わだつみのおとしご〈2〉

 懐かしい夢を見た。

 眦に溜まった涙を拭い、私は床から起き上がった。

 いつものように下級宮女の装束に袖を通し、髪を結い、襲を被る。控えの間でいびきをかいている婆の脇を通り抜け、沓を履いて宮を出た。

 早朝の森には薄白く靄が漂い、草の露が冷たく裳裾を濡らした。木立のあわいに見え隠れする影から目を逸らし、私は森のほとりを目指した。

 ざわざわと揺らめく梢の陰影が私の心を掻き乱す。裳が絡みつく両脚が重い。

 ――私たちはどこにも行けないのだと思い知らされるかのようだった。

 昨日、逃げ帰ってきた私を出迎えた婆はうっそりと皺深い眸を眇めただけだった。いつもどおり糸繰りの仕事を行い、真赫が用意してくれた食事をおいしそうに平らげていた。

 何も言われずとも、私には理解できた。

 婆が終わりを口にした――それがすべてなのだと。

 樹影のむこうに殿舎の屋根が覗いた。

 私は息を呑んだ。

 殿舎の縁に佇んでいたのは明星ではなく、甲冑を長身に帯びた衛士だった。

 釣り灯籠の残り火に褐色の膚がてらてらとぬめっている。間違いない、昨日の衛士だ!

 どうして、と思わず口の動きだけで呟いた。

 呆然と立ち竦んでいると、周囲を警戒するように見回す衛士の顔がこちらを向いた。

 ひらりと揺れる襲の裾。

 視線が結ばれる。逃げなければと思うのに、鉄の矢で射抜かれたかのごとく動けない。

 瞬きすら忘れるほどの威圧感に、私は呑まれていた。

 衛士が階を下りてくる。

 不思議なことに、かれは足音どころか具足の軋みもほんのかすかにしか聞かせなかった。下生えの草を踏む音は、ささやかな葉擦れのようだ。

 近くに来ると、遠目で見るよりも背の高さが際立っている。小柄な七洲人の中では飛び抜けて目立つに違いない。

 手を伸ばせば襲の裾を捕まえられる位置で立ち止まり、衛士が口を開いた。

「――りんどう」

「えっ?」

 声がひっくり返った。

「りんどう。落とさなかったか、昨日。ここで」

 思ったよりも年若い声だった。

 襲の陰からおそるおそる窺うと、むすりと引き結ばれた口元が見えた。

 彫りが深い顔立ちだが、通った鼻筋と柔い線を描く眉がすっきりとした印象を与える。短甲の上からでも精悍な体躯をしているのがよくわかるが、頬や顎の鋭角はまろく、まだあどけない。

 何よりも、そのまなざしが――

 相対する者の胸にまっすぐ飛びこんでくるかのような銀碧ぎんぺきの瞳。

 明度の高い青緑に、波飛沫を思わせる銀の光沢がきらきらと散っている。

 光の加減によって黒ずんだ灰緑色にも、透きとおるような翡翠や瑠璃の色彩にも変化する。まなざしの強さと相俟って、眩暈を覚えるほど鮮烈だ。

「聞こえているのか?」

 青年――というよりも少年と表現したほうがふさわしい相手の問いに、はたとわれに返った。

「覚えはないか。りんどうの花だ」

「……あります」

 一瞬迷ったが、ごまかしきれる自信がなくて白状した。

 すると、少年はふっと口元をゆるめた。

「当たりだ。やっぱり」

 おもむろに腰へ手を伸ばす。

 帯に差された剣に息を詰めるが、かれはその横に差していた花を引き抜いた。

「ほら」

 可憐な鴇羽色の花――なでしこだ。

「りんどう、見つからなかったから」

「……この、なでしこを?」

「あげるよ、あんたに。花、髪に飾っていただろ。似合っていた」

 武骨な衛士にはあまりに不釣り合いな花をまじまじと凝視していると、ん、と促される。反射的に受け取ると、かれはにっこりと笑った。

 なんとも――気が抜けるほど無邪気な表情だった。途方に暮れながらなんとか「ありがとう、ございます」と返すと、うん、と軽く頷く。

「よかった、会えて。おれではないやつに見つかってしまったらと、心配した」

「あの、……あなたは」

 銀碧の瞳がくるりと瞬いた。

水沙比古みさひこ

 少年が冑を脱いだ。ほとんど白に近い茶色の頭髪がこぼれ落ちる。

 無造作にうなじで束ねただけの髪は癖が強く、あちこちうねりながらたくましい首筋にまとわりついている。それを鬱陶しそうに払いのけ、水沙比古と名乗った少年は眉根を寄せた。

「ここには来ないほうがいい」

「なぜ」

「おれがいる、理由がわからないか?」

 花を持つ手が震えた。

「……姉様は?」

「自分の宮でおとなしくしている。このあたりは、大皇の妃の息がかかった連中がうようよ」

「そう。……姉様がご無事なら、よかった」

 明星の逢瀬が継母に知られてしまった――禁を破った私たちがどうなるのか、いまごろ楽しみに舌なめずりしているに違いない。

 現場を押さえられたわけではないのが不幸中の幸いだ。

 もう二度とここで私たちが顔を合わせなければ、逢瀬の事実はないも同然なのだから。

 胸が引きちぎれそうだった。

 ――もう会えない。

 私の愛子、私の片割れ。何より恋しく、だれより愛した、私の明星。

 慟哭が喉元までせり上がる。わななく肩を不意に包みこまれ、体が跳ねた。

 顔を上げた拍子に襲が滑り落ちた。片手で私を抱きこんだ水沙比古は、殿舎のほうを窺いながら木陰に身を潜めた。

「ちょ、ちょっと!」

「騒いだら、ほかの衛士が来る。静かに」

 水沙比古の警告はもっともだった。私は置きどころのない心地で襲を握りしめた。

 しばらく周囲の気配を探っていた水沙比古だったが、やれやれと言わんばかりの顔で樹の幹に背中を預けた。

「悲しいのはわかる。でも、ここで泣いたらだめだ」

 取り繕いさえしない言葉が胸を刺した。

 眼窩の奥がカッと熱くなる。たちまち歪む視界に眉間に力をこめると、ぽんと頭を叩かれた。

「二の媛は、一の媛が大好きなんだな」

「……」

「落ちこむな。機会はある。おれが、作る」

「……どういう意味?」

 二の媛、というなじみのない呼称に戸惑いながら尋ねると、水沙比古はやわらかく笑んだ。

「頼まれた。親父どのから。二の媛の助けになるように」

「親父殿?」

「和多の氏長。おれの養父だ」

 溢れそうな涙が引っこんだ。

 ぽかんと目と口を丸くして固まる私に、水沙比古は首を傾げてみせた。

「むかし、和多の浜辺に流れ着いたおれを親父どのが助けてくれた。水沙みなぎわで命を拾われた男児こどもだから、水沙比古という」

 水沙比古は端的に語った。

 祖父は長らく幽閉されている孫娘を不憫に思っていること。なんとか救いだしてやりたいが、大皇に表立って歯向かうにはリスクが大きすぎること。せめて孫娘の助けとなるよう、養い子の水沙比古を密かに遣わしたこと。

 ぐるぐると思考が混乱する。

 証拠にと水沙比古が示したのは、右手首に巻かれた組紐だった。

 ずいぶんくたびれているが、元は鮮やかな赤色だったのだろうか。細い麻紐を数本用いて、小さな楕円形をふたつ重ねた紋様を連ね、見事に手環を織り上げている。

 繊細な模様は、前世で見かけた熨斗紙の上に飾る水引の結び目に似ていた。

「これ……舟乗りの……護符?」

 楕円形を重ねた紋様は開いた二枚貝を表し、航海の安全を願う祈りがこめれているのだという。和多水軍に属する舟乗りの証だった。

「うん。初めて舟に乗るとき、親父どのが巻いてくれた」

「では、あなたは――本当に?」

 水沙比古は眉尻を垂らした。「信じてくれるか?」

 森がざわめく。

 いつの間にか明度を増した空から光が射して、水沙比古の頭上で踊った。

 ああ、海のいろだ、と思った。

 さんざめくような光を孕んだ銀碧の瞳は、前世の、昼日中の陽射しに照り映える海を思い起こさせた。

 穏やかな晴天の、海原に立つ銀色の波頭。人びとの笑い声を吸いこんで、かいなを広げて横たわる青碧の水平線。

 懐かしい、狂おしい、『私』の記憶の底で光り輝く海のいろ。

 唾を飲みこんだ。涙はこぼれず、なのに泣き腫らしたように鼻腔の奥が痛む。

 笑うこともできず、私はぐしゃぐしゃの顔で頷いた。

「――……信じる、わ」

 すると、水沙比古は嬉しそうに笑み崩れた。

 その表情を目にした瞬間、私の脳裏に強烈なイメージが流れこんだ。

 夢の中に現れた、いまより幼い片割れ。固くつないでいた手を引き剥がされる。

 必死に伸ばした手を掬い上げるのは、褐色の大きな手。

 ……血にぬめる、燃えるような男のてのひらの温度が意識をいた。

 はく、と呼気が震える。

 この子は――いつか人を殺す。

 私のために。私の剣となって、だれかの命を奪う。

「二の媛?」

 おそろしさのあまり硬直していると、水沙比古が怪訝そうに顔を覗きこんできた。

 汚れのないまなざしに、確定した未来ではないのだと気付いた。

 婆ほどの実力者ならまだしも、私の先視など不安定であやふやなものだ。それこそ出会ったばかりの水沙比古の未来を見通すことなど不可能に近い。

 私は水沙比古の右手を掴んだ。

「お願い。ひとつだけ――ひとつだけ約束して」

「ん?」

「あなたを信じる。だから、どうか……私のために、ほかのだれかを……傷つけたり、こ、殺したりするようなことはしないで」

 水沙比古はなんとも言えない顔をした。

「……おれは、気が短いから」

「え」

「郷でも、よく喧嘩を売ってきたやつらを叩きのめしていた。あ、殺したりはしなかったぞ? 親父どのの養い子として恥ずかしくない腕っぷしを見せてやっただけだ」

 舟乗りは気の荒い者が多いと聞く。水沙比古も和多の若衆らしく喧嘩っ早いたちらしい。

「喧嘩は買わないでいいから! 私の陰口を言っているひとたちを全員懲らしめようとしたら、百年あっても足りないわ」

「む」

「私の助けになってくれるのなら、どうか堪えてちょうだい。……姉様に会わせてくれるのでしょう?」

 視線に力をこめて訴えると、水沙比古は困った風に頭を掻いた。

「一発ぐらい殴っても、大目に見てくれ」

 本当に大丈夫だろうか。ため息をつく私をしげしげと眺めていた水沙比古が、「次は、なんの花がいい?」と訊いてきた。

「努力する。でも、すぐに機会がめぐってくるとは限らないから。一の媛に会えるまで、好きな花、また持ってくるよ」

 なんともやさしい口ぶりで、水沙比古は問いをくり返した。

 糸車が回る音を聞こえる。紡ぎだされた糸がまったく新しい糸と絡まり、ゆるやかに縒り合わされていく感覚に頭の芯が痺れた。

 ――この子は、私の運命を連れてくる。

 善きも悪しきも何もかも、遠い外洋から種子を運んでくる波風のように。これから先、私の行く末は水沙比古とともにあるのだと強く感じた。

 凪いだ海を前にした思いで、私は天啓を抱き止めた。

「まつむしそう……」

 息を吸いこみ、ほほ笑みを返す。なでしこの花を胸に抱いて、水沙比古を見つめた。

「まつむしそうの花がいいわ。きれいな紫色の」

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