すと息を吐いた。

「忘れられない、鯨の仔の眼が。射干玉のような眼が海水に濡れて……泣いていた。じっとおれを見つめて、自分はなぜここにいるのかと、どこへ向かえばいいのかと、叫んでいた」

「その仔は……どうなったの?」

 こわごわと尋ねると、水沙比古はきゅっと眉根を寄せた。

「死んだ」

 わかりきっていた答えだった。苦い感情が喉を塞いで、「そう、よね」と呟く声は掠れていた。

 頭のどこかで、鯨の仔が助かればいいのにと考えていた。やさしい大人が手を差しのべて、水沙比古のように救われたらよかったのにと。

「二の媛は、ときどき、鯨の仔と同じ眸をする」

 水沙比古は空っぽになった椀をいじりながら、そっと私を窺った。

「二の媛を見ていると、ひとりぼっちで途方に暮れていた、あの鯨の仔を思いだす。帰る場所も向かう場所もわからなくて、ずっと泣いている」

 本当に涙が出るかと思った。

 名前もわからなくなってしまった『私』の感情が強く揺さぶられた。

 帰れるものならば帰りたい。『私』の家に。『私』の世界に。

 すり切れた記憶が駆けめぐり、やがて紫色の双眸が浮かんだ。

 いつかいっしょに海が見たいと言った明星のまなざしが楔のように胸の奥深くまで突き立てられる。

 ――私の片割れ、私の愛子。

 私を夕星わたしたらしめる、たったひとつのよりどころ。私が迷子の鯨ならば、明星は波間に見えた湊のあかりだった。

 けして届かない、希望という名の絶望。

 鯨は陸では生きられない。明星が立つ場所に私は存在できない。

 余計なものばかり視る両目をくりぬいても、私は暗い夜空へ墜ちていく夕星だ。

「わたし――」

 眼球がひりひりと痛む。眉根を寄せて水沙比古を見つめると、浅黒い指が目元に触れた。

「落ち着かない」

 水沙比古はむすりと呟いた。

「え?」

「その顔だ。二の媛が泣いていると、ざわざわする。ここが」

 少年はもう片方の手で冑の胸元を叩いた。

「……泣いていないわ」

 自然と苦笑が洩れた。

 水沙比古の手の熱が瞼に染みて、視界が滲んだ。

 ぽろりとひと粒、瞬きのあいだに涙がこぼれ落ちる。水沙比古の表情がぎゅっと歪んだ。

「我慢するな」

「そんなつもりはないのよ。ただ……私はいつも泣いている姉様の慰め役だったから」

 涙の痕を拭おうとして阻まれた。親指の硬い腹が頬をなぞる。

「我慢してきたのか。一の媛のために」

 水沙比古の追及に言葉を見失う。

 明星の前で涙したことがあっただろうか。あの子の腕に抱きしめられたことがあっただろうか。

 出会ったときから逆だった。だって『私』は明星より年上で大人だから。

 ――ならば夕星わたしは。ここにいる私は、いったいだれ?

「二の媛?」

「……明星のためなんて、聞こえのいい理由ではないわ。私は、弱くてみじめな自分を認めたくなくて泣けなかっただけよ」

 皺が寄るほど裳を握りこむ。強張った肩がぶるりと震えた。

「水沙比古は、和多の浜に流れ着く前のことを憶えていないと言ったわね」

「うん」

「私はね……私は、憶えているの」

 育て親の婆にすら打ち明けようと思ったことなどなかったのに、鉛より重く凝った感情はつるりと喉の奥から押しだされた。

「七洲に、この世界に生まれる前の記憶があるの。そこで『私』は……幸せな子どもだった。恵まれていたと思うわ」

「名前は? なんと呼ばれていたんだ、そこで」

 私は泣き笑うように顔をくしゃくしゃにした。

「わからないの」

 銀碧の瞳が揺れる。水沙比古は驚いたように息を呑んだ。

「最初に忘れたのは自分の名前だった。次は友達や家族の名前。声も、顔も……だんだん曖昧になっていくの」

 前世の父母や弟の顔を思いだそうとしても、まるで滲んだ水彩画のようにぼやけてしまう。

 新聞を読む父の空返事、それに怒る母の小言。変声期を過ぎたばかりの弟は、どんな声で「ねえちゃん」と呼んでいたのだろうか。

 聳え立つ岩壁が少しずつ波に削られるように『私』が失われていく。

 止めどない虚しさの中に取り残された夕星わたしは、死を待つばかりの迷子の鯨だ。

「何度も何度も、鯨の仔のように考えたわ。どうして『私』は死ななければならなかったのか。どんな役目を負ってこの世界に生まれてきたのか。いまも、わからないままよ」

 婆の言うとおり、夕星の生に意味など本当にあるのだろうか。

 熱くて大きなてのひらが両の拳を包みこんだ。

 爪が食いこむほど折り曲げた指をそっと広げられる。しっかりと私の手を握り、水沙比古は下から覗きこんできた。

「親父どのがおれを助けたときの話。憶えているか」

「……ええ」

「役目があるから、おれは生き延びたのだと言われた。きっとおれの役目は、ニの媛を助けることだ」

 水沙比古は白い歯を見せて笑った。呆気に取られるほど晴れやかに。

「おれは二の媛の従者ずさだ。従者の役目は、主人の助けになることだ」

「水沙比古の主人は、お祖父様ではないの?」

「少し違う。親父どのは、二の媛の助けになれと言った。だから、おれは二の媛のためにここにいる」

 ぎゅ、と水沙比古の手に力が入る。

 海色の瞳が揺らめいている。自分の視界が水気を帯びているのだと気づいた途端、ほろほろと涙がこぼれ落ちた。

「私の――そばにいてくれるの?」

「いるよ」

「私、きっと一生この宮から出られないわ。明星のように降嫁することもない。和多の郷にも帰れないかもしれないのよ」

 水沙比古は眉尻を垂らした。

「帰れないのは残念だが、二の媛がひとりぼっちで泣くよりずっといい」

 どこまでもやさしい言葉に、とうとう嗚咽が洩れた。

 水沙比古の両手を額に押し戴いて俯くと、後頭部に尖った鼻先が触れた。

「二の媛の護符になるよ。二度と嵐の海で迷わないように、おれがいっしょに泳いでいく」

 私は震えながら水沙比古の手を握り返した。

 海の底にも似た暗い森の宮で、私はかけがえのないよすがを手に入れた。

 手繰り寄せた糸の先に待つものを、私たちはまだ知らなかった。

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