わだつみのおとしご〈3〉

 和多の郷から遣わされた少年、水沙比古はするりと日常に溶けこんだ。

 翌日には衛士の黒金くろがねに連れられて堂々と宮に現れた。唖然とする私を前に、満面の笑顔のかれは困り果てた様子の黒金から「和多の郷の出で、白珠媛の御子のお顔をひと目見たいと頼みこまれちまいまして」と紹介された。

 黒金は真赫と同郷の宮人だ。呼び名どおり真赫よりもっと色黒で、ずんぐりとしたヒグマのような体躯をしている。もじゃもじゃとした髭まみれの強面だが、水汲みや薪割りなどの力仕事を快く引き受けてくれたり、傷んだ床や戸を修繕してくれたりする親切な男性である。

 もうひとり、真赫や黒金と同じく宮に出入りしているのが木工の白穂しらほだ。かれは黒金と対照的に針金のように痩せていて、腺病質なのか常に顔色が悪い。

 寡黙でめったに口を開かない男性だが、手先が器用で細々とした生活用品を簡単にこしらえてくれる。糸繰りの道具も、すべて白穂が作ってくれたものだ。

 真赫たち三人は渡来民の混血で、出自ゆえに宮中では苦労が絶えないという。ほかの宮人の目が届かず、浮世離れした婆や外界の事情に疎い私しかいない宮でなら気を張らずに過ごせるようだ。爪弾き者だからこそ私たちの境遇に同情し、手を差しのべてくれる。

 水沙比古が黒金に接近したのも、『和多の郷人に助けられた孤児』という身の上を巧みに利用してのことだった。和多の縁者というだけで、宮中では針の筵に置かれるに等しい立場になるからだ。大型犬めいた人懐っこい性格も助けて、面倒見のよい黒金や真赫にすぐにかわいがられるようになった。

 婆は水沙比古の正体に気づいているのかいないのか――いや、気づいていないはずがない――「若禽わかどりのような威勢のよいおのこだこと。何やらこちらまで張り合いが出ますのぉ」とのんびりと笑うばかりだ。もともと人を食ったようなところのある巫女だが、近ごろはますます何を考えているのかわからない。

 水沙比古は約束どおり、宮を訪れるたび野の花を一輪携えてくる。

 明星の瞳によく似たまつむしそう、宵の空の色をしたききょう、愛らしい黄色の花が群がって咲くおみなえし。秋の翳りが日に日に色濃くなると、緑から赤へと見事な濃淡を描くかえでを一枝。

「いつもありがとう」

 美しく色づいたかえでの枝を受け取ると、水沙比古は眉尻を垂らして肩を竦めた。

「次は難しいかもしれない」

「え?」

「このごろ、警備が厳重だ。騒がしい。宮城じゅうがそわそわしている」

 脱いだ冑を無造作に放りだし、あぐらを組んだ膝に頬杖をつく。真赫たち以上に水沙比古は身分に頓着しないらしく、私はそれがなんとも新鮮で嬉しかった。

 水を張った盆にかえでの枝を挿しながら、「もうすぐ祭が近いからよ」と答える。

「祭?」

新嘗祭にいなめのまつりよ」

 新嘗祭とは、その年の新穀を皇の祖神おやがみである照日子大神てるひこのおおかみ月夜見比売つくよみひめに供え、大皇とその妃が食することで収穫の感謝を捧げる祭祀だ。

 年賀の祝いのように各地から豪族の首長を招くわけではないが、国産みの神のすえとして王権を打ち立てた皇にとって欠かせない祭事に数えられる。あちこちの天領から供物や献上品が運びこまれ、人の出入りも増える。宮中の取り締まりが厳しくなるのは自然な成り行きだ。

 水沙比古はこてりと首を傾けた。

万祝まいわいのようなものか? 和多の郷では、漁期の終わりに海神わだつみに感謝と祈りを捧げる祭を開く」

「和多の民は、海神――深多万比売みたまひめを信仰しているのだったわね」

 海の底の宮に住む女神・深多万比売は、見目麗しい乙女とおそろしい竜蛇、ふたつの姿を持つという。多情で苛烈、奔放な性状の持ち主で、嵐の海に沈んだ舟乗りは水底の御殿に連れ去られて永遠の虜にされてしまうとかなんとか。

「ああ」水沙比古は神妙な顔で頷いた。

「祭祀を怠れば海神の機嫌を損ねて大変なことになる。大昔、祭祀をおろそかにしたら何年も不漁が続いた挙句、大津波に湊がひとつ呑まれたそうだ」

「まあ……」

「氏長の娘が生贄になると言った。沖に出した舟の舳先から海に飛びこんだ。その後、ようやく海神の怒りが解けたそうだ」

 思わず眉根が寄る。

「そこは若者ではないの? 深多万比売は、恋多き女神なのでしょう?」

 少年の口元がニヤッと笑った。

「なんだ、二の媛は知らないのか。海神は半月はにわりだ」

「はにわり?」

「豊かなおなごの体に、男のがついている」

 私はぎょっと目を剥いた。

「あっ――あれって」

「男も女も抱ける体なんだ。嵐に乗って若い舟乗りを攫い、恋人を追って海に身を投げた娘も連れていく」

 じわじわと耳の先まで熱くなる。莫迦みたいに口を開けたり閉めたりしかできない私の顔を覗きこむように身を乗りだした水沙比古は、右手首の護符を掲げた。

「だから和多の女たちは、夫や恋人が海神に見初められないよう二枚貝の紋様を織りこんだ手環を編んだ。一対の貝殻のように、恋しいつまをどうか連れていくなと願って。続いた習わしが、護符になった」

「――なるほど」

 二枚貝の紋様が女神の多情を退けるものだったとは。私は火照った頬を押さえ、なんとか「興味深い話だわ」と返した。

「女でも男でもあるなんて……自由気ままな神様なのね」

 水沙比古はきゅっと下瞼を持ち上げた。

「寂しいんだ。ひとりぼっちだから」

 不意に染み入るような声音に、私は瞬いた。

 手環のたわみをもてあそびながら、水沙比古は淡々と呟く。

「日の神と月の神のように、まぐわえる相手にめぐり会えなくて。海神の宮に連れ去られた人間の魂は、いつかあぶくになって消えてしまう。だから寂しくて寂しくて、また嵐を起こして舟乗りを攫うんだ」

 ――海の底は、暗くて冷たいから。

 まるで見てきたかのような口ぶりだった。気圧されて言葉を失う私に、水沙比古はへらりと笑った。

「おれ、七つか八つぐらいの歳で海に流されたんだ。運よく和多の浜に流れ着いたが、名前も、生まれ故郷も、何もわからなかった。ひとつだけ――海の底の、真っ暗な闇だけ憶えている」

「何……も?」

「うん、何も。手がかりになりそうなものも身に着けていなかったと、親父どのが言っていた。たぶん、異国の生まれだろうとしか」

 幼い水沙比古はまともに言葉を話すことすら覚束なかったらしい。記憶も行き場もない少年を手元に引き取り、根気強く教育を施した恩人こそ祖父だった。

 親父どのと呼ぶ声音や表情の端々には曇りのない敬愛が滲んでいる。愛され、慈しまれて育った子どもらしい素直さだ。

 ちくりと胸を刺した羨望に目を伏せ、私は笑みを返した。

「あなたが深多万比売に連れていかれなくてよかった」

 水沙比古は小さく瞬いた。

「寂しい闇の淵ではなく、陽が照らす陸の上へ、お祖父様のいらっしゃる和多の郷へ逃れてくれてよかった。きっといとけない幼子を連れていくのが忍びなくて、神様が情をかけてくださったのね」

「……二の媛は変わっている」

 思いもよらない評価に眉を持ち上げると、水沙比古は片手で髪を掻き混ぜた。

「海神から逃げ延びられてよかったなんて、親父どのにしか言われたことがない」

「助かることが、どうしていけないの」

「浜に打ち上げられたおれを見つけた和多の衆は、海神の許に送り返そうとした。海で溺れた者は海神の供犠となる。おれを助ければ、海神の怒りを買うと考えるのが当然だ」

 絶句する私に、水沙比古は浜に流れ着いた人間――ほぼ水死体であるという――は海に還される習わしなのだと説明した。たとえ息があっても、助かる見込みは限りなく低いからだとも。

 ならば、なぜ祖父は水沙比古の命を救ったのだろうか?

「知らぬ」

 当の水沙比古はあっけらかんと言い放った。

「親父どのに尋ねても、助かったのだからよいではないか、役目があるから生き延びたのだろうと言われた。そう感じたから、助けたのだと。おれを舟に乗せたら海神の祟りが下ると和多の衆が騒いだとき、海神の呼び声を退けたおれほど心強い護符はないに決まっていると笑い飛ばして、自分の舟に乗せてくれた」

 水沙比古は息を吸いこみ、眉尻を下げて破顔した。

「だから、郷でいちばんの舟乗りになろうと思った。嵐にも負けぬ、おれが乗る舟は和多でいちばん安全だと誇れる舟乗りに」

 まぶしさにも似た感覚に、私は両目を眇めた。

 護符の巻きつく右手が伸びて、私の手を握った。唐突な接触に肩が跳ね上がる。

「安心してよいぞ、二の媛。おれを手元に置いておけば、どんな不運も逃げていく。和多の氏長の覚えもめでたい最強の護符だ」

 白い歯を見せて笑う少年につられ、私は思わず笑声をこぼした。

 潮風に育まれた水沙比古の手は、大きく精悍で、海原を照らす太陽のように熱い。

 この子が救われ、いまここに在ることに、ただだだ感謝した。

 水沙比古の手に比べればあまりに細く、弱々しく、糸繰りしか知らない私の手。誇れるものだと何もないけれど、ありのままの私でいいのだと、不思議なくらい自然に思えた。

「頼りにしているわ」

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